多賀城市(たがじょうし)は、宮城県のほぼ中央に位置する都市である。旧宮城郡。市の名称は陸奥国府「多賀城」に因む。仙台市の北東側に隣接するため、同市のベッドタウンとしての性格も持ち合わせている。同市への通勤率は43.2%(平成22年国勢調査)。仙台市の北東に位置し、市街地は丘陵地帯上にある。市名の由来は古代国府の多賀城よりとっている。1942年(昭和17年)に海軍工廠が設置されて以降、市南部に工業立地が進んだ。仙台港の開港もこれに拍車をかけている。仙台市中心部より鉄道をはじめアクセスが良好であることから、仙台都市圏の一角をなすベッドタウンとしても位置付けられ、市西部の水田地帯では住宅地の造成が進められている。1980年代にかけては、当時政令指定都市への昇格のための規模拡大を目指していた仙台市からの合併要求もあったもののこれを受け入れずに、市としての“独立”を保った。町は街道(国道45号)沿いに発展してきたため、商店はロードサイド店が多く、“市の中心部が存在しない”という特徴をもつ。仙台市都心部から見て北東郊外(仙塩地区)、仙台港の近くに位置する。市内に点々とする丘陵に立地する柏木遺跡と志引遺跡から旧石器時代の石器が見つかっている。縄文時代前期には金堀貝塚があり、晩期には松島湾に近い橋本囲貝塚などで盛んに製塩土器を使った塩作りが行なわれた。後の多賀城市域に限らず、松島湾沿岸は貝塚と製塩土器・遺構が集中して分布する地域であった。弥生時代には、市内の五万崎地区から石包丁が出土している。枡型囲貝塚で見つかった籾の痕跡を残した土器は、山内清男の論文「石器時代にも稲あり」を生み、考古学史上著名である。市内の低地で水田稲作が営まれたと考えられるが、住居は見つかっていない。古墳時代から竪穴住居の集落が確認できる。山王遺跡と隣接する新田遺跡は一続きの大きな集落で、他に高崎遺跡があり、後に多賀城廃寺が造られる場所にも小さな集落があった。付近には水田跡も見つかっている。海岸の大代地区には漁業に従事する人々が暮らしていたようである。古墳時代の前期には、五万崎地区に方形周溝墓が営まれた。古墳としては小型の円墳である稲荷殿古墳や丸山囲古墳が築かれたが、前者は7世紀後半、後者は年代不明である。稲荷殿古墳が作られた時期には、崖に大代横穴墓群、橋本囲横穴墓群、田屋場横穴墓群といった横穴墓が盛んに作られた。8世紀に市域北西部の丘陵に多賀城が築かれた。多賀城創建時、陸奥国は一時的に石背国・石城国・陸奥国に三分されていた。分割された陸奥国は今の宮城県よりやや狭い範囲で、多賀城はそのほぼ中央にある。それまで郡山遺跡にあった陸奥国府は、神亀元年(724年)に造営なった多賀城に移ったと推定されている。分割は数年後に改められ、ふたたび今の福島県から宮城県に及ぶ広い陸奥国に戻ったが、多賀城はその広い陸奥国の国府であり続けた。多賀城には9世紀初めまで鎮守府も置かれ、出羽国まで含めた東北地方の政治・軍事の中心都市であった。日本全体の中でも、西の大宰府に対応する東の政治都市として重要な位置にあった。城郭の南には町が広がり、当時七北田川が合流して流量が多かった砂押川に橋がかけられ、舟による運送があった。奈良時代から平安時代はじめまで断続的に続いた蝦夷との戦いの中で、宝亀11年(780年)には伊治呰麻呂の反乱で攻め寄せてきた軍勢により略奪放火されたが、すぐに再建された。多賀城は平安時代の10世紀半ばまで機能したが、発掘調査ではその後国府にあたるような規模の痕跡が見つかっていない。にもかかわらず多賀国府は南北朝時代まで依然として史料に現われるので、国府は多賀城のそばで中世都市の遺跡がある仙台市宮城野区岩切あたりに移動したと考えられている。多賀城市で利用されている市内局番は次のとおり。多賀城市域では、塩釜収容局の局番と多賀城収容局の局番が混在している。多賀城市は財政的に豊かである。この財政を潤しているのが、仙台港(仙台新港)の後背地に存在する会社からの法人税である。これは仙台市が仙台港を多賀城市との境界線付近につくったため、仙台港の後背地が多賀城市域になってしまったことによる。すなわち多賀城市は仙台市(仙台港)から大きな恩恵を受けている。市内に集配拠点はなし。市内全域の集配業務は、塩竈市にある塩釜郵便局が担当している。郵便局簡易郵便局ゆうちょ銀行かんぽ生命保険奈良・平安時代に陸奥国府・多賀城がおかれていたため、多くの文化財や名所が残る。注釈出典
出典:wikipedia
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