井伊 直盛(いい なおもり)は、戦国時代の武将。井伊直宗の子。井伊直平の孫。遠江国引佐郡井伊谷城主(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)。女領主となった井伊直虎の父。井伊氏は遠江の国人。明応3年(1494年)、駿河国守護・今川氏親が遠江へ進出すると、井伊氏は遠江守護・斯波氏や大河内氏と結託して対抗した。この争いは明応、文亀、永正と断続的に続き、永正10年(1513年)、今川氏が遠江国を支配下におさめると、井伊氏の一員である井伊直平が今川配下に入り、井伊谷周辺に勢力を持つことになった。直盛の生年は、36歳または56歳で死去したという2つの説があるが、祖父の直平が永禄6年(1563年)に75歳または85歳で死去していることから見て、その孫が永禄3年時点で56歳ということは考えられないため、36歳で死去、つまり大永6年(1526年)生まれと考えられる。亡父・氏親の頃に支配を確立した駿河、遠江の2ヵ国に、新たに三河国を傘下に治め、今川氏最大の版図を築いた今川義元は、永禄3年(1560年)に尾張国への遠征の為の大軍を動員。直盛は、その先鋒の大将に任じられた。織田氏の各拠点を奪取するなど今川軍が優位だったが、同年5月19日、桶狭間にて休息中の本隊が織田信長自らに率いられた手勢の強襲を受け、多くの将兵を失っただけでなく、総大将の義元をも討ち取られた(桶狭間の戦い)。この戦いで討死した直盛は、井伊氏の菩提寺・龍潭寺に葬られた。男子の無い直盛の戦死後、家督を継いだ従弟の直親は、讒言によって今川氏への叛意を疑われたため今川氏の重臣・朝比奈泰朝に攻められて戦死した。その後やむなく、直盛の娘・直虎が政務を執ったが、今川氏の傘下を離れた松平元康(徳川家康)の遠江侵攻を受けると、この傘下に入る。のちに直親の遺児・直政は家康に見込まれて、徳川四天王の1人に数えられるまでになる。
出典:wikipedia
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