赤瀾会(せきらんかい、)は、日本で初の女性による社会主義団体。「赤瀾」とは赤い波(さざなみ)を意味する。名称は、社会主義運動の流れに小さなさざなみ程度は起こせるのではないかということでつけられた。一部のインテリ女性による運動ではなく、労働者階級の女性にも呼びかけをしたのが特徴。さざなみどころか、戦前の日本においての社会主義運動と女性解放運動に大きなうねりを呼び起こす役割を担った。前身は、時計工組合とアナキスト系の思想家グループ北風会の人々が集まって作った自主的な研究グループ、北郊自主会。1921年4月21日に「私達は私達の窮乏と無知と隷属に沈淪(ちんりん、深く沈むこと)せしめたる一切の圧制に対して、断乎(だんこ)として宣戦を布告するものであります」と宣言し、これを綱領に定めて結成された。設立世話人は、九津見房子(30歳)・秋月静枝(年齢不詳)・橋浦はる子(22歳)・堺真柄(18歳)の4人で、顧問格として山川菊栄(30歳)と伊藤野枝(26歳)が加わった(年齢はいずれも結成当時のもの)。参加者はほとんどが男性の社会主義者を身内にもつ女性で、設立当初は社会主義同盟員の家族を中心に42名だが大部分は名簿上の会員で、実働は十数名と言われている。会の発足は、治安警察法5条5項(女子の政治結社加入禁止)の規定で、前年に発足した社会主義同盟に女性が参加できなかったからだと言われている。結成直後の第二回メーデー(1920年5月1日)に畳3分の2くらいの大きさで「赤瀾会」の字を書いた旗と、それよりひとまわり小さな RW ("Red Wave"の略)のロゴマークの旗(いずれも黒地に赤く縫いつけた)を掲げたデモで華々しく登場、労働者から大いに注目を浴びたが、警察と大立ち回りを演じて全員検束、マスコミに大々的に報道されジャーナリズムの恰好のえじきとなり、翌日の新聞各紙で社会面トップ記事に取り上げられて有名となる。とくに堺利彦の娘である18歳の堺真柄は、その若さゆえにマスコミの寵児となった。当時の一般人には、メーデーへの参加は検束を覚悟の上のもので、女がデモに参加することなど夢にも考えられなかったからであった。翌年のメーデーのデモでは、全国各地で女性の参加者が見られるようになる。のちに有名となる綱領は、前年、女学校を卒業したばかりの真柄によって書かれた。会は、街頭活動を活発に行ない、以下のように講演、講習を開催。社会主義の立場で女性解放思想の普及に努めたが、リーダー格の九津見房子の恋愛による東京からの離脱(8月か9月頃)、高津多代子への弾圧お目出度誌事件(8月31日検束、9月15日再拘引、12月7日に証拠不十分で釈放)、10月12日の軍隊に反戦ビラを配る「暁民共産党事件」(軍隊赤化事件)容疑で堺真柄、仲宗根貞代が収監(12月6日入獄、翌1月9日保釈出獄、1923年出版法違反で禁固4ヶ月が確定し下獄)されるなど、おもなメンバーの離脱・検挙・起訴・投獄によって壊滅状態となり、自然解消に向かうこととなった。赤瀾会のメンバーは、一足先に発足していた新婦人協会(平塚らいてう、市川房枝、奥むめおらが参加)に対して、強い対抗意識を持っていた。婦人参政権(治安警察法5条改正が当面の課題)実現と花柳病(性病)感染男子との結婚規制という新婦人協会の運動課題はブルジョワ的、中産階級的で、生ぬるいと感じられたからだという。エリート女性進出による男性を見下した参政権論に反発を感じる旨の発言を、メンバーのひとりであった堺真柄(近藤真柄)が『わたしの回想(下)』書き残しており、また山川菊栄は、雑誌『太陽』大正10年7月号で『新婦人協会と赤瀾会』と題する文章を発表し、協会の活動を「労して益なき議会運動」「ブルジョア婦人の慈善道楽」と批判した。現行社会制度の枠の中だけで女性解放を唱えて運動するのは無意味だというのである。残った会員に新しい会員を加え、1923年3月8日に日本初の国際婦人デー(国際女性デー)"International Women's Day" の集会を開催。集会そのものは警察に解散命令を受けるが、社会主義婦人運動はこの日を期して結成された山川菊栄らの八日会に引き継がれた。集会の主催は、形の上では赤瀾会となっているが、実質は八日会であると言ってよい。
出典:wikipedia
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