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信夫郡

信夫郡(しのぶぐん)は福島県(陸奥国・岩代国)にあった郡。伊達郡と合わせた地域が信達と呼ばれる場合がある。1878年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、福島市の大部分(飯野地区および松川町下川崎・松川町沼袋・立子山・大波・飯坂町東湯野・飯坂町湯野・飯坂町茂庭を除く)にあたる。大和朝廷の勢力圏が東北地方にも及び始めた5 - 6世紀、福島盆地周辺は大和朝廷の勢力圏の北限として信夫国(しのぶのくに)がおかれ、信夫国造がおかれた。他の北限の国と同様、武装して北方警備にあたる任があった。律令制が施行されるまでに国は評(こおり)、国造は評司(こおりのつかさ)と名前がかわり、複数の評を併せてよりおおきな範囲で新しい国が設置された。東北地方では陸奥国が成立した。701年(大宝1年)に律令制が始まると、道国郡制が整備され、陸奥国信夫評は、東山道陸奥国信夫郡となって、評司は郡司(ぐんじ)に置き換わった。大和朝廷の勢力圏が北進したために、陸奥国は一時的に石城国(いわきのくに)(現在の福島県浜通りと宮城県亘理郡)、石背国(いわせのくに)(現在の福島県中通りと会津)、陸奥国(ほぼ現在の宮城県)の3国に分国されたが、新しい陸奥国の経済力では北方防備に不十分だったため、すぐに3国はもとの陸奥国に戻された。この分国時、信夫郡は石背国の北東端となった。以後、明治維新後の分国まで一貫して陸奥国だった。なお、当時の福島盆地中心部は岑越であり、現在の福島市北五老内あたりであったと思われる。当時松川は信夫山の南側を流れていて、松川以北摺上川以南の地名は岑越(みねこし)であり、信夫山は岑越山(みねこしやま)と呼ばれた。一方、松川の南、杉妻(すぎのめ)には杉妻大仏が建立された。10世紀初頭、各郡の生産高や人口を均一化して行政管理を容易にする都合から、全国的に大きな郡の細分化が行われた。このとき、信夫郡も分割して新たに伊達郡を設置した。旧信夫郡のうち、小倉郷、安岐(安芸)郷、岑越(みねこし)郷、曰理(わたり)郷は新信夫郡となり、伊達郷と靜戸(しずりべ)郷と鍬山(くわやま)郷の3郷が新しく伊達郡となった。おおよそ、旧信夫郡のうちおおよそ西半分が新しい信夫郡、東半分が伊達郡となった。ただし現在福島市になっている摺上川以北は伊達郡であった。平安時代末期には奥州藤原氏の勢力圏となり、藤原氏一族の信夫佐藤氏が現在の福島県中通りと会津、山形県南部の置賜地方をほぼ勢力下に収め、信夫郡と伊達郡はその本拠地となった。源頼朝による奥州藤原氏征伐のときは、伊達郡国見町の厚樫山(あつかしやま、当時は国見山とも)を中心に藤原氏の防衛線が張られ、事実上の決戦場となった。このとき、常陸国伊佐郡を本拠地としていた中村氏(伊佐氏)が佐藤基治を破った。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、信夫佐藤氏は滅亡を免れたが、信夫荘(信夫郡の松川以北)に押し込められ、小領主に転落した。なお、伊達郡は中村氏に与えられ、伊達郡に分家した中村氏はその後伊達氏を名乗るようになった。以後、伊達氏が現在の宮城県・岩手県南部に転封されるまで、信夫郡・伊達郡は伊達氏支配となる。なお、この間に大森城や、杉妻の大仏城が築城され、中心地域は岑越から杉妻に移っていた。信夫郡・伊達郡を本拠地として、室町時代から急速をのばした伊達氏が最終的に、宮城県南部、山形県南部(置賜地方、当時の長井郡)、福島県中通りと会津を支配した。しかし、豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達政宗は現在の岩手県南部と宮城県に移封され、かわって近江武士の蒲生氏郷が会津に入り、信夫郡、伊達郡も蒲生氏郷領になった。このとき、蒲生氏郷臣下の木村吉清が大仏城主となり、地名を福島に改めたという。蒲生氏郷の死去後、子の蒲生秀行は宇都宮に減封となり、かわって越後国から上杉景勝が会津に入り、信夫郡・伊達郡も上杉領となった。1600年の関ヶ原の戦いでは、旧領回復を願う伊達政宗が進軍し、福島盆地で上杉軍と伊達軍の戦が繰り広げられたが、上杉軍は伊達軍を撃退した。関ヶ原の戦い後、上杉景勝は会津地方、福島県中通り中部を召し上げられ、山形県南部の置賜郡と信夫郡、伊達郡の3郡を領有する地方領主に転落した。信夫郡は米沢藩領として江戸時代を迎える。江戸時代初期、信夫郡と伊達郡が上杉氏米沢藩の所領だったが、上杉綱憲家督相続時(1664年)に信夫郡と伊達郡は江戸幕府に召し上げられて一時的に天領となり、次に本多氏の福島藩が置かれる。しかし、本多氏もすぐに転封となり、伊達郡には松平氏梁川藩が置かれる。本多氏福島藩の時代まで、長年信夫郡と伊達郡は一括支配が常であったが、この梁川藩の成立によって、信夫郡と伊達郡は一括支配の時代を終えた。信夫郡にはその後堀田氏福島藩がおかれ、さらに堀田氏が転封されて、板倉氏福島藩が幕末まで存続することになるが、堀田氏福島藩も板倉氏福島藩も信夫郡1郡支配ではなく、信夫郡の一部を領有したにすぎなかった。信夫郡は福島藩領や天領、他藩飛び地が村単位で複雑に入り乱れるようになった。一方、江戸幕府は国内での生糸の自給と質の向上を進めて幕府による生糸生産の独占を図ろうと計画し、蚕の育成に適した福島盆地一帯に養蚕業を奨励した。このため、福島盆地は江戸時代中期には全国の蚕種生産高の半分以上を占める全国屈指の養蚕地帯となった。1773年(安永2年)、伊達郡・信夫郡の17村は営業税を幕府に納め奥州蚕種本場の銘(登録商標)を得ている。

出典:wikipedia

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