本柳 和也(もとやなぎ かずや、1976年11月5日 - )は、埼玉県越谷市出身の元プロ野球選手(投手)。江川卓のファンだった父親の影響で野球を始めた。運動神経抜群で、少年野球チームでは遊撃手と投手兼任、越谷市立富士中学校では中堅手で先頭打者を務めたが、本人は投手を希望していた。中学3年時、甲子園で春日部共栄高校の小柄な投手が好投する姿を見て同校への進学を決意した。高校時代は、土肥義弘の控え投手。2年時にチームは甲子園で準優勝するがベンチ入りならず、3年夏はベンチ入りも埼玉大会の決勝で浦和学院高等学校に0-7で敗れ甲子園出場を逃した。その後、城西大学、日本通運へ進んだ。日通の監督・杉本泰彦から心構えや投球術を学び、投手としての幅を広げた。2001年のドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブから9巡目指名を受け入団(契約金2000万円・年俸600万円)。ルーキーイヤーのはわずか4試合のみの登板だったが、翌には40試合に登板し5勝をあげ、プロ初完封勝利も記録した。8月1日の福岡ダイエーホークス戦ではリリーフ登板し、プロ野球1試合ワースト記録の29失点目を記録した。は投球回数134・2/3で自身初の規定投球回数到達。しかし6勝11敗と大きく負け越し、防御率も5.61と振るわず、6点台だった斉藤和巳に次ぐ悪さだった。4月18日の大阪近鉄バファローズ戦(大阪ドーム)で先発を務めたが、試合前のスタメン発表で誤って「ほんごう」とコールされた。2005年からはオリックス・バファローズと契約。は故障のため12試合の登板にとどまったが、防御率は1.40の好成績を収め、プロ初セーブも記録した。は先発・リリーフで25試合に登板、3勝2敗・防御率3.69の成績をあげる。7月10日のロッテ戦で、ベニー・アグバヤニに死球をぶつけてあわや乱闘寸前までになったものの、その後ベニーが一塁ベンチの裏側まで来て、謝罪し握手を交わすというエピソードがあり、本柳は「ベニーはめちゃくちゃイイ選手です」と語っている。はリリーフに専念。開幕から勝ちパターンの中継ぎとして定着し、49試合に登板して防御率3.21と安定した成績を残した。も開幕から勝ちパターンの中継ぎとして活躍。チーム2位の58試合に登板し、特に交流戦では24試合中17試合に登板するタフさを発揮した。しかし、連投過多からか夏場以降は徐々に調子を落とし、終盤は3ランや満塁弾を浴びるケースが多々あった。8月中旬は2点台半ばだった防御率も、最終的には4.20へと悪化させてしまった。も開幕一軍入り。しかし、オープン戦から不調をひきずり、4月20日には登録抹消。6月10日の巨人戦で、2006年8月9日の西武戦以来、1036日ぶりに先発登板を果たしたが、2回3失点で敗戦投手に。結局は僅か6試合の登板で、防御率16.88と散々な成績に終わった。はついに一軍登板が無くシーズン終了後の10月2日、戦力外通告を受けた。現役引退後は会社員へ転身し、京都府舞鶴市に在住していたが、2015年より、元オリックス・高見澤考史が代表を務める有限会社アーデルバッティングドームに勤める。なお2013年に元同僚の塩谷和彦から現金をだまし取られる被害にあっていたことが判明・報道された。
出典:wikipedia
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