猪谷 千春(いがや ちはる、1931年5月20日 - )は、日本のスキー選手、実業家。1956年のコルティナダンペッツォオリンピックで日本人としてはじめて冬季五輪メダリストとなった。その後、国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、理事及び2009年まで副会長を務めた。日本オリンピック委員会(JOC)でも理事を務め、日本オリンピアンズ協会でも副会長を務めている。また、実業家としても活躍し、現在AIU保険会社名誉会長である。北海道国後郡泊村出身。元妻の晶子はベースボール・マガジン社を創設した池田恒雄の娘。ハフィントン・ポスト日本版勤務の猪谷千香は娘。2011年6月23日、日本体育大学より、名誉博士号(IOC委員、副会長など歴任、後進の指導などに尽力により)を授与される。授与は、5人目である。当時のAIU保険会社の創始者のコーネリアス・バンダー・スターが「このまま日本に居たら入賞も出来ない。アメリカに来れば君はメダルを取ることが出来るだろう。お金を出すからアメリカに来ないか。」と申し出る。父・六合雄の指導でスキーを始め、1956年に開かれたコルティナダンペッツォオリンピック男子回転競技で日本の冬季オリンピック史上初の銀メダルを受賞。この事は後年自らの自伝を元に製作されたアニメーション映画「栄光へのシュプール」に描かれた。父・六合雄は千春のために山小屋の管理人や営林署勤務などをして日本全国雪を求めた。テクニックは千島時代に覚えたもので、この時すでに千春に教えるものはなかったと後に六合雄は著書に記している。親代わりだったコーネリアス・バンダー・スターの会社、AIU保険会社を手伝う事になる。1959年にAIU保険会社に入社し、日本支社長、AIU日本法人の会長などを経て現在名誉会長。1982年から国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、理事を2回にわたり経験(1987年 - 1991年と1996年 - 2000年)。長野オリンピックの招致活動から開催に至るまでを支えた。2005年シンガポールで開かれたIOC総会で副会長に当選。2006年のトリノオリンピックでは、副会長として現地入り。男子回転の表彰式でプレゼンターを務めた。この際、日本の皆川賢太郎が大健闘。終盤まで3位につけ、日本人で唯一のアルペン競技メダリストである猪谷の手での同胞へのメダル授与が実現するかと思われたが、最終競技者が皆川を上回ったためこれは実現しなかった。しかし湯浅直樹も7位に入ったため日本アルペン史上初となったオリンピック同一種目の複数入賞を見届けることとなった。2011年12月、80歳定年制によりIOC委員を退任し、名誉委員に就任。1994年発足された日本トライアスロン連合の初代会長に就任し、15年に渡り同職を務めた。2012年8月より、東京都スキー連盟会長に就任。2014年10月、日本障害者スキー連盟会長に就任。同名のアニメ絵本が同じ年に岩波書店から出版されている
出典:wikipedia
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