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伊勢佐木町

地名としては伊勢佐木町字1丁目~7丁目からなり、伊勢佐木町通りに沿って北東 - 南西方向に約1.4km続く。北東端から地上は、吉田橋を抜けると馬車道につながり、地下は、マリナード地下街があり、馬車道や関内駅につながっている。南西端は南区に接する。現在1丁目と2丁目は「イセザキモール」(全面歩行者天国)、3丁目~7丁目は「伊勢佐木町商店街」と呼ばれる。現在の読みは「いせざきちょう」であるが、当初は「いせさぎちょう」と呼ばれた。命名は諸説あり、当地の道路建設費用を寄付した三名(伊勢屋中川次郎兵衛、佐川儀右衛門、佐々木新五郎)にちなむとも、伊勢佐木町起立前に興行場を開場した伊勢文蔵・佐々木次年の両名にちなむともいわれている。元々は入江を埋めた吉田新田の北一つ目沼地。沼地は寛文11年(1671年)までには埋め立てられ、耕地となっていた。明治2年(1869年)には当地付近に港崎遊郭が移転し、吉原町が起立、明治5年(1872年)にはその遊郭も高島町に再移転し、区画を整理して明治7年(1874年)5月20日伊勢佐木町が起立した。大区小区制では第1大区4小区に属し、明治11年(1878年)横浜区に編入され、明治22年(1889年)横浜市制施行で同市の1町となる。昭和3年(1928年)松ヶ枝町、賑町、長島町の全域と長者町、久方町、末吉町の各一部を編入して南吉田橋際まで町域が拡大した。明治時代から商店などが集中したため、現在でも明治創業の店舗が残っている。明治6年(1873年)に興行場が開かれ、大相撲も催される興行街となる。明治15年(1882年)に遊郭が高島町から真金町へ再々移転すると、関内から遊郭への通り道となり、伊勢佐木町通りを中心に繁華街へ発展。明治44年(1911年)にはドイツ人貿易商・ヴェルダーマンが日本最初の洋画封切館であるオデヲン座を開館、大正初期までには東京・浅草や大阪・千日前と並ぶ大繁華街となり、「ザキブラ」「イセブラ」なる言葉も生まれた。関東大震災で大被害を受けたが復興は早く、昭和に入ってなおも大いに栄えるが、太平洋戦争で被災、更に戦後は占領軍によって接収される。昭和26年(1951年)返還が順次開始され、復興が本格化したのは昭和30年代に入ってからである。昭和53年(1978年)からは恒久的なかたちでの歩行者天国が実施されている。また近年では、ミュージシャンのゆずがアマチュア時代にストリートライブをよく行っていた場所として知られている。昭和35年(1960年)頃から、砂利置き場であった横浜駅西口の本格的な大規模開発がはじまり、昭和45年(1970年)頃には、横浜駅エリアが横浜最大の繁華街としての地位を確立した。それにともない、伊勢佐木町の繁華街としての機能は徐々に低下し、現在では横浜駅エリアに大きく水をあけられている。

出典:wikipedia

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