松平 宗秀(まつだいら むねひで)は、幕末の譜代大名、老中。丹後宮津藩第6代藩主。本庄松平家9代。第4代藩主・松平宗允の三男として生まれる。父の死去時は幼少だったため、叔父の宗発を挟んで、天保11年(1840年)に家督を相続した。大老・井伊直弼の元で寺社奉行として安政の大獄を行政化し、北町奉行・石谷穆清、勘定奉行・池田頼方、大目付・久貝正典、目付・神保長興らと共に志士の処罰を行った。その後、大坂城代を経て京都所司代に任命されたが、朝廷内から大原重徳を中心に安政の大獄の当事者の起用に反対が起こり、幕府内でも会津藩主・松平容保が反対したため、任命はされたが赴任できず(代役に酒井忠績)、2ヶ月後に更迭された。その代償として溜詰格となり譜代大名最高の格式を得たが、安政の大獄に対する追罰人事を受け、その格式は約1年3ヶ月で剥奪された。その後、老中となり、阿部正外とともに幕府軍3千を率いて上洛した。徳川慶喜を江戸へ連行し、京都を一会桑政権ではなく幕府の統制下に置こうとしたが、失敗した。在任中の慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では安芸広島に出陣し、幕府軍の指揮を執った。やがて戦争継続の不利を悟り、捕虜にしていた長州藩家老の宍戸・小田村伊之助両名を独断で釈放し、有利な和平工作を試みた。だがこれが発覚して老中を罷免され、家督を五男の宗武に譲って隠居謹慎を命じられた。なお、鳥羽・伏見の戦いの際に旧幕府方についた責任を問われた宮津藩が藩兵を率いていた重臣2名を切腹させようとしたところ、長州藩から新政府に対して先の宍戸・小田村の釈放の功績と引換にするように申入れがあり、2名は助命されている。維新後は新政府に出仕し、伊勢神宮の大宮司などを歴任した。1873年(明治6年)に65歳で死去。神道家の井上正鉄(禊教教祖)に師事した。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した「袖日記」という古記録に宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の六番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そこで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。
出典:wikipedia
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