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ファイティング原田

ファイティング原田(ファイティングはらだ、男性、1943年4月5日 - )は、日本の元プロボクサー。本名は原田 政彦(はらだ まさひこ)。ファイティング原田ジム会長。第10代日本プロボクシング協会の会長で現在は同顧問。プロボクシング・世界チャンピオン会最高顧問。なお、現在は「ファイティング」はJBCで欠名扱いで現役選手が名乗る事は不可能である。東京都世田谷区出身。実弟も牛若丸原田のリングネームでプロボクサーになった。世田谷区立深沢中学校在学中に友人に誘われ、米穀店に勤務しながら猛練習で知られる笹崎ボクシングジムに入門。ラッシングパワーを武器に、日本人で初めて世界フライ級・バンタム級の2階級制覇をした名王者。海外の多くの専門誌が「歴代最も偉大な日本人ボクサー」として原田の名前を挙げている。1960年、ライバルの海老原博幸から二度のダウンを奪って、新人王に輝く。その後も無傷の連勝を25まで伸ばした。1962年10月10日、19歳で世界フライ級王座に初挑戦。当時の世界フライ級王者の「シャムの貴公子」ポーン・キングピッチ(タイ)への挑戦が内定していた、同級1位の矢尾板貞雄が突然引退し、10位にランクされたばかりの原田に挑戦のチャンスが回ってきた。蔵前国技館で行われた試合は、原田が左ジャブとフットワークでポーンをコントロールした。11R、相手コーナーに追い詰め、80数発もの左右連打を浴びせ、ポーンはコーナーロープに腰を落としてカウントアウトされた。新王者誕生に無数の祝福の座布団が舞った。しかし、3か月後の1963年1月12日、バンコクで行われた再戦で、今度はポーンが試合巧者ぶりを発揮し、際どい判定ながら王座陥落。原田は減量苦から、この後、バンタム級に転向する。バンタム級に転向した原田は、1963年9月26日、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦する。5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開。ところが、6R、原田の単調な動きを見切ったメデルに、得意のカウンターをヒットされ3度のダウンの末にKO負けした。原田はすぐに再起し、1964年10月29日、東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。世界バンタム級王者・エデル・ジョフレ(ブラジル)は、「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名通り、世界王座を獲得した試合、8度の防衛戦にいずれもKO勝ちし、その中には、青木勝利、原田にKO勝ちしたジョー・メデルも含まれていた。強打者であり、パンチを的確にヒットさせ、ディフェンスも堅い実力王者だった。原田の猛練習は、取材していた新聞記者が、疲労で床にへたり込む程の激しさだったと言う。ジョフレは妻と息子を連れて来日した。試合前の予想は、ジョフレの一方的有利、原田が何ラウンドまで持つか、という悲観的な見方がほとんどだった。1965年5月18日愛知県体育館、開始のゴングを聞いた原田は、当初今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。かなりの大博打を打ったと言えるが、果たして原田はこの博打に勝った。原田のラッシュを予想した作戦を組み立てていたであろうジョフレに、明らかに戸惑いが見られ、その端正なボクシングに狂いが出始めたのである。そして、4R、ジョフレはリング中央で原田との打ち合いに応じたが、パンチにいつもの的確性がなく、原田のパンチが勝っていた。そして遂に、ジョフレ唯一の弱点である細いアゴを、原田の右アッパーが打ち抜いたのである。これでロープまで吹っ飛ばされたジョフレに、原田はラッシュを仕掛ける。だが、ジョフレもよく追撃打をブロックでしのぎ、次の5Rには、強烈な右をヒットし、原田はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。だが、練習量豊富な原田は、次の回から立ち直り、終盤は一進一退の展開を迎える。そして遂に15Rの終了ゴングを聞いた。勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで原田は世界王座奪取に成功した。日本側の関係者でさえ、どちらの勝ちかで割れた程に際どい勝負であった。レフェリーのロスは、現役時代、原田そっくりのラッシャーであり、それが原田に有利に作用したのでは、という噂もあったが、後の1966年5月31日、原田は2度目の防衛戦でジョフレと再戦、前回以上の差で判定勝ちし、完全に決着をつけた。体重が増えやすい体質の原田には、デビュー当時から常に減量苦が付きまとった。フライ級のリミット50.8kgに対し、原田の体重は普段65kgを超えていた。試合が近づくとジムの水道は、シャワーの栓も含め、全て針金で固定され封印された。ついうっかり水を口にしないように、との配慮であるが、原田はこの時の減量地獄を「水洗トイレの水さえ飲みたくなった」と形容している。このため、フライ級でデビューした原田は、バンタム級、フェザー級と階級を上げていくことになった。1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)への挑戦が決まった。王者の地元シドニーでの敵地開催。原田の圧倒的不利は否めない状況だったが、原田はこの試合で2R、11R、14Rと3度のダウンを奪ってみせる。中でも14Rに奪ったダウンは強烈で、このダウンで王者のファメションは半ば失神状態に陥っていた。誰の目からも10カウント以内に立ち上がれそうにないことは明白だったが、この試合のレフェリーを務めていた元世界フェザー級王者のウィリー・ペップは、あろうことかカウントを途中で放棄すると失神していたファメションを無理やり立たせ試合再開を促したのだった。続く15Rを王者は必死の防戦で逃げ切り勝敗は判定にもつれ込まれた。それでも3度のダウンを奪った原田の勝利は揺るぎないものと思われたが、ここでもレフェリーを務めたペップは判定の結果が出る前に両者の腕を上げた。つまり、「引き分け」で王者の防衛ということだった。この結果に、地元でありながら王者とペップにはブーイングの嵐が起こる。逆に判定に不服を申し立てることも無く、潔く健闘を称えあった原田には惜しみないスタンディング・オベーションが贈られるという始末だった。しかし、これだけでは終わらなかった。レフェリーのペップは「引き分け」という判定を下したが、この時の試合のジャッジもペップ自身が一人で務めており(※当時の世界戦のルールで、判定は開催地ルールにより下すと決められており、当時の開催地シドニーのニューサウスウェールズ州では、この世界戦の判定は主審1人という英連邦ルールで判定を下すと試合前に定められていた)、しかもスコアシートを採点した結果、なんと「原田の判定負け」という結果だったのだ。当時の地元スポーツ新聞にはリング上で失神している王者の写真がデカデカと掲載されていたことから、いかに地元オーストラリアにとっても不名誉な勝利であったかが伺える。結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」だった。翌年、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京にて再戦(日本で行われた初のWBC世界タイトルマッチ)を行ったが、原田はいい所が無いまま14RでKO負けし、この試合を最後に引退した。引退後は日本テレビ「ワールドプレミアムボクシング」(ほとんどは浜田剛史とのコンビ)などで解説者として活躍する一方、トーアファイティングジム(現・ファイティング原田ボクシングジム)にて後進の指導にあたった。ジムの開設資金は東亜友愛事業組合が出した。当時のジムは麻布十番のビル3階にあったが、同組合の事務所が同じビルの2階にあった。1972年、毎日放送「変身忍者 嵐」31話「妖怪人形!ドーテムの呪い!!」にゲスト出演。劇中で「少林寺拳法師範・ファイティング原田!」と名乗りを上げる。1974年、日本テレビ「傷だらけの天使」18話「リングサイドに花一輪を」にゲスト出演した。1989年、木村七郎らの推挙で日本プロボクシング協会(当時・全日本ボクシング協会)の会長に就任した。トクホン真闘などの妨害工作も有ったが、歴代の会長では初めてとなる元世界王者の就任となる。1995年春金平正紀らの支援を受けた笹崎ジムの先輩金子繁治が会長選に出馬、3期目の当選を果たしたもののその後民事訴訟へ至る。2005年1月、「高血圧性脳内出血」で倒れ、手術を受けたが、現在は回復している。2006年3月25日には、WBCバンタム級タイトルマッチ長谷川穂積VSウィラポン・ナコンルアンプロモーション戦のテレビ中継の解説者として、久々に元気な姿を見せた。2007年春に日本プロボクシング協会会長選挙に輪島功一、輪島の後任となる東日本協会会長選挙に具志堅用高が出馬表明したが結果的に取り止め(出馬断念)となり、原田・大橋秀行が無投票当選。2010年の任期満了を以って7期21年務めた日本プロボクシング協会会長を勇退(後任は大橋ジム・東日本協会会長大橋秀行)。以降は協会顧問に就任する。世界チャンピオン経験者により同年に発足されたプロボクシング・世界チャンピオン会では最高顧問に就任。世界ボクシング殿堂入りを果たした、最初の日本ボクサー(以降、ジョー小泉、本田明彦と続く)。なお、原田は『国際ボクシング名誉の殿堂博物館』入りも果たしている。国内タイトル世界タイトル※バンタム級の両王座はWBA・WBC未分化の時期における同一の王座である。

出典:wikipedia

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