駿河湾(するがわん)は伊豆半島先端にある石廊崎と御前崎を結ぶ線より北側の海域。最深部は水深2500mに達し、日本で最も深い湾である。駿河湾は湾口幅が56km、奥行が約60kmあり、 表面積は約2,300km。約60万年前にフィリピン海プレートに載った火山島であった伊豆半島が本州に衝突して駿河湾ができた。湾はフィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界、その北端部である駿河トラフが湾の南北に通るために深度が深い。富士川河口部にあたる湾の最奥部では、海岸からわずか2km地点で水深500mに達する。伊豆半島や伊豆諸島から沖縄県の各諸島までは、太平洋の一海域であるフィリピン海であり、駿河湾もその一海域に含まれる。湾の西側は大井川、安倍川、富士川などの一級水系が多く、河川水の影響を強く受けている。また、海底地形が複雑で多くの海底谷を有する。これに対し、湾の東側は伊豆半島の中央を流れる一級水系の狩野川の河口が、湾奥にあるため流入河川が少なく表層水が比較的、澄んでいる。また、西側と異なり海底谷は少なく、海食崖や、島嶼が多くなる。湾南西域には水深平均100m、最浅部32mの石花海(せのうみ、または石花海堆)と呼ばれる台地が存在し、好漁場となっている。この石花海は2つの高まりからなり、北側を石花海北堆、南側を石花海南堆と呼ぶ。駿河湾の一海域として、湾奥の沼津市沖のごく小さい海域が、内浦湾と江浦湾と名づけられている。また、湾の東側にある三保半島で分けられた海域が折戸湾と呼ばれている。なお、先述の駿河トラフが湾に通るため、これが巨大地震とされる東海地震を起こすと一般的に考えられている。2009年(平成21年)8月11日にはマグニチュード6.5の駿河湾地震が起きたが、気象庁などの発表ではこの地震と東海地震の関連性について直接的には関係ないとした。公の機関では、御前崎から大瀬崎までの163kmを駿河湾沿岸、大瀬崎から石廊崎を経て、静岡県と神奈川県の境界までの273kmを伊豆半島沿岸として用語を使用している。駿河湾では江戸時代後期から明治・大正・昭和初期にクロマグロが漁獲されていた。天保3年(1832年)に幕府浜御殿奉行・木村喜繁は長浜村(沼津市)においてマグロの大漁を目撃し、画帳『天保三年伊豆紀行』(静岡県立中央図書館所蔵)として記録しており、マグロ漁師や商談をする網元・商人の姿を描いている。同年3月には滝沢馬琴が『兎園小説余録』において江戸におけるマグロ価格の暴落を記録しており、木村喜繁が目撃したマグロ大漁が影響したと考えられている。近代には1894年(明治27年)刊行の『静岡県水産誌』においてマグロやカツオ、イルカなど大型魚類・哺乳類の漁獲を記している。同書によればこれらの大型魚類は網で断ち切り追い込んで漁獲する「建切網」と呼ばれる漁法で漁獲されていたという。マグロは駿河湾奥部から伊豆半島を中心に漁獲されており、カツオは駿河湾口部と湾外で漁獲されている。イルカはマグロ・カツオに比較して少なく、西伊豆を中心に漁獲されている。1907年(明治40年)・1913年(大正2年)には沼津市口野の金桜神社にマグロ豊漁を祈念した絵馬が奉納され、マグロ漁の様子が描かれており、1921年(大正10年)頃の木内三朗『落穂拾遺』でも、木内が1919年(大正8年)に伊豆三津浜で目撃したマグロ追い込みや買い付けの商人の姿が描かれている。江戸後期・明治期には駿河湾で漁獲された大型魚類は内陸部へも流通しており、甲斐国(山梨県)南部の鰍沢河岸(山梨県富士川町鰍沢)からは江戸後期から近代にかけての魚類など動物遺体が多く出土している。鰍沢河岸出土の魚類はマグロやイルカといった大型魚類をはじめ、アブラボウズ・イシナギなど伊豆半島や小田原で食される希少種も出土している。これらの魚類は駿河湾で漁獲され、甲斐・駿河間を結ぶ富士川舟運や中道往還を通じて甲斐国へもたらされたと考えられている。日本の魚類は淡水魚を含め約2,300種であり、駿河湾内にはこの内の約1,000種の魚類が生息している。かつて、深海部で撮影された巨大なオンデンザメ科のサメの映像がテレビ番組上で放送され、話題になったこともあった。また、近年では一般的に観察の難しいとされるアカボウクジラ科やスジイルカ、ハナゴンドウなど鯨類が回遊・定住する海域であることも判明しつつある。松崎町雲見町には非常に希少な種類(セミクジラ)の骨格標本を展示する「雲見くじら館」も建立されている。以下は主要な港湾である。ただし、2種未満の漁港は除く。
出典:wikipedia
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