『千夜一夜物語』(せんやいちやものがたり、, )は、八世紀頃に中世ペルシャ語からアラビア語に訳された、インド説話の影響の強い一大説話集である。現在では、ムフシン・マフディー( 1926年–2007年)による詳細な研究とこれによるガラン写本の校訂版(1984年)が、原型を保った最良のものと評価されている。『千夜一夜物語』は、日本語では『千一夜物語』、『アラビアンナイト』とも呼ばれている。初期の翻訳においては、永峯秀樹訳『開巻驚奇 暴夜(あらびや)物語』や、日夏耿之介訳『壹阡壹夜譚』の題名も見られた。 はラテン文字化で もしくは (『アルフ・ライラ・ワ・ライラ』)、 はラテン文字化で となる。アラビア語名の『アルフ・ライラ・ワ・ライラ』は、が「千」、が「夜」の意味で、が接続詞「と」であるから、一見すると「千夜と一夜」となる。ただしアラビア語の数の数え方を考慮すると、訳としてはむしろ「千一夜」の方が適切であるが、日本では「千夜一夜物語」の名称が普及している。「千一夜」(または「千夜」)というのは、数が多いということから付けられた題名であって、その原型となる写本では、ずっと少ない夜数の物語であった(後述)。通称の「アラビアン・ナイト」の訳は、この物語が初めてイギリスに紹介されたときの題名が であったこと、また明治初期に本作がアラビア物語などとして翻訳されたことに由来している(『暴夜物語』(1875年)、『全世界一大貴書(アラビアンナイト)』(1883年)など)。妻の不貞を見て女性不信となったシャフリアール王が、国の若い女性と一夜を過ごしては殺していたのを止めさせるため、大臣の娘シェヘラザード(シャハラザード、)が自ら王の元に嫁ぐ。シェヘラザードは毎夜、王に興味深い物語を語る。王は続きの話を聞きたいがために二百数十夜にわたってシェヘラザードを生かし続け、ついに殺すのを止めさせるという物語が主軸(一番外側の枠物語)となっている(また、姉のシェヘラザードの傍らに、妹のもいる)。話が佳境に入った所で「続きはまた明日」とシェヘラザードが打ち切るため、王は次の話が聞きたくてシェヘラザードを殺すのを思いとどまり、それが二百数十夜続いた。説話は、冒険商人たちをモデルにした架空の人物から、アッバース朝のカリフであるハールーン・アッ=ラシードや、その妃のズバイダのような実在の人物までが登場し、多彩な物語を繰り広げる。説話は様々な地域に起源をもち、中世のイスラム世界が生き生きと描き出されている。アラビアンナイトは、9世紀ごろに原型ができてから、多くの人の手によるさまざまな発展段階を経た。原型が作られたイスラム世界でも多様な版が存在し、やがて東方諸国、ヨーロッパに紹介されていくにつれ数多くのバリエーションが生まれたことが、この物語の大きな特徴である。アラビアンナイトの原形はそれほど長大な物語ではなかった。その理由は、現存するいろいろな版を比較すると、収録されている話も順序もかなり違うが、最初の二百数十夜くらいはほぼ共通しているからである。ガラン写本ではその夜数は282夜(物語の数は40話)、マフディーによる校訂版では271夜(物語の数は35話)に過ぎない。しかし、「千一夜」という題名のゆえに、本来は1001夜の「完本」があるはずだとガラン自身も信じていた。このことから、ヨーロッパでの「残りの物語」探しが盛んになり、それに応じて中東でその後に多くの物語が無秩序に付加されて、ついに19世紀には現在の1001夜分を含む形で出版されるに至った。現存する写本としては最古のものとされるガラン写本に収録されていたのは、東洋文庫版でいうと、第1巻、第2巻、そして第3巻冒頭の「ヌールッ・ディーン・アリーとアニースッ・ジャリースの物語」、第6巻の「アリー・ビン・バッカールとシャムス・ウン・ナハールとの物語」、それに続く「カマル・ウッ・ザマーンの物語」冒頭部分、第15巻の「ホラサーンのシャフルマーン王の物語(ジュナールの物語)」くらいであり、残りはすべてガラン写本以外の資料を典拠としている。現在のアラビアンナイト物語集は、成立当時の姿の何倍にも膨らんでいる。結局のところ、アラビアンナイトは「これ」という底本がない古典であり、底本がないゆえにどんどん新しい物語が加えられ、さらにヨーロッパと中東という二つの文明の間を行ったり来たりするうちに変形が進んだ物語といえる。偽写本の捏造もしばしば行われた。しかしオリジナルがないゆえに、どれが正しくどれが誤りといった判断をするのは困難である。いつ、どの話が加えられたのかという判断も難しく、また、いつの段階までに収録された話を正式のアラビアンナイトと呼ぶのか、といった定義のようなものがあるわけではない。サーサーン朝時代に中世ペルシア語であるパフラヴィー語で記された「」()が、イスラームのアッバース朝時代に翻訳されたものとされる。現存する最古のアラビア語写本は、9世紀の『千夜物語』(アルフ・ライラ)である。もっとも初期の物語の1つは船乗りシンドバードの物語で10世紀以前のものであり、これに対してもっとも後期の物語はカマールと達者なハリマの物語、マアルフの物語(蜂蜜入りの乱れ髪菓子と靴直しの禍いをまきちらす女房との物語)は16世紀のものらしい。そして大多数の物語はこの二群の中間、すなわち10世紀から16世紀の間のものと推定されている。アレクサンドル・ウラール(Alexandre Ular)はそれぞれの物語を銃器の使用有無やぶどう酒・蒸留酒・コーヒーの出現有無、たった1回だけ煙草が登場すること、多くの病気が登場するにもかかわらず梅毒が登場しないことなどから千夜一夜物語の下限を15世紀から16世紀と結論している。以上を総合すると、おそらくは9世紀もしくは10世紀のバグダードで原型がつくられ、徐々に物語がつけ足されてゆき、15世紀ごろのカイロで最終的なかたちにまとめられたのではないかと思われる。ただし、9世紀頃に出現した「アルフ・ライラ」の原写本はみつかっておらず、初期の物語群がどのような経緯で現在のようなかたちになってきたかについては、いまだに不明確なままである。ヨーロッパでは、18世紀初頭にフランスのアントワーヌ・ガランが「発見」し、シリア系写本を使ってフランス語訳を行い、広く紹介した。以来、さまざまな翻訳と翻案が積み重ねられ、アラブ文芸の枠に留まらない大きな文学ジャンルと言えるほどの作品となっている。エマニュエル・ジョルジュ・コスカン()(1909)は、全体の枠となる物語を分析し、次の3つの説話が原型になっているとした。である。このような構成には、他にも『屍鬼二十五話』、『』、『パンチャタントラ』などインドの説話集()が知られており、インド起源の説話がまずペルシアに伝わって風土化し、のちにアラブ人に伝わって成立したとする。また、成立後も様々な作家によって新たに挿話が付け加えられ、原典であっても複数のテキストが存在する。日本では1875年に英語版からの翻訳が行われ、以来英語・フランス語などのさまざまなバージョンからの重訳が行われた。また、有名な説話は児童文学に翻案され親しまれている。アラビア語(カルカッタ第二版)からの翻訳には、前嶋信次・池田修による『アラビアン・ナイト』がある。この他の日本語訳に、マルドリュス版(仏語)からの『完訳 千一夜物語』(岩波文庫)、バートン版(英語)からの『バートン版 千夜一夜物語』などがある。アラビア語の写本(手書きの本)には、ガラン写本(シリア写本、15世紀半ば)、トルコ写本(16世紀)、エジプト系写本などが知られているが、内容がそれぞれ異なっている。ガラン版が1704年にヨーロッパで発行され大きな反響を生んだ時以前に作られた写本の主なものには以下のものがある。これらの古い写本にはヨーロッパの影響を受けていない千夜一夜物語の本来の姿があるとされる。ムフシン・マフディー( 1926年–2007年)はガラン写本を詳細に研究して、1984年にその校訂版を出版しており、現在ではこれが千夜一夜物語の原型を保った最良のものと評価されている。ガラン版が1704年にヨーロッパで発行され大きな反響を生んだ時以後に作られた写本の主なものには以下のものがある。これらの新しい写本は数が多く、ヨーロッパの影響を受けているものもあるとされる。ヨーロッパで有名になったガラン版千夜一夜物語は、当初は1001夜に満たない形で刊行されたため、1001夜まである完全な形の写本探しが熱狂的に行われた。また、原典となる写本が存在しない有名な話「アラジンと魔法のランプ」「アリババと40人の盗賊」の写本探しも行われた。これに伴い偽写本が作られるようになった。偽写本で主なものには次のものがある。アラビア語の刊本(印刷された本)では、次のものが著名である。英語またはフランス語に翻訳発行されたものでは、次のものが著名である。なお、ヘンリー・リーヴ()は、1886年に『エディンバラ・レヴュー』()誌で「ガランは子ども部屋に、レインは図書館に、ペインは書斎に、そしてバートンはドブに」と特徴づけている。ヘンリー・リーヴの評言:「ガランは子ども部屋に」。ヘンリー・リーヴの評言:「レインは図書館に」。ヘンリー・リーヴの評言:「ペインは書斎に」。ヘンリー・リーヴの評言:「バートンはドブに」。なお、ハッダウィーはガラン写本に含まれていない、「orphan tales」=いわゆる「孤児の話」の英語訳を1995年に出版している。こちらの日本語訳も未刊である。2010年4月21日、エジプトの弁護士団体「制限なき弁護士団」が「公序良俗に反する」として出版者の逮捕と同書の押収を当局に要求し、これに対して作家や人権団体などの反発が起こった。同説話には性的表現も含まれるため、「反イスラム的」として標的にされたと言われている。手塚治虫のプロデュース・構成・脚本により、1969年6月14日に公開された。大人のためのアニメ(アニメラマと称した)としてアレンジが加えられ、大胆な性描写、実写映像の合成など、実験的な要素が強い作品となっている。当時の大物文化人やコメディアンを声の出演に多数起用しており、アニメとしては異例の豪華なキャスティングでも話題となった。
出典:wikipedia
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