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簡文帝 (南朝梁)

簡文帝(かんぶんてい)は、南朝梁の第2代皇帝。武帝蕭衍の三男。晋安王に封ぜられていたが、兄蕭統の死により皇太子に立てられる。侯景の乱により建康が陥落した後、ほとんど餓死させられた武帝に代わり、太清3年(549年)に侯景により皇帝に擁立される。その短い治世の間には百済からの使者を受けたりしたが、政治の実権は完全に侯景に握られており、単なる傀儡に過ぎなかった。挙げ句の果てに、侯景に対して相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事なる大仰な官職を与えたりもしている。また対外的にも、侯景に対抗するために湘東王蕭繹を始めとする王族たちに攻められており、非常に不安定な国情にあった。既に壮年を過ぎた簡文帝は、侯景にとっては操りやすい存在ではなかった。大宝2年(551年)8月、侯景を討とうとする王族たちの軍に敗北して戻ってきた侯景は、簡文帝を廃して元の晋安王とするとともに、皇太子を始めとする簡文帝の子供たちをみな抹殺し、蕭統の孫で簡文帝の大甥にあたるまだ幼い予章王蕭棟を位に就けた。その2ヶ月後、晋安王蕭綱は侯景の手の者によって身体の上に大量の土嚢を積まれて圧死させられた。侯景によって高宗の廟号と明皇帝の諡号が贈られたが、侯景を討って即位した弟の元帝蕭繹によって改めて太宗の廟号と簡文皇帝の諡号が贈られた。兄の昭明太子蕭統同様文才に優れており、6歳の時、父武帝の前で見事な文章を書いてみせ、「この子はわが家の東阿である」と武帝から称賛された。長じては『昭明太子伝』『諸王伝』『礼大義』『老子義』『荘子義』『長春義記』『法宝連璧』などを著した。詩の分野では、「宮体詩」(「宮体」とは「東宮の詩体」の意)と呼ばれる艶麗な詩風を確立し、200首余りが現存する。詩集『玉台新詠』は、皇太子時代の蕭綱が配下の文人であった徐陵に命じて編纂させたものとされている。

出典:wikipedia

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