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旧川口居留地

旧川口居留地(きゅうかわぐちきょりゅうち)は、1868年から1899年まで現在の大阪府大阪市西区川口付近に設けられていた川口外国人居留地の跡地。旧大阪居留地、旧大阪川口居留地ともいう。居留地時代の建物は現存しないが、1920年竣工の壮麗な大聖堂である日本聖公会大阪主教座聖堂川口基督教会(ウィリアム・ウィルソン設計、国の登録有形文化財)が当時の街の面影を伝えている。1858年の安政五カ国条約によって、大坂(大阪)は函館・東京・横浜・新潟・神戸・長崎と共に開港または開市(外国人に商取引を認めること)されることが決定された。江戸幕府は開市開港の時期を引き伸ばし続けてきたが、結果幕府は倒れ、明治新政府によって1868年に東京・新潟・神戸とともに大阪が開市開港される。開市は1868年1月(慶応3年12月)、開港は1868年9月(慶応4年7月)のことであった。開市開港直前の大阪では、安治川と木津川の分流点に位置する川口に船番所や組屋敷を設置していた大坂船手組が軍艦奉行の勝海舟の提言によって1864年に廃止され、その跡地を外国人居留地に充てることが予定されていた。なお、大坂船手組の船員たちの多くは同じく勝海舟が頭取を務める神戸海軍操練所に転属されている。また、1867年には幕府が「戎」の文字の使用を禁止したため、予定地の南隣に位置する戎島町が梅本町に改称されている。1868年7月に26区画の諸外国への競売が行われ完売し、直ちに街路樹や街灯、洋館が並ぶ西洋の街へと整備される。居留地に接する富島、古川、梅本町、本田一番町~三番町も外国人雑居地となり、1886年には人気に応えて10区画の増設が行われた。また、木津川対岸の江之子島にはドームを有する洋風建築の大阪府庁本庁舎(1874年竣工、1926年大手前へ移転)や大阪市役所(1889年竣工、1912年堂島浜へ移転)が建設される。1899年に居留地制度は廃止されるが、大正時代末まで周辺一帯は大阪の行政の中心であり大阪初の電信局、洋食店、中華料理店、カフェができ、様々な工業製品や嗜好品がここから大阪市内に広まるなど、文明開化・近代化の象徴であった。しかし、貿易港としては短命に終わっている。川口および当時の大阪港である安治川左岸の富島は、安治川河口から約6km上流に位置する河港であるため水深が浅く、大型船舶が入港出来なかった。1872年には外国船の入港が途絶え、川口の外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へ続々と転出した。1890年代に東洋最大の港となった神戸港の繁栄とは対照的に、幕末から指摘されていた大阪港の大型船舶航行の限界は、結局1897年の大阪港第1次修築工事による新港湾造成まで解消されることはなかった。川口には外国人貿易商に代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として病院、孤児院、学校を設立し経営を行った。平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院等はこの地で創設されたのである。それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、武家屋敷の破却により空地が生じた玉造をはじめ、現在の天王寺区や阿倍野区域にあたる上町台地へ広い敷地を求めて次々と移転して川口は衰退への道をたどることになる。1899年の居留地廃止後は大阪市へ編入され、大阪市西区川口町となった。川口雑居地には華僑(その多くは山東省出身者)が進出するようになり、中国人街となった。1916年に本田三番町に中華南帮公所、本田二番町に中華北帮公所が設置され、1925年には中華北帮公所内に中華民国駐神戸領事大阪分事務所も設置された。昭和初期にはその数は3,000人を超え、洋品店・理髪店・貿易業といった商売を行っていた。しかし、日中戦争の激化などでその多くは帰国し、大阪大空襲で焼け野原となった。戦後は華僑は大阪市内各地に拡散し、川口は地味な倉庫街となった。いくつかの古いコンクリート建築、赤煉瓦の三井倉庫 (現在は解体)、モダニズム建築の住友倉庫本社がある他は、往時の繁栄の面影は残っていない。本田小学校の一隅に「川口居留地跡」の石碑(1961年大阪市建立)がひっそりと立っているのみである。日本聖公会大阪主教座聖堂川口基督教会は1995年の阪神淡路大震災により塔などが崩壊し、その後に多くの寄付を受けて復旧された。

出典:wikipedia

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