倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、倭および倭人の指し示す範囲は時代と研究によって変遷する。史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだ時代もあったという意見もある。倭国は「大倭国」「大和国」とも呼称され、7世紀後半には国号を日本に改めた。中国人歴史学者の王勇によれば中国の史書に現れる倭人の住居地は初めから日本列島を指すとしている。『古事記』や『日本書紀』では倭(ヤマト)日本(ヤマト)として表記されている。魏志倭人伝では日本は邪馬台国と音文字で表記されている。また『日本書紀』では夜摩苔つまりʎia mwɑ də もしくはjia mo tʰaiと表記されていた。日本の日の発音も昔の中国ではȵi̯ĕt jiətなどであり、今の中国の発音のriよりも今の日本の日の発音に近いことがわかる。つまり山のふもとなどではなく記紀が示しているように元から日もと(日本)であった可能性の方が高い。奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる。8世紀に「大倭郷」に編成された奈良盆地南東部の三輪山麓一帯が最狭義の「ヤマト」である。なお、『日本書紀』には新益京(藤原京)に先だつ7世紀代の飛鳥地方の宮都を「倭京」と記す例がある。737年(天平9年)、令制国の「ヤマト」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力の弱まった747年(天平19年)には再び「大倭国」の表記に戻された。そして757年(天平宝字元年)橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。「大和」の初出は『続日本紀』(天平宝字元年(757)12月壬子(九日)「大和宿祢長岡」)である(但し、同書にはそれ以前に、追書と思われるものが数カ所ある)。「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形。解字は「ゆだねしたがう」「柔順なさま」「つつしむさま」、また「うねって遠いさま」。音符の委は、「女」と音を表す「禾」で「なよなかな女性」の意。中国の古代史書で、日本列島に居住する人びとである倭人を指した。説文解字では「従順なさま。詩経に曰く“周道倭遟(周への道は曲がりくねり遠い)"。」と解説されている。康熙字典によれば、さらに人名にも使用され、例えば魯の第21代王宣公の名は「倭」であると書かれている。『隋書』ではとも記し、『隋書』本紀では「倭」、志・伝で「」とある。「」は「倭」の別字である可能性もあるが詳細は不明である。のち和と表記される。奈良時代中期頃(天平勝宝年間)から同音好字の「和」が併用されるようになり、次第に「和」が主流となっていった。例えば鎌倉時代の徒然草には「和国は、単律の国にて、呂の音なし」(199)とあり、また親鸞も和国と記している。現代の日本では、倭の字はいくつかの場面で使われている。人名用漢字の一つとして選ばれている他、東京には「倭」という手作り弁当のチェーン店がある。公立学校として三重県津市と長野県中野市に倭小学校が存在する。奈良県には北倭保育園(私立)が存在する。日経ビジネスオンラインでは、海外で働く日本人に対し、華僑という言葉を参考にして「倭僑」という言葉を提案した。中国には貴州省清鎮市に犁倭という地名が存在する。日本列島に住む人々が倭・倭人と呼称されるに至った由来にはいくつかの説があるが、いずれも定説の域には達していない。江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べ、他にも「倭」を蔑称とする説もあるが、「倭」の字が悪字であるかどうかについても見解が分かれる。『魏志倭人伝』や『詩経』(小雅、四牡)などにおける用例から見て、倭は必ずしも侮蔑の意味を含まないとする見解がある。それに対して「卑弥呼」や「邪馬台国」と同様に非佳字をあてることにより、中華世界から見た夷狄であることを表現しているとみなす見解もある。なお、古代中国において日本列島を指す雅称としては瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)という呼称がある。瀛州とは、蓬莱や方丈ともに東方三神山のひとつである。冒頭で掲げたように、「倭」には日本列島および奈良盆地という2つの意味があるが、ここでは広義の「倭」つまり日本列島における小国分立時代のクニグニについて若干ふれる(古墳時代を通じて徐々に小国連合が成立して「倭国」というひとつのまとまりが生まれてからについては「倭国」を参照のこと)。『魏志』倭人伝にみられる「奴国」は、福岡市・春日市およびその周辺を含む福岡平野が比定地とされている。この地では、江戸時代に『後漢書』東夷伝に記された金印「漢委奴国王印」が博多湾北部に所在する志賀島の南端より発見されている。奴国の中枢と考えられているのが須玖岡本遺跡(春日市)である。そこからは紀元前1世紀にさかのぼる前漢鏡が出土している。「伊都国」の中心と考えられるのが糸島平野にある三雲南小路遺跡(糸島市)であり、やはり紀元前1世紀の王墓が検出されている。紀元前1世紀代にこのようなクニグニが成立していたのは、玄界灘沿岸の限られた地域だけではなかった。唐古・鍵遺跡の環濠集落の大型化などによっても、紀元前1世紀には奈良盆地全域あるいはこれを二分、三分した範囲を領域とするクニが成立していたものと考えられる。
出典:wikipedia
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