アブドル・ハク(Abdul Haq、1958年4月13日 - 2001年10月26日)は、アフガニスタンのムジャーヒディーン、政治家。ソ連・アフガン戦争で活躍したパシュトゥーン人のムジャーヒディーン司令官。2001年10月、反ターリバーン蜂起を煽動するためアフガニスタンに潜入を企てたところを逮捕され処刑された。外交使節として再三国外に派遣された。特にレーガン大統領がムジャーヒディーンへの大規模な軍事援助を決定したのは、彼が説得したからだと考えられている。1980年代末、ソビエト軍の撤退に関するジュネーブ交渉時、アメリカ国務省に助言した。ナンガルハール州出身のパシュトゥーン人。生家は、ギルザイ部族連合アフマドザイ部族の富裕な名家で、ザーヒル・シャー国王とも関係が深かった。彼の父方の曽祖父ワズィール・アルサラー・ハーンは1869年アフガニスタンの外務大臣を務め、対英対露策に奔走した。また、彼の従兄弟ヒダーヤト・アルサラーは世界銀行の理事を務め、後にカルザイ政権の副大統領に就任した(2001年12月 - 2004年12月)。彼は庶子であったため家督は継いでいない。家督を継いだ兄はイスラーム党(ハーリス派)の指導者だったハジ・アブドゥル・カディールであり、カルザイの初期の有力な支援者で、後に政権の閣僚も務めたが、2002年暗殺された(カディールを兄とするものと、弟とするものがある)。マドラサに通った後、8歳からリセで学んだ。パシュトゥー語、ダリー語、英語を自由に話す。1977年にグルブッディーン・ヘクマティヤール率いるイスラム党(ヘクマティヤール派)の一員として、当時の共産主義政権に対する武力闘争に身を投じた。後にムハンマド・ユーヌス・ハーリスのイスラム党 (ハーリス派) に転じた。ソ連・アフガン戦争では、カーブル地域のムジャーヒディーンを束ねた。一連の戦闘での活躍によって、指揮官としての名声が高まり、アフガニスタン全土でも指導的な立場を得るに至った。ガーディアンによると、戦場で12回負傷し片足を失った。そのため戦場ではいつも馬の背にあったと言う。また、戦傷治療のために日本を訪れたことがある。1992年、ナジーブッラー政権崩壊後、ラッバーニー政権の内務相となったが、4日間しか在任せず、野戦指揮官の一部を汚職で非難して辞任した。元共産主義者のラシッド・ドスタムとの協力には厳格に反対した。1990年代中盤、ターリバーンとの協力を拒否して、ドバイに亡命した。1998年、ターリバーンは、彼に内務相のポストを提案した。1998年、国際連合の和平調停者に就任した。2001年10月、ターリバーンに対抗するパシュトゥーン人勢力を復活させるために、アメリカの援助の下、数百人の支持者と共にローガル州に潜入した。潜入2日後、2001年10月26日逮捕、処刑された。ガーディアンによると、ハクが捕らえられたのは二重スパイによる裏切りのためだと言う。ハクの能力を過信したISIに任せきりで、ハクをサポートする手を何も打たなかった、とCIAを非難する報道が彼の死の直後に相次いだ。ガーディアンは追悼記事で「有能な指揮官」「汎民族的ロヤ・ジルガを主導する能力がある数少ない指導者の一人だった」と彼を偲んだ。アメリカ政府は、彼をアフガニスタンの未来の指導者の候補者と見ていた。彼自身は、ザーヒル・シャーの支持者と考えられていた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。