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岸和田藩

岸和田藩(きしわだはん)は、江戸時代に和泉国南郡岸和田周辺を領有した藩。藩庁は岸和田城(現在の大阪府岸和田市)。岸和田藩は天正13年(1585年)、豊臣秀吉子飼いの部将小出秀政が岸和田城主に封ぜられたことに始まる。入封当初、秀政は4千石を与えられていたにすぎなかったが、文禄3年(1594年)に1万石、翌文禄4年(1595年)には3万石を領するに至った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて秀政と長男吉政は西軍方につき、敗軍の将となった。しかし、次男の秀家が東軍についていたため改易を逃れた。慶長18年(1613年)、3代吉英は5万石に加増されている。元和5年(1619年)、吉英は但馬国出石藩に転封となった。代わって、丹波国篠山藩より松平康重(松井松平家)が5万石で入封し、以後の岸和田は譜代大名の藩地となった。当地は肥沃で、また耕作法の進歩により実収が表高より多く、幕府に願い出て表高は6万石に高直しされた。また、康重は城下町の整備を行った。2代康映は寛永17年(1640年)に家督を継いだ際、甥の康明に5千石、弟の康命と康紀に3千石・2千石をそれぞれ分知した。しかし、康映は藩主となったその年に播磨国山崎藩に転出した。松平康映の妻の父である岡部宣勝が摂津国高槻藩より6万石で入封し、以後は明治維新まで岡部氏の所領となった。宣勝の入封当初、松平氏の代に高直しとなったことに不満を持っていた南郡・日根郡の領民が強訴(寛永の強訴)を行った。これに対し、領民と対話して3千石を領民に分配し、一揆を未然に防いだ。また、岸和田城の改修、寺社の建立や復興を行い、名君と賞賛されている。2代行隆は寛文元年(1661年)、襲封と同時に弟の高成に5千石、豊明に2千石を分知し、以後の表高は5万3千石となった。3代長泰は元禄16年(1703年)、京都の伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願する稲荷祭を行った。これが全国的に有名な「岸和田だんじり祭」の起源と言われている。4代長敬は享保7年(1722年)に「享保備定」と呼ばれる藩の軍制の整備を行い、格式・知行高に基づく陣法を制定した。以後、これが岸和田藩の軍制の基準となった。サトウキビ栽培と製糖業や木綿の栽培と綿布生産などを特産とし、比較的余裕のあった藩財政は、延宝3年(1675年)の飢饉や、宝永4年(1707年)の地震等により18世紀半ばになると窮乏するに至った。その後、歴代藩主は財政再建のため様々な藩政改革を行ったが、目立った効果もなく幕末に至った。天保8年(1837年)には大塩平八郎の乱が起こり、岸和田藩は大坂城の守備に当たった。11代長発は嘉永5年(1852年)に藩校「講習館」を開いた。次の藩主長寛は慶応2年(1866年)に藩校を増築し「修武館」と改称した。また、幕末の動乱の中で藩論は勤王・佐幕両派に分かれたが、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争には新政府軍として参戦した。明治元年(1868年)の藩領村数は南郡52・日根郡43。明治4年(1871年)、廃藩置県により岸和田県となる。その後、堺県を経て大阪府に編入された。明治11年(1878年)、元の藩主長職の依頼で新島襄がキリスト教布教に訪れる。なお、最後の藩主である長職は、廃藩置県以後は明治政府の要職に就き、外務次官・東京府知事・第2次桂太郎内閣の司法大臣などを歴任した。藩主家は明治17年(1884年)に子爵となり華族に列した。外様 30000石→50000石 (1600年 - 1619年)譜代 50000石→60000石→50000石 (1619年 - 1640年)譜代 60000石→53000石 (1640年 - 1871年)上記のほか、大鳥郡1村、和泉郡1村、南郡4村、日根郡5村の幕府領を預かり、大鳥郡1村が堺県に、残部が本藩に編入された。

出典:wikipedia

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