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藤本義一 (作家)

藤本 義一(ふじもと ぎいち、1933年(昭和8年)1月26日 - 2012年(平成24年)10月30日)は、日本の小説家、放送作家。本名の読みは「ふじもと よしかず」(ただし、出生届けの読み仮名は「ふじもと よしかす」で出されたという。)大阪を舞台にした作品を書き、エッセイも数多い。日本放送作家協会関西支部長とプロ作家を育成する心斎橋大学総長も務めた。夫人はタレントの藤本統紀子、次女はアーティストのフジモト芽子。大阪府堺市出身。堺市立浜寺小学校卒業、私立浪速中学に入学、少年飛行兵を目指して1945年(昭和20年)5月に航空機搭乗員養成所に入るが、終戦となる。終戦時には入院していた両親に代わって闇市でレポ屋として家計を支えた。新制浪速高校に進み、大阪市立大学法学部を受験するも不合格。立命館大学法学部に入学するが、中退。和歌山大学の経済学部を受験するが経済学部の合格点数には足りていないが教育学部には合格であると大学から問い合わせがあったが断ったという逸話がある。1951年4月、浪速大学(現・大阪府立大学)教育学部に入学し教師を目指していたが、教育実習で現場教師が虎の巻を見ながら授業をしているのをみて幻滅し経済学部へ転部。もともと演劇好きで演劇部に入部する一方、日本拳法部の創設に関わった。役者より劇作家の方を志し、在学中から数十編のラジオドラマ、その他の脚本を書いており、卒業前年の1957年(昭和32年)に執筆したラジオドラマ作品『つばくろの歌』で同年度の芸術祭文部大臣賞戯曲部門を受賞。次席が井上ひさしで「東の井上ひさし、西の藤本義一」と呼ばれるほど、早くからその才能は高く評価されていた。この年、戯曲「虫」を関西芸術座、「トタンの穴は星のよう」を劇団「蟻の会」で発表。1958年(昭和33年)に学生時代に知り合っていた統紀子夫人と結婚し、枚方市に住む。1958年3月、大阪府立大学経済学部卒業。その後テレビドラマ脚本を経て、宝塚映画撮影所、続いて大映に入社、衣笠貞之助の脚本の手伝いもする。川島雄三監督に師事して脚本の手伝いをし、『暖簾』や、木村恵吾、市川崑らの作品も手伝う。1959年(昭和34年)に『貸間あり』で共作者となり、駅前シリーズ、悪名シリーズ、犬シリーズなどの脚本を手がけ、頭角を現していく。1961年にはNHKのドラマ『現代人間模様』も執筆。川島が活動拠点を東京に移す時期に川島の下を離れ、テレビドラマ、舞台、ラジオなども手がけて「ライティング・マシーン」と揶揄される。1963年 「日時計の歌」で文芸賞戯曲部門佳作一席。1965年(昭和40年)から始めた『11PM』(日本テレビ放送網・讀賣テレビ放送共同製作)での大阪制作分のキャスターにより、一躍知名度を高める。放送開始から1990年(平成2年)の終了までの25年に渡って毎週2回を担当し、休んだのは3回だけ(あらかじめ特番になった場合による休止は別)だった。同じくキャスターだった大橋巨泉から「(ギャラ)いくら貰っているんだ」と尋ねられ、自身が大橋の1/7程しか貰っていなかったことを知ったが、自分は作家であるというスタンスから、ギャラの値上げは一切口にしなかったという。また『11PM』の司会を始めたことで、NHK、民放からの脚本の注文は途絶えた。1968年(昭和43年)に長編小説第1作『残酷な童話』を発表。次作『ちりめんじゃこ』で1969年(昭和44年)第61回直木賞候補、62回に『マンハッタン・ブルース』で候補、65回に『生きいそぎの記』で候補となり、1974年(昭和49年)に上方落語家の半生を描いた『鬼の詩』で第71回直木賞受賞。以後文芸作品からエッセイ、社会評論などの著作を多数発表する。サラリーマン経験は無いものの、「いかにサラリーマンはあるべきか?」という問いに独自の意見がある。また近世上方文学の研究者で、特に井原西鶴を研究している。大阪出身の織田作之助をテーマにした『蛍の宿 わが織田作』『蛍の宴』『蛍の街』『蛍の死』の長編四部作、安国寺恵瓊(の男性自身)を主人公とした『二寸法師』などがある。他に人生案内エッセイ『お嬢さん、上手な恋をしませんか』など多数、自伝『やさぐれ青春記』。1975年(昭和50年)『雨月物語』の現代語訳を発表。上田秋成を書こうとした矢先、井伏鱒二から執筆を止めるよう説得された。これは、上田秋成を書いた人は非業の死を遂げると共に、本居宣長の力によってそちら側から資料が書かれている故に仕事に行き詰まる事からという理由であった。しかしこれが井原西鶴の研究のきっかけとなり、『サイカクがやって来た』(1978年(昭和53年))、『元禄流行作家-わが西鶴』(1980年(昭和55年))などを発表。1977年(昭和52年)以降には、舞台脚本として山田五十鈴主演『津軽ながれぶし』、森光子主演『千三つ屋』、読売テレビ制作芸術祭参加テレビドラマ作品『風船逃げるな』、今東光追悼公演舞台『お吟さま』などを執筆。生涯を通して関西を中心にテレビコメンテーターや演芸評論家・審査員として活動を続けた他、阪神・淡路大震災被災遺児のための児童厚生施設「浜風の家」の建設呼びかけ人代表となり尽力。施設を運営する「社会福祉法人のぞみ会」の初代理事長を務めた(後任の理事長は妻・統紀子が務めている)。。阪神・淡路大震災で報道ヘリコプターのために「救援を求める声がかき消された」として救助活動に支障が出たことを痛烈に批判し、過剰なマスコミ報道に警鐘をならした。2011年(平成23年)春に中皮腫を患っていることがわかり、余命は1年と宣告された。2012年(平成24年)4月には肺炎を併発し、兵庫県内の病院に入院した。夏頃には脳梗塞を患った。その時は比較的症状が軽く退院したが、9月下旬にトイレ内で立ち上がろうとした時に倒れ再び入院した。この時誤嚥性肺炎も併発していたため口から飲食物を摂取できず、点滴で栄養補給を受けているうちに衰弱し、10月30日夜の午後10時18分に死去した。満79歳没(享年80)。藤本の訃報を受け、田辺聖子、桂米朝、難波利三、桂文枝といった関西の文壇や芸能関係者がその死を悼む談話を発表している。とりわけ桂文枝は、弔問の際に藤本原作のテレビドラマ『蛍の宿』で主役の織田作之助を演じたことを「勲章です」とし、「『織田作之助』を(題材とした)落語にして追悼落語をしたい」と涙ながらに語った。法名は「文義院釋一乗(もんぎいんしゃくいちじょう)」。2013年(平成25年)1月12日、神戸市内で開かれたシンポジウム「震災とアスベスト」で、娘の中田有子が初めて父の死について語った。その中で、藤本が中皮腫を患ったのは、阪神・淡路大震災の際にアスベストを吸ったことが原因かも知れないとし、「その怖さを多くの人に知ってほしい」と訴えた。藤本の実家のある兵庫県西宮市周辺は、震災で大きな被害を受けた。水道も止まり、粉塵が立ちこめる中、藤本は児童施設の立ち上げに奔走するなど、復興支援活動に熱心に取り組んだ。そのために長期間にわたってアスベストを吸ってしまう環境にいた事が結果として命を縮めることになったのでは、との考えを示している。川島と離れた後も「僕の師匠は川島雄三」「監督は僕にとって母港みたいな存在」と公言し、尊敬し称賛している。この付き合いを小説にした「生きいそぎの記」は、同じく彼を師匠と尊敬した今村昌平の『サヨナラだけが人生だ』(ノーベル書房)に講談社からの快諾を得て、再版のバージョンにて記載された。井伏鱒二の原作から取り入れたセリフ「(花に嵐のたとえもあるぞ)サヨナラだけが人生だ」は、主役のフランキー堺のラストシーンにて取り上げられたもので、藤本と川島の映画人生の中でも特筆すべきものである。もともと井伏の『厄除け詩集』に記載されていたものを、藤本と川島は『貸間あり』のクライマックスシーン(桂小金冶)が大阪の下町に向かって“ションベン”するときに用いた。原作者の井伏からは、この『貸間あり』の試写会で「露悪的なシーン」と酷評されたが、川島映画を良く知るファンはこのラストの意味を理解し、「何時までも逃げていく主人公へのともらい」(これは、川島監督そのもの:分身である)と受け止め、映画関係者から「人生足定離」=サヨナラだけが人生だ!として、映画発の「文学的セリフ」として語りつがれることとなった。藤本が脚本した『とむらい師たち』は、川島をモチーフにした作品であるとも言える。川島が好んで使用した「墓場シーン」(葬式ビジネス)をメイン素材にし、ラスト勝新太郎が現世と来世を彷徨するようなこの映画のクライマックスは、川島の出身である恐山そのものである。  

出典:wikipedia

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