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生國魂神社

生國魂神社(いくくにたまじんじゃ、簡体字:生国魂神社)は、大阪府大阪市天王寺区生玉町にある神社。式内社(名神大社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。大阪市中心部、難波宮跡や大坂城(大阪城)から南西方の生玉町に鎮座する。かつては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大阪の代表的な古社の1つである。古くからの社殿・神宝は幾多の火災・戦災によって失われたが、現本殿には「生國魂造(いくたまづくり)」と称する桃山時代の独特の建築様式が継承されている。また、7月11日・12日の夏祭など古くからの祭りが現在まで続けられている。史料上で見える表記は次の通り。近世には「生玉宮」・「生玉社」・「生玉明神」などとも称された。現在では「難波大社(なにわのおおやしろ)」の別称があるほか、地元では「生玉(いくたま)さん」とも通称される。祭神は次の3柱。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳における祭神の記載は2座。同帳では「難破坐生国咲国魂神社二座」と記載されるが、その社名は「難波に鎮座する生国魂神・咲国魂神の社」という意味になり、同帳のうえでは祭神は「生国魂神」と「咲国魂神」の2神になる。現在の祭神である生島神・足島神は、その2神と表記は異なるが実体は同神とされる。かつて祭神の本地仏は薬師如来とされ、現在も元神宮寺の法案寺南坊では本尊に祀られている。祭神とする生島神・足島神の2神は、『古事記』・『日本書紀』等の神話に記されない神々である。『延喜式』祝詞では生島御巫が生国・足国の2神を祀ると記されるほか、『延喜式』神名帳では生島巫が神祇官西院で生島神・足島神の2座を祀ると記されており、平安京の宮中で「生島巫(いくしまのみかんなぎ)」という専門の巫女により奉斎される重要な神々であった。その神格については、『古語拾遺』に「生島 」とあるように「大八州」すなわち日本国土の神霊であるとも、またその国土にあるものを生成・充足する神々ともされる。この生島神・足島神については、天皇の即位儀礼の1つである八十島祭(やそしままつり、八十嶋祭)との関わりが知られる。八十島祭は、新天皇による大嘗祭が行われた翌年、生島巫らが宮中から難波津に赴き、天皇の衣の入った箱を揺り動かすなどの神事を行う祭りである。史料上は平安時代の嘉祥3年(850年)から鎌倉時代の元仁元年(1224年)まで、約400年間の実施が認められている。八十島祭の目的は諸説あるが、一般的には生島神・足島神が主神であったとされており、この2神を祀ることで大八州の神霊を天皇の体に取り入れ、天皇の国土支配権の裏付けを企図するものであったとされる。史料の上では八十島祭と生國魂神社の関係は明らかでないが、祭場・祭神からして生國魂神社の祭祀にも関わると考えられており、生國魂神社で行われていた「原」八十島祭が宮中に取り入れられて「宮廷」八十島祭になったとする説も挙げられている。難波では、生國魂神社の類例として坐摩神社(大阪市中央区久太郎町、式内大社)の鎮座も知られる。坐摩神社祭神の座摩神は、宮中で「座摩巫」という専門の巫女により奉斎される重要な神々であった。後述のように生國魂神社は上町台地北端部(現在の大坂城の地)から現社地に鎮座したとされるが、この坐摩神社もかつては大坂城付近に鎮座したとされる。上町台地北端部では難波宮も営造されていることから、生國魂神社・坐摩神社とも難波宮との関わりが指摘される。遡れば難波には上古天皇の宮の伝承が多く残され、下って平安時代に港湾としての難波の重要性が薄れても上述の八十島祭が代々続けられていたことから、宮中の座摩神・生島足島神自体が元来は難波地方の地主神(国魂)であったとする説や、それらの祭祀の淵源が5世紀の河内王朝の時代まで遡ると見る説が挙げられている。以上のほか、『神社覈録』では祭神を「天活玉命」とし、本居宣長は『古事記伝』において『先代旧事本紀』に見える十種神宝のうちの「生玉」との関連可能性を指摘する。相殿神の大物主神は後世の配祀で、社伝では永禄元年(1558年)の社殿造替時に境内社から本殿に遷座・配祀されたとする。社伝では、神武天皇(初代天皇)の東征の際、天皇が摂津国石山碕(現在の大坂城付近)に生島神・足島神を鎮祭したのが創建という。史実としての創建時期は明らかでないが、後述のように孝徳天皇の時に難波宮の資材になる大きさの樹木が伐られていることから、それ以前の鎮座は確実とされる。旧鎮座地について史書に詳しい記述はなく、正確な位置は明らかでない。文献上初見は『日本書紀』孝徳天皇(在位:645年-654年)即位前紀で、その分注に孝徳天皇が神道を軽んじた例として「生国魂社」の樹を伐ったことが記されている。この伐採は、難波宮造営のためであったと考えられている。なお、それに先立つ『日本書紀』推古天皇6年(598年)条では、難波吉士磐金が新羅から持ち帰った鵲2羽を「難波杜」で飼わせたと見え、これを生國魂神社に比定する説もある。『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒によれば、当時の「難波大神社」には神戸として摂津国から2戸が充てられていた。続けて国史では、天安3年(859年)1月に「難波生国魂神」の神階が従四位下勲八等に昇叙された旨や、同年(貞観元年)9月に「難波大社神」などに雨乞のための奉幣が遣わされた旨が記されている。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では摂津国東生郡に「難破坐生国咲国魂神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗」として、2座が名神大社に列するとともに、朝廷の月次祭・相嘗祭・新嘗祭では幣帛に預かる旨が記載されている。また『延喜式』では臨時祭祈雨神祭条や四時祭相嘗祭神条に「難波大社(難破大社)二座」として、臨時祭名神祭条には「難波生国魂神社二座」として記載される。保安元年(1120年)の「摂津国正税帳案」によると租稲は80束であった。中世頃の変遷は不詳。明応5年(1496年)には蓮如が石山御坊(のちの石山本願寺)を築くが、『天文日記』等によれば、この石山御坊は生玉社に隣接して建てられたとされる。『天文日記』によれば、天文12年(1543年)には普請として生玉の畑地に「土井」が、天文13年(1544年)には「生玉屋敷」の堀が築かれた。また、天文15年(1546年)には本願寺により大規模な遷宮祭が実施され、本願寺から神官吉田方には太刀500振が贈られている。当社は本願寺の鎮守のような位置づけにあったが、織田信長と本願寺との間で石山合戦が起こると、天正8年(1580年)の兵火で社殿は焼失した。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が石山で大坂城の築城を始めると、生國魂神社および神宮寺の法案寺は現社地に遷座された。実際の遷座年について社伝では天正13年(1585年)の遷座とするが、『義演准后日記』の記述によれば慶長3年(1598年)のことであったと推測される。また、秀吉からは社領として300石が寄進されたという。慶長11年(1606年)には、豊臣秀頼が片桐且元らに命じて社殿を造営させたが、『鹿苑日録』ではその華麗さが記述されている。江戸時代には、豊臣秀頼により造営された社殿が元和元年(1615年)の大阪夏の陣による兵火で焼失したが、江戸幕府により社殿は再興され、社領300石も安堵された。寛永-正保期(1624-1648年)の「摂津国高帳」によれば、その社領地は下難波村(現在の浪速区)にあった。また5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院は、黄金若干を当社に寄進したという。『摂津名所図会』では、当時の境内の様子や走馬神事の様子などが描かれている。弘化2年(1845年)には、社殿の造替がなされた。明治維新後、明治4年(1871年)5月には近代社格制度において官幣大社に列した。明治の神仏分離に際して、神宮寺の真言宗志宜山法案寺は生國魂神社から分離されている。この法案寺(または法安寺)は寺伝で聖徳太子の建立とする寺院であったが、10院(生玉十坊)あったという塔頭は神仏分離の際に分かれ、そのうち南坊が島之内において「法案寺」の寺名・法燈を継承したほか、医王院・遍照院は生玉寺町の青蓮寺に、観音院・新蔵院は上之宮町の正祐寺に、桜本坊は奈良県生駒市の円正寺に、覚園院は生玉前町の宗恵院になった。また曼荼羅院は生玉町の持明院と、地蔵院は生玉町の藤次寺と、持宝院は心斎橋筋の三津寺とそれぞれ併合されている。1912年(明治45年)1月には「南の大火」により社殿を焼失し、1913年(大正2年)11月に再建された。しかし1945年(昭和20年)3月の第1回大阪大空襲により再び焼失し、1949年(昭和24年)7月に再建されるも、1950年(昭和25年)9月のジェーン台風で倒壊した。その後、1956年(昭和31年)4月に鉄筋コンクリート造で再建され、現在に至っている。現在の社殿は1956年(昭和31年)の再建。現在はコンクリート造ではあるが、五間四面の本殿と七間四面の幣殿は屋根が1つの流造で葺きおろされ、さらに正面屋根には千鳥破風・すがり唐破風・千鳥破風の三破風を据えるという伝統的な造りが再興されている。この独特な建築様式は「生國魂造(いくたまづくり、生国魂造/生玉造)」と称され、豪壮な桃山文化の遺構とされる。本殿・幣殿の前には拝殿が建てられているほか、その他の社殿として回廊・神饌所・儀式殿などがあるが、いずれも戦後のコンクリート造による再建建物になる。境内には蓮池があったが、現在までに埋められて生玉公園となっており、社前から「馬場先」と称される表参道も続いていたが、それも谷町筋の拡張の際に分断されている前述のように旧鎮座地は大坂城の地であったとされ、かつては大坂城内に「生玉明神」の手水石・石燈籠・神木の松が残されていたというが、いずれも現存しない。なお、行宮(御旅所)は大阪市中央区本町橋にある()。境内社として次の11社がある。所在地交通アクセス周辺注釈原典出典書籍サイト

出典:wikipedia

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