前田 遼一(まえだ りょういち、1981年10月9日 - )は、兵庫県神戸市出身のサッカー選手。Jリーグ・FC東京所属。ポジションはフォワード(FW)。元日本代表。兵庫県神戸市で生まれる。1歳の頃からアメリカへ転居し、小学1年生までの6年間をロサンゼルスで過ごす。日本へ帰国し小学2年生からは東京都の小学校へ、同3年生時に横浜市へ転居し鴨志田緑小学校に通った。2歳年長の兄の影響でサッカーを始め小学3年生の時に本格的に取り組み始める。1993年度の全国高校選手権を観て、同大会に出場した暁星高校への進学を決め1994年より暁星中学校へ進学。中学生時には東京都選抜やナショナルトレセンに選出された。高校生時には国体東京都代表として1学年下の田中達也らとともに2年次にベスト8入り。暁星高の主将も務めていたが、高校選手権は高2高3のいずれも東京都予選の準決勝で敗れた。また、ヴェルディ川崎の強化指定選手に登録されていた。当時は全国高校選手権で活躍した中村俊輔に憧れ、足元の技術やプレースタイル全般について影響を受けた。慶應義塾大学に推薦入学が決まっていたが、Jリーグ13チームからの勧誘や高校の監督の薦めもあってプロ入りを決断し、2000年よりジュビロ磐田に入団。磐田にはドリブルを得意とするミッドフィールダー(MF)として加入するも磐田のMFの選手層が厚かったことやから、トップ下、1.5列目のFWなど起用法が一貫せず、2001年までは出場機会が乏しかった。同年9月のJ1セカンドステージ第1節清水戦(静岡ダービー)でJリーグ初得点。徐々に出場機会を増やしつつあったが、2002年6月のヤマザキナビスコカップ仙台戦で後方からの悪質なファウルによって右膝を負傷し、外側半月板縦断裂の診断を受け、長期離脱。磐田のチームメートである中山雅史及び高原直泰に影響されて、目指すストライカー像を描きFWとしての素養を磨いていくと、負傷から回復した2003年には恥骨結合炎により欠場した中山の代役として2トップの一角に起用され、ゴール前での精力的な動き出しから、リーグ戦7得点を挙げた。2005年からはリーグ戦で3年連続で2桁得点を記録。2007年は右膝半月板損傷によって出遅れたが、復帰後は攻撃の大黒柱として高レベルのプレーを見せた。同年10月9日、自身の誕生日に結婚。2008年、序盤は半月板損傷による再離脱もあったが中盤以降復帰し、同年10月5日のJ1第28節札幌戦では、2005年7月9日のJ1第15節C大阪戦以来となる3年ぶりのハットトリックを達成し完調をアピールした。2009年には10月25日のJ1第25節名古屋戦で自身J1リーグ戦3度目となるハットトリックも達成。自身初めてリーグ戦全試合フル出場を果たし、PKなしでの20得点を記録して得点王に輝いた。また、自身初のJリーグベストイレブンにも選出された。同年オフには複数クラブから移籍を打診され争奪となるも磐田に残留。2010年、磐田との2年契約を締結。なお、クラブからは同年限りで磐田を退団する中山の背番号9を託されていたが、これを固辞している。同年11月のヤマザキナビスコカップ決勝戦では広島を相手に、延長戦に入っても衰えないプレーぶりで自身の挙げた2得点を含めて4得点に絡む大活躍を見せ大会MVPに選出された。同月27日のJ1第33節名古屋戦ではヘディングシュートを決め、史上9人目 (日本人では5人目) にして歴代最年少となるJ1通算100得点を達成。積極的にプレスを掛け、味方のスペースを作る動きと正確なトラップ、懐の深いポストプレーで確実にボールを繋ぐ多用な働きに加え、通年での活躍によって前年より減ったもののシーズン通算17得点を記録。2年連続の得点王(ジョシュア・ケネディ(名古屋)と同点で両名受賞)に輝き、Jリーグベストイレブンにも選出された。2年連続得点王は史上初である。2011年はシーズン中盤の負傷離脱もあり3年連続での得点王を逃したが、怪我からの復帰後は9試合6得点と奮闘し、通年では14得点を挙げた。この年限りで磐田との契約が切れることもあって、横浜FMなどの他、イングランド2部リーグ・ウェストハムUtdから獲得オファーを受け渡英。メディカルチェック及び練習参加を行うも、労働ビザ取得がネックとなり契約には至らなかった。2012年はチームの1トップ採用にも適応し、相手からのマークが厳しくなる中でつぶれ役としても奮闘。日本代表招集中の負傷の影響で1試合欠場したものの、33試合に出場した。中盤までは好調で、得点ランキングでは一時佐藤寿人に次ぐ2位にまで浮上するも、後半は調子を落とし、最終節まで9試合無得点(自身が欠場した試合含めれば10試合)だったが、最終節G大阪戦では1得点1アシストの活躍で、通年で13得点を挙げた。2013年は「ホットライン」を形成していた駒野友一や他の攻撃陣との連携が合わず、得点の好機が激減。波に乗り切れないまま5年連続のJ1二桁得点を果たせずJ2降格を喫した。横浜FMからの再オファーも報じられたが交渉はまとまらず、2014年は磐田の顔としてクラブ・自身共に初となるJ2でプレー。同年7月5日、J2第21節京都戦でJリーグ通算150得点を挙げた。シーズン終盤になって名波浩が監督に就くと、初戦のJ2第34節愛媛戦からゲームキャプテンを任された。名波はこの登用について「ゴールでチームを引っ張ってほしいのですが、それだけの責任では足りないと。彼がこのクラブで高校を卒業してからやってきて作り上げた地位は確固たるものだと、僕自身もサポーターもそれからクラブも思っていると思うので。その確固たる地位というのはだれからも信頼されて、尊敬される立場だと思いますし、そこに責任というのを前田にのしかけたいということが一つ。」と話している。通年37試合17得点を記録しチーム得点王となったが、プレーオフで敗れJ1昇格は叶わなかった。磐田からはエースの流出を防ぐべく契約延長を打診されていたが、大幅な減俸提示であったことからJ1でのプレーを希望し、この年限りで15年在籍した磐田を退団。2015年、FC東京へ完全移籍。当初は2年ぶりのJ1と初めての移籍に戸惑い、適応するまでにやや時間を要したが、6月の1st第17節清水戦では2得点を挙げて三浦知良を上回るJ1通算140得点を記録。9月の2nd第10節神戸戦では6年ぶり、自身4度目となるハットトリックを達成した。味方の攻め上がりを促すポストワークも健在で、前線の核として定着した。2016年5月、ACL第6節ビンズオン戦では決勝トーナメント進出を決める2得点を挙げた。同年8月13日、2nd第8節神戸戦で史上5人目となるJ1通算150ゴールを達成。同年9月の同11節湘南戦において、頭による得点では通算45得点目となるヘディングシュートを決め、中山雅史の持つJリーグ記録を更新した。高校3年生時にU-18日本代表に選ばれ、2000年にはU-19日本代表の一員としてAFCユース選手権準優勝に貢献。1得点ながら柔軟なボールコントロールと閃きでチャンスを作り大会MVPに選出された。2001年には、U-20日本代表の一員としてワールドユースに出場した。2001年10月、20歳にしてフィリップ・トルシエ率いるA代表の候補合宿に初選出された。翌2002年からのジーコ体制下の4年間は招集なし。2004年はU-23日本代表としてアテネオリンピック最終予選に出場。既に磐田ではFWでのプレーを続けていたが、山本昌邦監督からはMFに配された。本大会直前でメンバー選考から漏れ、予備登録に留まった。2006年秋、イビチャ・オシム指揮の下、これまで候補止まりであったA代表に初選出された。オシムからは、運動量が非常に多く、個人技術に優れ、見た目にはそれほど速くは見えないが、いつの間にか相手にとって危険な地域にいる、日本に不足していたタイプと評され大きな期待を寄せられた。2007年10月17日、エジプト代表戦に先発出場し、国際Aマッチ初ゴールを挙げた。オシム後任の岡田武史からも高さ・足元の技術・守備意識を併せ持つ点を認められ、2008年の東アジア選手権に出場。北朝鮮代表戦で代表2得点目を挙げるも、古傷の右膝痛がぶり返したため大会途中で離脱。岡田はその後も招集の機会を探っていたが、コンディションが整わず選外が続いた。2009年に入って復調し、リーグ戦の活躍が評価されて同年9月に約1年3か月ぶりの代表復帰。しかし、2トップでのプレーを希望する前田に対し、岡田は1トップに入ることを要求。最終的には戦術不適合とされ、翌年開催のワールドカップ本戦では予備登録止まりでメンバーから外れた。2010年、アルベルト・ザッケローニの監督就任以降は初采配時から代表に選ばれ、1トップに入りしぶとくポストプレーをこなして味方を助け、2011年1月開催のAFCアジアカップにも選出された。身体の強さと高さを発揮し、巧みにボールを引き出してチーム戦術に適応。同大会では全6試合に先発出場し、グループリーグサウジアラビア代表戦で2得点、準決勝韓国代表戦では同点に追いつくゴールを決め、日本代表の2大会ぶり4回目の優勝に貢献した。怪我の影響で一時選外となるが、同年11月に代表に復帰し、FIFAワールドカップアジア3次予選のタジキスタン代表戦には途中出場で1得点を挙げ、北朝鮮代表戦では先発出場した。同年の活躍により、日本代表のエースストライカーとも称された。2012年もA代表に定着し、ザッケローニが海外でプレーするFWが見たいと明言して選抜したFIFAワールドカップアジア3次予選のウズベキスタン代表戦を除く予選全試合に招集されるも、同年10月の欧州遠征では練習中に左太腿裏を痛め、試合に出場しないまま途中離脱。FIFAワールドカップアジア最終予選では、1トップとして全試合に先発出場。前線の好連携で攻撃のリズムを作り出し、自身も5試合で3得点を挙げる高い得点能力で予選突破を果たした。2013年のFIFAコンフェレーションズカップでも、得点場面だけではない90分通しての貢献度を高く評価されて全3試合に出場。ザッケローニからはイタリア代表戦においてアンドレア・ピルロ対策を完璧に行ったと賛辞され、元イタリア代表監督のアリゴ・サッキからも同試合で一番印象に残った選手として挙げられたが、好機を逸し無得点に終わる。その後、代表経験の少ない選手中心で臨んだ東アジア選手権で柿谷と大迫が活躍すると、以降はその2人を起用する形となり、2014 FIFAワールドカップ本大会メンバーからも外れた。特に無口では無いが、「記者泣かせ」と形容される程人前では寡黙で、インタビューは苦手。前田本人も自身のキャラクターを認め、「話をしないイメージに乗っかって楽させてもらっているのかも」と語っている。大食漢として知られている。2004年のアテネオリンピック予選では、UAE遠征中の代表メンバー内に下痢が蔓延する中、前田はこれに動じることなく食事をとっていた。2011年のAFCアジアカップの際には「中東の空気は嫌いじゃない。食事も何でも食べられる」とコメント。チームメートの川島永嗣は「代表の食事の時とか、僕も結構食べる方なんですけど、食事の終わり頃になっても『まだ食べてるの?』っていうのはよくあります」と前田の食べっぷりを明かしている。30歳を過ぎても食べる量は落ちず、2012年末にはジュビロ磐田のシーズンシート購入者への感謝イベント『2012 Jubilo Corte Azul Awards』で今年一年最も食べたで賞を受賞した。また、食べたらタダになる1300グラムのCoCo壱番屋のカレーを約20分で完食したことがある。FC東京移籍後はクラブ側もこれを積極的にネタに使っており、「#ごはん大好き前田選手」というtwitterのハッシュタグを設け、いわゆるスタジアムグルメの宣伝等に利用している。2015年にスカパー!のコパ・アメリカ中継のCMに出演した際も「丼飯を沢庵だけをおかずに食べる」という大食漢キャラを利用した設定がされた。「前田遼一がリーグ戦でシーズン最初のゴールを決めた相手はJ2に降格する」という内容のジンクス「前田(遼一)の呪い」が、2012年シーズン終盤に相次いで報じられた。現に、2007年のヴァンフォーレ甲府に始まり、東京ヴェルディ、ジェフユナイテッド市原・千葉、京都サンガF.C.、モンテディオ山形と5年連続で対象クラブの降格が続いていた。2012年の対象クラブはJリーグの「オリジナル10」の一つであり、降格経験のないガンバ大阪であったが、G大阪もまた前年まで3、2、3位と続いていた好成績が一転して残留争いに巻き込まれ、最終節で磐田との対戦に敗れれば降格という事態に陥る。そして試合は、前田の1得点1アシストを含む2-1のスコアで磐田が勝利し、G大阪の降格が決定。6年連続でジンクスが継続する結果となったが、2013年に前田がシーズン初ゴールを決めた浦和レッズは残留し、逆にこの年は自身の所属する磐田がJ2に降格してしまった。2014年に前田がシーズン初ゴールを決めたカマタマーレ讃岐も年間21位の成績でJ2・J3入れ替え戦に回るも、AC長野パルセイロに勝ち、J2残留を決めた。2012年のG大阪戦の後、前田はこのジンクスについて「思うところは何もない」「もともと何も考えていない」とコメントした。その後、2013年シーズンの開幕時にコメントを求められた際には「僕としてはやめてほしい。そういう話とは関係なく、ゴールを決めたい」と、快く思っていないことを明かし、また、磐田の監督森下仁志も「デスゴールなどと言うのは遼一に対しても相手に対しても失礼」と話した。一方、2013年のリーグ初戦で対戦した名古屋グランパスエイト監督のドラガン・ストイコビッチは、引き分けとなった試合終了後の会見で自ら切り出して「ひとつ大事なことがある。それは前田にゴールを入れさせなかったことだ」と語り、さらに頭の上で丸印を作り「これでJ1に残れる」と笑顔を見せた。多くのスポーツ新聞やテレビ番組等に報じられ、過熱する「デスゴール報道」に、磐田は困惑し、服部健二GMは報道陣に対して「パフォーマンスに影響が出る可能性があるので、1点目を取るまでは磐田発信でのこの件に関する報道は控えてほしい」と報道の自粛を要請した。356||146||64||20||31||13||451||17937||17||colspan="2"|-||0||0||37||17393||163||64||20||31||13||488||196その他の公式戦|2004||rowspan="2"|磐田||rowspan="2"|18||3||1!通算!!colspan="2"|AFCその他の国際公式戦|2007||2||1!通算
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