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後藤宙外

後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日(慶応2年12月22日) - 1938年(昭和13年)6月12日)は、明治後期から昭和初期に活躍した小説家、評論家。本名寅之助。1867年1月27日(慶応2年12月22日)、出羽国仙北郡払田村(現在の秋田県大仙市払田)に三郎右衛門、サダの次男として生まれる。なお、戸籍上の誕生日は慶応2年12月22日だが、宙外自身は12月23日、12月24日の二様に記述している。後藤家は元豪族の旧家であったが、三郎右衛門の代に没落していた。1879年(明治12年)、遊学のため兄と上京するが明治19年(1886年)に帰郷。1889年(明治22年)再上京し、東京専門学校(現早稲田大学)専修英語科に入学。その後文学科に転じ、卒業論文に山田美妙、尾崎紅葉、幸田露伴を論じる。1894年(明治27年)に卒業後は、坪内逍遙の推挽により「早稲田文学」彙報欄の記者となり、1895年(明治28年)、「早稲田文学」に『ありのすさび』を発表して文壇デビューを果たした。1897年(明治30年)に島村抱月、小杉天外、伊原青々園、水谷不倒と共に「丁酉文社(ていゆうぶんしゃ)」を結成、「新著月刊」を刊行し、評論集『風雲集』を共著した。1900年(明治33年)、春陽堂に入社し、「新小説」編集主任となる。1901年(明治34年)5月、田園文学の実践として福島県北会津郡猪苗代湖畔に家を建て、そこから月に1週間ほど上京して編集の事務にあたるという生活を、1907年(明治40年)10月鎌倉に移り住むまで続けた。「新小説」には正宗白鳥の『寂寞』、夏目漱石の『草枕』、田山花袋の『蒲団』、岩野泡鳴の『耽溺』などの問題作が掲載された。作家としては、明治30年代前半(1900年前後)あたりから、尾崎紅葉、泉鏡花らとの親交を深め、『ありのすさび』のような《深刻小説》や、政治小説『腐肉団』(1899年/明治32年)などの《社会小説》傾向の作風から、硯友社風の作風に転じ、言文一致による写実文学の潮流には最後まで与しなかった。1907年(明治40年)、田山花袋が『蒲団』を発表すると、『非自然主義』(1908年/明治41年)を書いて反自然主義の立場を取る。1909年(明治42年)1月、鎌倉から東京市芝区へ転居後、同年2月より「寸鉄」という欄を「新小説」に設けて反自然主義の旗印を掲げ、同年4月には泉鏡花や登張竹風、笹川臨風らと「文芸革新会」を結成、各地で講演会を催したが、時代の流れに逆らうにとどまった。1910年(明治43年)、春陽堂を退社してのちは、次第に文壇から遠ざかった。1914年(大正3年)5月に秋田時事社長として秋田に赴任、秋田市保戸野に居住、翌1915年(大正4年)4月、同社の社長を辞任し、仙北郡六郷町大町に移り住んだ。1919年(大正8年)春には推挙されて六郷町長に就任し、2期8年務めた。この間、東北地方の考古学・史学の研究に没頭し、払田柵跡に注目、調査研究につとめる。1929年(昭和4年)から翌年にかけて『仙北郡高梨村拂田柵址略図』を作成した。1938年(昭和13年)6月12日、福島県猪苗代湖畔の別荘で脳卒中により死去。文学者としての宙外の活動は、概ね、以下の3期に分けられる。

出典:wikipedia

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