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朝永振一郎

朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日)は、日本の物理学者。相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基にくりこみ理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した。東京生まれで京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民。1906年、東京市小石川区小日向三軒町(現在の文京区小日向)に長崎出身の父親朝永三十郎と埼玉県出身の母親の子として生まれた。幼少期は病弱であったと伝えられる。1913年、父三十郎の京都帝国大学教授就任に伴い一家で京都に転居し、錦林小学校に転校する。三十郎は、後に京都学派の哲学者の一員として知られるようになる。朝永は次第に自然に興味を持つようになり、虫眼鏡で実験を行ったり、電信機や顕微鏡のレンズを自作するなどしていた。著名な哲学者の息子ではあるが、朝永は後年、「哲学というものは私にとってはなはだ苦手で、どうしても歯がたたない」と語っている。しかし、しばしば他人から「あなたのいったり書いたりしていることは結構哲学的ですなどといわれる」とも述べている。京都一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校、京都帝国大学理学部物理学科を卒業。学生時代は女浄瑠璃や寄席に入り浸って、かなりの趣味人だったと伝えられる。卒業後は京都帝国大学の無給副手に着任する。湯川秀樹(旧姓:小川)とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒業であり、就職もやはり湯川秀樹と同期で、机も同じ部屋にあった(中学までは1学年上であったが、後に湯川が飛び級のため追いついた)。1931年、仁科芳雄の誘いを受け、理化学研究所仁科研究室の研究員に着任。ここでマグネトロンの発振機構の研究等を行う。ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学んだ。また第二次世界大戦中にはマグネトロンや立体回路の研究も行った。この研究により、1948年に小谷正雄と共に日本学士院賞を受賞している。1941年、東京文理科大学(新制東京教育大学の前身校、現・筑波大学)教授。1949年、東京教育大学教授。プリンストン高等研究所に滞在し、量子多体系の研究を行う。教授となってからも東京大学の学園祭(五月祭)で、特技のドイツ語による落語を演じるなどして、洒落っ気が多かった。1947年、量子電磁力学の発散の困難を解消するためのくりこみ理論を形成し、繰り込みの手法を用いて、水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算を行い、実測値と一致する結果を得た。この業績により、1965年にジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマンと共同でノーベル物理学賞を受賞する。しかし肋骨を折っており、12月のストックホルムでの授賞式には出席できなかった。1956年から1961年には東京教育大学長、1963年から1969年には日本学術会議会長を務めた。晩年は中学校などでも講演を行い、自然科学の啓蒙にも積極的に取り組んだ。1979年、咽頭癌が悪化して息を引き取った。前年に手術を行ったため声が出せない容体だったという。墓は東京の多磨霊園にある。朝永はハイゼンベルグ等の原理論の時代と、原理論を応用する理論の2つの時代の両方を生き、両方に大きな足跡を残した。原理は、「相対性、場の量子論、ゲージ、繰り込み」の4つがある。朝永は最も基本的な原理「場の量子論」の「空間(超多時間論)」、「変換演算子」を見出し、場の量子論を完成させた。場の量子論の20年来の課題の解決(相対論的に共変な場の量子論、相互作用を切り出す変換)である。当時、この問題と無限発散の問題で、場の量子論は、物理の根本原理とみなされず、新たな原理確立が試みられていた状況にあった。朝永は歴史のネジを場の量子論成立時期である20年前に巻き戻し、場の量子論を確立した。この後も、場の量子論を乗り越える試みは、ハイゼンベルグや湯川が試みるが失敗した。朝永が確立した場の量子論は、超弦論を含むすべての理論の基礎にある。朝永は自ら確立した場の量子論を用い、繰り込み原理を見出し完成させ、4つの基礎物理原理のうち場の量子と繰り込みという2つの原理の確立者となった。繰り込み原理を誰も発案していない1947年、朝永は繰り込みを考えたが、翌年ダンコフの電子の生成消滅を含まない非相対論的な論文が出、発表の機会を失う。しかし、その後、場の量子論を確立するという周到な準備を経て、繰り込み理論を形成した。さらに、この2つの原理、「場の量子論と繰り込み」を応用し、量子電磁力学を確立する。この建設には、ゲージ原理を相対論的に共変な形式としたものを使った。これにより、一般にゲージ原理が認識され、ゲージ原理が広まった功績もある。(朝永のゲージを使う論文以前と以後では、ゲージの論文量が異なる)。ただし、ゲージ理論の発展は、別の系統からなされた。これについては、場の量子論に年表を示した。最大の業績:ヴェルナー・ハイゼンベルクやヴォルフガング・パウリが構築した場の量子論を相対論的に共変な形式に改めて定式化し(超多時間理論)、さらに繰り込み理論に到達し、量子電磁力学を完成させた。主な業績として、以下のものがある。原理論理論その他湯川との関係1948年(1947年学会発表)、朝永は、超多時間理論でハイゼンベルグとパウリの場の量子論を相対論的に共変な形式に書き改め、繰り込みの記述形式を確立し、量子電磁力学を完成させた(朝永に数年遅れて、ジュリアン・シュウィンガーおよびリチャード・ファインマンらも独立して繰り込みを見い出し、量子電磁力学を完成させた)。特に電子の異常磁気モーメントの計算は、量子電磁力学のよる予言値と実験による測定値が10桁の精度で実験と一致している。場の量子論に繰り込みとゲージを用いる方法は以後の理論建築の指針となる。この方法を基礎に、非可換ゲージ、量子色力学、およびワインバーグサラム理論は建設されている。場の量子論・量子電磁力学に対する寄与は次になる。フリーマン・ダイソンは、1943年の超多時間理論の論文を読んだときの感想について、回想録の中で次のように述べている。戦争の荒廃と混乱のさなかにある日本で、国際的には完全に孤立した状態にありながら、朝永はどうにかして理論物理研究集団を維持し、ある意味では世界のどこよりも進んだ活動を行っていた。誰の助けも借りず独力で、シュウィンガーより5年も前に、コロンビア実験の助けもないところで、新しい量子電気力学の礎を築いたのである。・・・吾々には深淵からの声のように響いた。仁科芳雄は「朝永さんのように頭のいい人はいませんね」と言っている。仁科の主催する研究会で議論を戦わした後、最後に朝永の意見を聞き、みんなが納得する状態であったという。当初、観測との矛盾のあった中間子論の問題を解決するために作られた、朝永の中間結合の理論は不完全で終わった。しかし、この理論は超伝導を理論的に解明しノーベル賞を勝ち取ったBCS理論に使われる。中間結合の理論を作ったときの経験は、繰り込み理論を創るとき役立ったと、朝永自身、述べている。朝永は新奇をてらう前に従来手法を徹底するという保守を自認していた。1943年、まず、特殊相対論に対応していなかったハイゼンベルグ-パウリの場の量子論を、ディラックの多時間理論を基に超多時間理論を形成し、特殊相対論化を完成させた。次に、1930年代に入り顕在化していた場の量子論のもう一つの問題、自己エネルギーによる質量補正が無限大になる問題に取り組む(朝永はかなり早い時期から繰り込みを考えており、1938年に発散を打ち消すアイデア(繰り込み)を発想している。これは、次のダンコフの論文より前である。一方、ダンコフは1937年に発想し、1939年に繰り込みの核心に迫る初めての論文を出している。ただし、ダンコフの論文は、電子の生成消滅を含まず相対論を満たす形式ではなく、正しい結果には到達できない)。坂田昌一により1946年に発表された凝縮場の理論(架空のCメソンを導入して無限大の困難を避ける方法)を検討し、同グループの木庭二郎らがこの理論は誤りであると発表する。しかし、超多時間理論で計算し直したところ、凝縮場は質量の発散を正しく取り除けることが判明するが、真空偏極の発散は打ち消さないで残ることが分かり、次にこの問題の解決へと進んだ。そこで、計算の基礎として使っていた1939年のダンコフの論文(電子を考慮していないため非相対論的)を電子を入れて修正し(いろいろな発散が現れたが、実は発散は一番弱い対数発散のみが現れ、無限大はすべて質量と電荷の中にくりこめることが分かった)正しく計算すれば、凝縮場を使わずとも、すべての無限大を質量と電荷の無限大で書き直せる(繰り込める)ことに気が付き、1947年学会発表し、翌年、残る問題の解消に半年を費やし、翌1948年論文化し繰り込み理論を完成させた。1949年、繰り込みによりラムシフトを正しく計算した論文を発表し、この理論は脚光を浴びる。朝永は、「もしダンコフが計算間違いをしていなかったら、繰り込みの歴史は変わっていただろう」と言っている。ダンコフが電子を考慮に入れた理論計算していれば、1939年のダンコフの論文で繰り込みは完成していたことになる。また、ダンコフの論文がなければ、1940年頃、朝永が繰り込みを発表していた可能性がある(ただし、エルンスト・シュテュッケルベルクも1943年に繰り込みの論文を提出していたが、理解されずリジェクトされている)。湯川秀樹が、因果律のタブーを犯してまで非局所場に踏み込んでいくなど新しいことに挑戦することを恐れなかったのに対し、「反動ならざる保守」を自認する朝永は、超多時間理論、繰り込みなどを完成させ、近距離で量子電磁力学が破綻するという危機を救った。朝永の学生時代、量子力学を専攻する研究者はいず、物理の授業に興味が持てない中、数学者の岡潔の授業には、湯川と共に出席し、非常に刺激的であったと述べている。なお、岡は、条件を付けて問題を限定せず、一気にすべてを解くしか難問を解くことはできないと論じた。また、岡の課題として出す問題が非常に難しく、これが解けないようでは、学者になるなということかと思ったようである。先に述べたように、湯川の○を、湯川は非局所場として扱ったが、成功したとはいいがたい。そのため、朝永は超多時間理論でこれに一応の解決を与えた。朝永の最初の大きな業績は超多時間論で、繰り込みは視界に入っていた。朝永は「なぜ日本物理の黄金時代が訪れたのか」と問われ、「最重要な課題を解決した湯川に、大きな刺激を受けた」と述べている。また、坂田の混合場がきっかけで、朝永は繰り込みを解明した。湯川の○の問題は、次。湯川、朝永、坂田は相互に刺激し合いながら活発な研究を行う。湯川・朝永は同期で、4年下に坂田や、武谷3段階論で当時名をはせた武谷三男がいる。坂田昌一は、2中間子論、混合場、クウォークの基になった坂田モデル、2ニュートリノ説という多数の理論を提唱した。また、坂田の弟子、大貫義郎らは群論を使った坂田モデルを数式化し、基本3粒子の群論表現を与えた。理研の仁科芳雄と提携しつつ朝永グループを形成し、西島和彦、繰り込みの木庭二郎、南部陽一郎などがこれに参加する。南部は朝永の推薦により、新設の大阪市大の物理学科の教授として、早川、西島らと大阪市大グループを形成する。後年、巨大実験装置の発案、建設に努め、小柴昌俊はこの時代の弟子に当たる。また、早川は天文学に移り、日本の天文学を世界レベルに押し上げた。以前の原理(ボーア・ハイゼンベルグ・シュレディンガー・デイラック)の時代からの残された主な懸案(20年来)を解決し、以後30年以上続く理論の時代(QED、QCD、WS理論-標準理論)の基本構造としての量子電磁力学 (QED) を建設した。1949年に出版された『量子力学』は、日本語で書かれた量子力学の教科書の定番として長年読み継がれており、1963年には小柴昌俊による英訳本が出版された。量子力学の名著としての評価が高い。さらに、1998年には『スピンはめぐる』の英訳本が出版されている。また物理学・量子力学の一般向けの啓蒙書も数多く執筆しており、歿後の1980年には『物理学とは何だろうか』が大佛次郎賞を受賞した。だが、『量子力学』、『物理学とは何だろうか』は共に未完成である。著作集はみすず書房で没後刊行している。

出典:wikipedia

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