LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

南町通り (仙台市)

南町通(みなみまちどおり)は、仙台市都心部を東西に通じる道であり、JR仙台駅西口における主要幹線道の1つ。全線が仙台市青葉区内にある。片側2車線。街路樹はトウカエデ。かつて地元では「みなんまちどおり」とも発音していた(参照)。1932年(昭和7年)から1945年(昭和20年)までは改名して多門通(たもんどおり)といった。占領期には、進駐軍が「メイプル・ストリート」と呼んだ(参照)。現在の南町通には、いくつかの定義がある。仙台駅前では、仙台市道青葉1165号・南町通1号線における仙台駅前交差点からバスプール前交差点までの区間のどこに東端を置くかに違いがある。南町通と見なされなかった仙台市道青葉1165号・南町通1号線の区間は駅前通と見なされる。現在の南町通が、江戸時代の仙台城下町においてどのような名称であったかは不明。ただし、現在の南町通と同じ道筋が17世紀からあったことは古地図から分かっており、道幅は1間(1.8m)ほどの細い道であった。推定1664年(寛文4年)の『城下絵図』および推定1669年(寛文9)の『仙台城下絵図』では、東一番丁から東七番丁までの区間で確認出来る。東一番丁より西には、やや筋違いに南側から南町を通り過ぎて本荒町まで道が見られる(南町は芭蕉の辻から奥州街道沿いに南に延びる町で、現在の国分町通の一部にあたる)。推定1678年(延宝6年)- 1680年(延宝8年)の『仙台城下絵図』では、東端が東十番丁まで延長されているのが分かり、その先は寺社地を縫って榴岡天満宮門前に至る道が見受けられる。1833年(天保4年)の『御城下町割絵図』でも延宝年間の『仙台城下絵図』と同様な道筋が見られるが、東二番丁から東七番丁までの区間では四ツ谷用水が流れていた様子が描かれ、また、南町を横切るやや筋違いの道は南町~東一番丁の区間のみが描かれている。東一番丁~榴岡天満宮門前の道筋は、現在においては、JR仙台駅の西側では南町通だが、仙台駅の東側では宮城野通の1本北の細道(該当する仙台市道は、宮城野1400号・榴岡二丁目2号線、宮城野1403号・榴岡三丁目2号線、宮城野1407号・榴岡三丁目6号線、宮城野1424号・榴岡五丁目6号線など)として残る。なお、江戸時代の躑躅岡(現表記は榴ヶ岡。榴岡天満宮および榴岡公園辺りを指し、宮城野撓曲と呼ばれる撓曲丘陵)は、城下町東郊にあって遊興の地とされていた場所である。 1887年(明治20年)、東六番丁との交差部付近に日本鉄道・仙台駅が設置された。これを機に、道幅が9間(約16.2m)に広げられ、東一番丁までだった西端が1町西の南町まで延長された(このとき、やや筋違いだった南町~東一番丁間の細道は当道の一部になったと見られる)。江戸時代の仙台城下町では、「~通」と命名された道は「~に繋がる道」という意味だったから、仙台駅前から仙台区の中心地の1つである南町に繋がる道として「南町通」と命名された(仙台市の歴史的町名等活用推進事業で採用された南町通の定義)。なお、南町より西側のやや筋違いの道は、加川横丁(あるいは香川横丁)として残った(この当時の南町通と加川横丁を合わせたものが仙台市道の定義)。1891年(明治24年)に大内屋の8代目、大内源太右衛門が柳と桜の街路樹を植えた。仙台における街路樹の始まりである。1926年(大正15年)には仙台市電が開通し、この通りを1976年(昭和51年)まで通ることになった。市電開通に際して、道幅は12間(約21.8m)に広げられた。このとき、南町より西の加川横丁も同じ幅に広げられ、南町通に組み込まれ、さらに西側に道を新設して片平丁(当時。現在は五ツ橋通)に接続した(市民の認識における南町通の定義)。以上のような仙台駅設置と市電開通により、南町通は、20世紀前半の仙台で中心的な街路の1つであった。仙台に置かれた陸軍の第二師団は、満州に移駐するために1931年(昭和6年)4月仙台駅から出征した。駐屯地から各部隊が通った道はまちまちであったが、多門二郎師団長以下の師団本部は大町から芭蕉の辻で曲がって南町通を通った。その年のうちに満州事変が起こり、第二師団も戦った。師団が満州から引きあげるに際し、仙台市はその帰還を「凱旋」として歓迎する計画を立てた。発表された通路は名掛丁から大町を経て大橋を通る道と、南町通である。1932年(昭和7年)に東北帝国大学(現在の東北大学)の5人の博士が師団長の功績を記念して多門通または多門町を仙台に設けることを市長に提案し、それを知った南町通の住民が改名を希望した。仙台市会がこれを認めて1月7日に改名を承認し、8日の師団凱旋を迎えた。当時東北帝国大学の講師をしていた歴史学者喜田貞吉は、個人の名を冠することに反対し、多門の自宅に談じ込んだ。話を聞いた多門はその通りと同意したが、それで市会の決定が覆ることはなかった。1945年(昭和20年)に仙台に進駐したアメリカ軍は、南町通を「メイプル・ストリート」と呼んだが、市民は用いなかった。戦後、南町通の名が復活した。戦後の復興計画で、青葉通、広瀬通、定禅寺通が新たな主要道として整備された際、青葉通が最大幅50mで新設された一方で、南町通の拡幅は26mにとどまった。戦後も南町通は商業地として賑わうが、どちらかといえば官庁やオフィス中心であり、中心街路の地位は前記3つの通りに譲った。多門通が消えた後も、市道の正式名称は長く「市道多門通元常盤丁線」といったが、仙台市の政令指定都市移行を機に、1989年(平成元年)3月22日に南町通1号線と改めた。以上のように当道は、西端が延長されてきた歴史と、東端が青葉通の新設、東北新幹線開通に伴う仙台駅の拡張、仙台駅西口バスプールの設置などにより曖昧化し、様々な定義がなされるようになってしまった。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。