ヴァルナ(、ラテン文字表記:"Varna"、発音:)はブルガリア北東部ヴァルナ州に位置する都市で、ブルガリアの黒海沿岸では保養地であり最大の都市でブルガリア国内では首都ソフィアやプロヴディフに次いで3番目に大きな都市である。2011年2月現在の人口は市街で334,870人、基礎自治体全体では343,704人。ヴァルナはヴァルナ州やヴァルナ基礎自治体の行政的な中心地で、バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラード、テッサロニキ、ザグレブ、スコピエ、ティラナ、プロブディフに次いで11番目に大きな都市である。ヴァルナはブルガリアの「海の首都」あるいは「夏の首都」とよく言われ、メジャーな観光地でありビジネスや大学、海港、ブルガリア海軍の司令部、商船などの各拠点が置かれている。1949年から1956年までは、ヨシフ・スターリンの名をとってスターリン (, ) という都市名であった。ヴァルナ州や統計的な地域であるドブリチ州やシュメン州、トゥルゴヴィシテ州を含むブルガリア北東計画地域(NUTS II)の中心都市である。ヴァルナ空港は2011年に1,181,830人の旅客を扱っており、ブルガリアではブルガス空港やソフィア空港に次いで3番目に旅客数が多い空港である。2008年4月にヴァルナは黒海欧州地域 "Black Sea Euro-Region"("Black Sea Euroregion"と同一でない新たな組織)の中心として欧州評議会で指定された。ヴァルナ・ネクロポリスでは世界最古の黄金の宝物が発見され、これらはコインと武器、宝石などで構成され紀元前4,600年頃に遡る。ヴァルナの市域面積は、基礎自治体の面積は を占め北側の高原(海抜356m)から下がって来た緑豊かな台地(モエシアプラットフォームのヴァルナ)と南のアヴレン台地、馬蹄型に沿った黒海のヴァルナ湾、細長いや湾と湖をつなぐ二つの人工的な運河、が占めている。中心部はコナベーションが沿岸に沿って北側に 、南側ににわたり成長し広がっている。南側はほとんどが住宅地や保養地が広がる街並で、湖に沿った西側は交通や産業用の施設がほとんどである。古代以来、都市の周辺はブドウ畑や果樹園、森林に囲まれている。商船施設は湖の内側や運河に再配置され湾内は保養地となりそのほとんどがウォーターフロントの緑地である。市街地には を超える砂浜と豊富な温泉の源泉(35-55℃)がある。海の影響による穏やかな気候により地中海同様の秋や日が良く照る温暖さであるが、地中海よりはそよ風や規則的な降水により涼しい夏となっている。ヴァルナの降水量はブルガリア平均の三分の二であるが、豊富な地下水により緑豊かな丘陵地は夏の間保たれている。ヴァルナは北や北東の風が湾の入江に沿った丘陵により遮られるが、1月や2月は、風雪により時々ひどく寒くなることがある。黒海の海水は1989年以降、後背地域での化学肥料の使用量減少により奇麗になっている。ヴァルナから首都ソフィアは北東 470km 、近隣の大きな都市ドブリチの北側に45km、シュメンは西に80km、ブルガスは南西に125kmそれぞれ離れている。ヴァルナへは空路ではヴァルナ空港が海路では にクルージングターミナルがある。鉄道ではからブルガリア各地へ列車が運行されている。ヴァルナを通る幹線道路には欧州自動車道路のE70号線によりブカレスト、E87号線ではイスタンブールやコンスタンツァ、高速道路ではA-2により首都ソフィアへ、A-5によりブルガスに達する。多くの長距離バス路線もヴァルナからは運行されており、ブルガリアの主要都市や近隣国とを結んでおり市内には2つのバスターミナルがある。フェリーではウクライナのオデッサやロシア、ジョージア国のポティ、バトゥミなどと結ばれている。公共交通機関は広範囲をカバーし、料金も手頃で80を超えるローカルや急行バス、トロリーバス、決まったルートを走るミニバスの路線が設定されている。多くのタクシーも市内では営業している。2007年には多くのダブルデッカーバスが購入された。2008年夏の市長の公約では、市内全てのバスをエアコン付きとし、更にメタンガスを燃料とするとしている。ヴァルナの気候は温暖湿潤気候(ケッペンの気候区分では "Cfa")にかなりの海洋性気候と湿潤大陸性気候の影響がある。冬は冷たく時折寒くなるが内陸部よりは温暖である。夏は5月の半ばに始まり、10月初旬や中旬まで続く。夏の気温は通常夜間は20-25℃の範囲で昼間は27-35℃の範囲で6月から8月に気温が40℃を超えることは稀である。黒海沿岸は他のブルガリアの地域に比べ風の影響により過ごし易い。海水温は夏の間は通常22-27℃の範囲であるが、2010年に海水温が32℃に達する記録を付けた。冬は夜間の気温は0℃前後まで下がり、昼間は10℃程度である。時折、0℃以下の場合もある。降雪は12月から2月にかけ見られる場合があり3月は稀である。降雪は稀であり、降っても直に解ける。最高気温の記録は41.4℃で、最低気温は1929年2月10日に記録した。ヴァルナの1日の最高降水量は1951年8月21日に記録されたもので、強烈なスコールにより数時間で積算292mmの降雨があった。ヴァルナの北10kmに位置する近郊のサナトリウムでは342mmの降雨を記録している。最近では2011年10月17日-18日に169.2mmの降水量を記録している。先史時代の集落である銅器時代の(放射性炭素年代測定で紀元前5,000年半ばに遡る。)は世界の先史時代の考古学上の鍵となる遺跡でやのエポニムであり、現代の都市域では世界的に最古で最大の金の工芸品が発見されている。広い地域では1900年以前は淡水湖であったヴァルナ湖と隣接したカルスト地形の泉や洞窟では30を超える先史時代の集落が発見され、か10万年以上前の最初期の遺品が発見されている。古代のトラキアには紀元前1,000年にはトラキア人が居住していた。ミレトスの人々によりオデソスに交易地点であるアポイキア"apoikia"が紀元前7世紀の終わり頃に設立されたか、古代ギリシャの地理書"Pseudo-Scymnus"によれば当時アステュアゲス(紀元前572-570年頃と言われている。)で初期のトラキア人の居住地であった。オデソスの名称はおそらくギリシャ以前のアナトリア語派のがもとであるとされる。ポントスののメンバーであったオデソスには様々なコミュニティがありイオニア人と後背地のトラキア人(ゲタイ、、)との接触の場であった。トラキア人の土地の近くの発掘では紀元前7世紀から4世紀にかけて絶え間なく居住しており、植民と商業が密接していた。ギリシャ文字がトラキア語に少なくとも紀元前5世紀から使われている。紀元前425年、オデソスはデロス同盟の評価に含まれていた。紀元前339年のピリッポス2世の包囲は成功しなかったが、紀元前335年アレクサンドロス3世に降伏しその後、ディアドコイであるリュシマコスにより支配された。紀元前313年には他のポントスやゲタイの都市の一部が連合し反乱を起こしている。ローマ都市としてのオデソスは最初、海岸県"Praefectura orae maritimae"に含まれていたが15年にモエシア(後のモエシア・インフェリオル)に併合され、今日のヴァルナ中心部には47ヘクタールを占めた公共浴場のテルマエがあり2世紀後半に建築され、今日ではブルガリアに残る最大のローマのもので建物は幅 、長さ 、高さでヨーロッパでも4番目に大きなローマ風呂として知られている。3世紀頃には大きな陸上競技会が5年ごとに開かれていた。オデソスは初期の初代教会の中心で、10カ所の初期のバシリカの跡がそれを物語っており、単性説修道院や七十門徒、、アンデレの門弟が表れて主教が務めていた。6世紀、帝国の文書では「聖なる都市」"sacratissima civitas"と呼ばれていた。442年、テオドシウス2世とアッティラとの間で和平協定がオデソスで結ばれた。513年ウィタリアヌスの反乱の中心となった。536年ユスティニアヌス1世は独特の行政区画で "quaestor Justinianus" などが治める"Quaestura exercitus"の中心を設け下モエシアやスキュティア、カリア、エーゲ海諸島、キプロスが含まれていた。後にオデソスの外に軍の野営地に他のローマ人上級司令官の中心が置かれた。またはラテンとギリシャを分けるおおよその言語的な境界線がオデソスからアドリア海にかけて当時走っていた。に最初のヴァルナの言及があり6-7世紀にかけスラヴ人によるバルカン半島の征服により知られるようになった。この名称はおそらくもっと古く、の水を意味する"we-r-" やスラヴ祖語がルーツである黒を意味する "varn" 、イラン語群で野営地や要塞を意味する "bar" や"var"からもたらされている可能性もある。テオフォーヌによれば680年に第一次ブルガリア帝国の建国者であるアスパルフはドナウデルタ近くでコンスタンティノス4世の一軍団を敗北させた後、追跡し続けヴァルナと称するオデソス近くに達しった。おそらく、最初にヴァルナの新しい名称が使われたのは近隣の川や湖、ローマ人の野営地や島などで街の名称として使われたのは後のことである。10世紀後半、ヴァルナの名称はしっかりと確立したがブルガリア人から970年代にビザンティンに支配が戻った時も古代のオデソスを使うよりもヴァルナの名称が使われた。681年のビザンティン帝国との和平条約により新しいブルガリアの国が建国され一時的にドナウ以南のブルガリアの最初の首都とされた。ことによると、古代の都市はヴァルナ湖の北岸近くユスティニアヌス1世によりテオドリアス(Θεοδωριάς/Theodorias)と名付けられた場所で、70km西のプリスカへ移動する以前に置かれた。要塞化されたアスパルクはヴァルナ川低地のおそらくビザンティンの上陸を阻止する為のもので、アスパルホヴォの壁(Asparuhov val)は今でも残されている。多くの7世紀のブルガール人の集落が市内やさらに西側で発見されており、ヴァルナ湖の北岸にはすべての地域でもっとも多くのブルガール人が密集して住んでいた。アスパルクは重要なローマの軍の野営地(campus tribunalis)でユスティニアヌス1世によりオデソスの外に設けられ下モエシアやスキュティアを治める中心であったと考えられる。中世の間、ビザンティンとブルガリアとの間で支配が幾度となく変わった。9世紀後半から10世紀前半にかけてのヴァルナはボリス1世により与えられた修道院のの重要な写字室が置かれていた。写字室はキュリロスとメトディオスのある弟子の教えの下、ブルガリア人の学者がキリル文字を発達させるのに鍵となる役割を演じたかもしれない。考古学者のはボリス1世がそこに埋葬されていることを示唆している。ギリシャのトラキア人やローマ人、同様に東のアルメニアやシリア、ペルシャの特徴で合わさった文化によりユスティニアヌス1世統治下のオデソス周辺は発達し、それらの文化は第一次ブルガリア帝国のプリスカ・プレスラフ文化に影響を与えた可能性があり表面上は建築や人工的な装飾芸術で、ことによるとキリルの学問を含む文学なども含まれる。1201年、カロヤン・アセンは攻城塔を使用して、聖土曜日にビザンティンの下にあったヴァルナ要塞を占領し、第二次ブルガリア帝国を確実なものとした。13世紀後半の1261年に軍事同盟であるニンファエム条約がミカエル8世パレオロゴスとジェノヴァ共和国の間に結ばれ、黒海からジェノヴァにかけての通商が開かれヴァルナはジェノヴァや後のヴェネツィア共和国やラグーサ共和国などの商船がやってくる商港都市として繁栄した。二つの海の共和国は領事館や国外居住者の居留地を有しており、ラグーサの商人の港での活動はプロヴァディヤ近くの居留地から17世紀まで残っていた。街には両側に二つの城塞とカストリツィ(Kastritsi)とガラタ(Galata)の小さな商港があり、それらは互いの視界内にあり湖やマグリズ(Maglizh)、ペトリチ(Petrich)を見下ろす二つの要塞により保護されていた。小麦や動物の皮、蜂蜜、 蝋、ワイン、材木、他に地元の農産品をイタリアやコンスタンティノープルの市場へ主に輸出し、地中海の食品や贅沢品を輸入していた。ヴァルナでは自らの通貨制度を導入しヴァルナ・と呼ばれる貨幣が14世紀半ば頃から流通し、ブルガリアとヴェネチアの為替レートは条約により固定されていた。質の高い宝石加工や陶器、皮革、食品加工や他の手工業が栄え、河口では造船業が発達した。14世紀、イタリア人の羅針儀海図ではヴァルナはおそらくコンスタンティノープルとドナウデルタの間の重要な港であることを示し彼らは大抵はと表示していた。ヴァルナは不運にもサヴォワのより包囲され1366年にブルガリアの要塞は南側のガラタを含め攻略された。1386年、ヴァルナは一時的にの首都になり1389年にはオスマン帝国に支配され、1413年からおそらく1444年まで一時的にマヌエル2世パレオロゴスに譲渡されたり、1414年にクリミア・タタール人に略奪された。1444年11月10日、ヨーロッパの十字軍の歴史でも最後の最大規模の戦いが城壁の外側で行われた。オスマン帝国はヴワディスワフ3世率いる2万の十字軍戦士を敗走させ 、コンスタンティノープルへ出帆するため港に集まった。キリスト教徒の軍は55,000から60,000のスルターンムラト2世が率いる数では勝ったオスマンの軍に攻撃された。ヴワディスワフ3世はスルタンを捕らえるため、大胆な試みにより殺されてしまうが"Warneńczyk"のニックネームを得る。(ハンガリー語では "Várnai Ulászló"、ラテン語では"Ladislaus Varnensis"で知られる。)の失敗は1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルを陥落させられることを避けられず、ヴァルナや他のブルガリアの地域はオスマンに4世紀を超えてその支配下にあった。今日、ヴワディスワフ3世の慰霊碑がヴァルナにある。16-17世紀のオスマン支配期には主要な港、農業や交易、造船の中心であり都市としての重要性やブルガリア人の経済活動はそのまま維持されていた。ヴァルナではその後、ルセやシュメン、シリストラと一緒に「四辺形の要塞」の一つが造られドブロジャは露土戦争により残りのブルガリアからは切り離されロシアに含まれた。ロシアは1773年に一時的に攻略し、1828年に再び攻略し後にが続いた。中世の要塞は完全に破壊された後、2年後にオスマン帝国に戻っている。19世紀初期、多くの地元ギリシャ人は愛国的な組織であるフィリキ・エテリアに参加していた。ギリシャ独立戦争が1821年に勃発するとヴァルナでも革命的な活動が記録されている。この結果、ギリシャの国民運動に参加した地元の著名人はオスマン当局により処刑され、その間に他の者はギリシャに逃れ闘争を続けた。イギリスとフランスのロシアに対する軍事行動であるクリミア戦争(1854-1856)ではヴァルナは司令部や主要な海軍基地として使われ、多くの兵士がコレラで死亡し街は大火による破壊も経験している。イギリスとフランスの記念碑はコレラの犠牲者が埋葬された墓地に印されている。1866年、ブルガリア初の鉄道がヴァルナとドナウ畔のルセとを結びオスマンの首都であるコンスタンティノープルと中央ヨーロッパが結ばれることになった。その数年後にオリエントエクスプレスがこのルートを走るようになった。ヴァルナ港は主要な食糧供給とくに隣接する穀倉地帯であるからの小麦の供給とコンスタンティノープルや他の欧州の首都からの輸入の忙しいハブとして開発が進んだ。12の外国の領事館がヴァルナには開かれている。地元のブルガリア人はに参加し、は秘密革命委員会を設置した。1878年にブルガリアはオスマン帝国から解放され、当時街の人口は2万6千人でベルリン条約によりブルガリアへ譲渡された。ロシアの軍隊が7月27日に入城している。ヴァルナはその後、第一次バルカン戦争や第一次世界大戦の前線都市となり、経済は悪い状況となり一時的(1913-1916、1919-1940)に農業の後背地である南ドブロジャからルーマニアは損失の影響を受けた。解放後の最初の数十年でほとんどのトルコ人やギリシャ人は街を出て行き、ブルガリア人が内陸やドブロジャ北部、ベッサラビア、小アジア、その後マケドニアやトラキア東部、ドブロジャ南部から難民がやって来ており、続く第二次バルカン戦争や第一次世界大戦では民族の多様性はブルガリア人が多い状況になったものの、かなりの少数民族であるガガウズ人やアルメニア人、セファルディムの人々はその後数十年間残っている。第二次世界大戦では1944年9月に赤軍が街を進駐し、ブルガリアで共産主義統治を確かなものにするのを助けている。ヴァルナは初期の産業開発やブルガリア労働運動の中心で、ブルガリアでの重要な輸出港が設けられ主要な穀物産出やブドウ栽培)の中心で首都ソフィア以外ではブルガリア国内で最古の高等教育機関の本拠が置かれている。また、国際的な祭典やイベントが多く行われ夏の離宮であるは今でも残り、ブルガリア政府の迎賓館や夏の演奏会などに使われている。ヴァルナが現代のような大規模な観光地として姿を現すようになるのは1950年代後半のことである。重工業や貿易のソ連のブームは1950年代から1970年代にかけて続いた。1949年12月20日から1956年10月20日にかけてヴァルナの街の名称は共産主義政府によりソビエトの独裁者であったヨシフ・スターリンにちなみスターリンに改名されていた。1962年には第15回のチェス・オリンピアードが開かれている。1969年と1987年には新体操の世界チャンピオンシップの主催となった。1973年9月30日から10月4日にかけてはスポーツ宮殿においてオリンピックコングレスが開催されている。2019年にヴァルナは欧州文化首都になる。ヴァルナの経済はサービス産業を基盤とし61%の収益は商取引や観光から得ており、14%は製造業や交通、通信、6%は建設業によるものである。金融業でもとくに銀行業や保険、投資マネージメント、不動産金融がブームとなっている。2008年12月時点での世界金融危機による景気後退は軽微であった。ヴァルナは汎ヨーロッパ交通回廊8号線の東端に位置しており、ルセを経由して7号線や9号線と接続している。伝統的な主力産業は物流・輸送に関するものであり、ヴァルナ港やヴァルナ国際空港、のような古い商船会社や物流基地「ロジスティクス・パーク」などがある。また造船や船舶の修繕など海洋に関する産業が発展しており、スウェーデンを基盤とするなどの造船所が立地する。2007年6月にEniやガスプロムによってサウス・ストリームのプロジェクトが公表されたが、この計画ではの天然ガスのパイプラインによってロシアのから年間容量630億立方メートルがヴァルナへ送られ、近海のガラタ沖のガス田からさらにイタリアやオーストリアへと送られる。近隣の町であるベロスラフやデヴニャとヴァルナはを構成しブルガリアでも最大の化学工場や火力発電所、製造設備を有する。その中にはヴァルナ火力発電所や"Sodi Devnya"が含まれており、これらは民主化以降のブルガリアの歴史上、最大級の民営化案件であった。また、電波航法機器や家電、セキュリティシステム、織物、服飾、飲料や食品、印刷などの工場が注目される。一部の使われなくなった工場施設は再開発され、以前のVAMOディーゼルエンジン工場はECEショッピングモールになり、ヴァルナビール醸造所はコンベンションセンターに置き換わった。観光はヴァルナにとってもっとも重要な産業であり郊外の海辺のリゾートであるゴールデン・サンズ()やホリデークラブ・リビエラ、サニーデイ、や他のリゾート地を合わせた宿泊受け入れ可能数は2005年現在60,000ベッドで毎年数百万人もの人が訪れる。2006年には474万人が訪れそのうち399万人は国外からであった。リゾート地が国内外からかなり多くの投資を受けるようになったのは1990年代後半から21世紀に入ってからであり、環境的には適切で化学工場や他の重工業地帯からは離れた場所に位置している。ヴァルナはブルガリアでは唯一、国際的なクルーズ船の寄港地で2007年には30のクルーズ船の寄港が予定されていた。またメジャーな国際的なコンベンションやスパの中心である。2003-2008年の不動産ブームによってブルガリア国内では一番高い価格となり2007年秋には首都ソフィアを上回り、2009年4月現在でも保っていた。商業用の不動産ではメジャーな国際的なオフィスタワー計画の開発をしている。小売りにおいては国際的に大きな小売店を集めているだけでなく、ヴァルナ発祥を誇るチェーン店がブルガリアの大きな都市に点在しておりスーパーマーケットチェーンのやレストランチェーンのハッピー、薬局チェーンのサニタなどがある。2008年には3つの大きなショッピングモールが営業しており、さらに4つの様々な段階の計画がありヴァルナは国際的に魅力的なショッピングの目的地へと転換させている。ヴァルナの経済はブルガリアの中でも好調であり急成長が続いており2007年の失業率は2.34%とブルガリア国内平均の三分の一の低さで賃金の中間値はソフィアやブルガス並みに高い。多くのブルガリア人はヴァルナを好況にわく町と見なしており、なかにはソフィアやプロヴディフから移住したり、または西側諸国から戻って来る者もいる。しかし、ほとんどはドブリチやシュメンなどの近隣地域からヴァルナへ移って来ている。2004年9月の"Financial Times Business Ltd publication"が出版するビジネス誌FDi magazineは戦略的な地理や急成長する経済、豊かな文化遺産、高い教育水準などからヴァルナを南東ヨーロッパで将来性がある都市と公言している 。また2007年4月には スタンダード&プアーズはヴァルナの格付けを引き上げている。2007年12月と2008年10月にヴァルナはブルガリアで一番生活するのに適した都市に選ばれている。最初の人口の資料は17世紀半ばに遡り、当時の町の人口は4,000人程度であったと考えられる。 その後、1878年にトルコから解放されると1881年に最初の人口統計調査が行われ24,555人を数え、これは当時の大ブルガリア公国ではルセの26,156人に次ぐ2番目の規模であった。により、ヴァルナはブルガリアで3番目に大きな都市となった。このポジションは首位や4位の都市が入れ替わる中120年間維持されている。2006年12月以来、、国営新聞、調査会社、首長府、地元警察など様々な情報筋からヴァルナの人口は50万人を超え、現在ブルガリアでは2番目に大きな都市であると言われている。しかしながら、公式の統計である"GRAO"や "NSI"はこの宣言は裏付けていない。2008年に副市長ヴェネリン・ゼチェフ(Venelin Zhechev)は実際の人口は650,000人と推計している。2008年12月に市長のは実際の常住人口は970,000人であるとし、そのうちの60%は住民登録されていない人々である。2009年1月にフィナンシャル・タイムズは現在ヴァルナには毎年約3万人の新しい住民を引き寄せていると述べている。今日、ヴァルナ市の人口は334,870人でブルガリアでは3番目に大きな都市である。基礎自治体全体では343,704人、都市圏人口(ヴァルナ自治体、隣接するアクサコフォ、アヴレン、ベロスラフ、デヴニャ自治体。隣接するドブリチ州の部分は除く。)は公式の推計人口は475,000人 である。ここではヴァルナ=デヴニャ=プロヴァディヤアグロメーションはヴァルナ都市圏と同一とは見なされていない。ヴァルナはブルガリアでは数少ない人口の自然増を誇っており(2009年は出生数6,300に対して死亡数3,600)、新しい小児医療センターが開かれている。
出典:wikipedia
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