相生橋(あいおいばし)は、広島県広島市中心部を流れる本川(旧太田川)と元安川の分岐点に架かる、相生通りと広島電鉄が通る併用橋。全国的にも珍しいT字型の橋である。橋名の由来は、2つの橋が「相合う」ことから(詳細は下記歴史参照)。原爆ドームと広島平和記念公園を結ぶ橋の一つであり、その中で最も北に位置する。上流側に城南通り(広島市道中広宇品線)の空鞘橋、本川下流側に本川橋、元安川下流側に元安橋がある。東西方向(長手)に架かる橋は、国道183号・国道261号と広島電鉄本線が通る併用橋。南北方向(短手)に架かる橋は「連絡橋」と呼ばれ、長手の橋中央で二叉し橋脚ではなく長手の橋桁に直接掛かっている。現在の橋は1983年に架けなおされたもの。旧国道54号筋で国土交通省が管理していたが、現在は広島市に移管している。昭和初期から現在の形になり、広島名所として戦前の絵はがきで紹介されている。上空からも目立つため、広島市への原子爆弾投下の際には目標点とされた。被爆当日、この橋付近に居た人々がほぼ即死状態で大勢亡くなっており、元安川下流側で毎年8月6日夜に犠牲者を弔う灯篭流しが行われている。以下、東西(長手)方向を併用橋、南北(短手)方向を連絡橋と表記する。また旧河川名との混同を避けるため、現在の河川名である旧太田川を用いず通称の「本川」表記で統一する。次に被爆当時の橋の諸元を示す。この地は太田川下流域三角州地帯の中央を流れる本川と元安川の分流点にあたり、戦国時代以前には低地の砂地が広がる土地であった。安土桃山時代、毛利輝元により広島城が築城されると城下町として発展した。城の南に本通りが整備され、ここより南に元安橋と本川橋が架橋される。関ヶ原の戦いでの敗戦により、毛利氏は周防国・長門国(現山口県)に転封され代わって福島正則により同地は治められることになる。正則により城下町の更なる整備および城防衛のため補強が行われた。当時の主要交通ルートだった西国街道は北側の山沿いを通っていたが、正則により城下に、つまり本通りから元安橋と本川橋へ抜けるルートに変更された。また正則は、転封した毛利氏からの攻撃を想定し城の西側を補強し、本川を西側の外堀と位置づけて整備した。なお、福島氏は城改築の際に武家諸法度違反を咎められ転封され、代わって浅野長晟が入城し以降明治時代まで浅野氏により城下は治められることになる。以上の通り、有力外様大名である毛利氏に対する重要防衛拠点だった広島城において、この地は城の外郭南西端であることから防衛上の理由により、更に防犯上の理由により架橋規制が行われていたことから、江戸時代までここには橋はかけられなかった。こうした状況は明治時代に入ると、廃藩置県により藩政時代は終わりを告げ規制はなくなり、市内の架橋は自由に行われることになる。1878年(明治11年)7月、この付近の富豪により、猿楽町(現在の紙屋町)から中島町の北たもとの通称「慈仙寺鼻」(本川と元安川分岐の中洲頂点部)を経由し鍛冶屋町(現在の本川町)を結ぶ、"くの字型(V字型)"の木橋が架けられた。当時、2つの橋が相合う様から「相合橋」と名がついた。渡るときにその富豪が金銭を徴収したことから別名「銭取り橋」とも言われた。交通の要所として、西方向から広島鎮台(のちの第5師団 / 広島城内に位置していた)や西練兵場(右地図参照)を結ぶ重要な橋となった。市内に水道が普及していなかったこの当時、慈仙寺鼻には"川水会社"という河川水を組み上げてろ過し飲料水として供給していた団体が存在していた。1894年(明治27年)、民間から広島市へ移管され、以降無料開放される。この年の7月に日清戦争が始まり明治天皇が広島に行幸、臨時の大本営である広島大本営が広島城内に設置されている。この相合橋が現在の相生橋に改名した時期は不明。1899年(明治32年)広島県庁編『広島臨戦地日誌』では「相合橋」表記が用いられていること、1913年(大正2年)吉田直次郎編『広島案内記』では「相生橋」表記であることから、少なくとも1900年代初頭には現名に改名された可能性が高い。また、くの字型木橋時代の相生橋は歩行者専用橋であり、当時の絵葉書で人力車は通行可能であったと確認できる。また当時は「東相生橋」「西相生橋」と東西で別個表記されていた資料もある。1912年(大正元年)、広島城の外堀を埋め立てその上に相生通りが整備され、同年11月広島駅から紙屋町を経由し相生橋まで伸びる「広島電気軌道」が開通すると、くの字型の木橋のやや上流(現在の併用橋の位置)に木橋の電車軌道専用橋が併設された。1919年(大正8年)7月、大規模な洪水が市内全域を襲い、相生橋は上流側の電車橋とともに落橋してしまった。その後、くの字型の木橋の相生橋はかけ直された。1932年(昭和7年)、国道2号筋の橋として、鋼鈑桁の道路・軌道併用橋に架け直された。工事は広島県によるもので、工事費は当時のお金で27万円、うち6万円を広電が負担している。1934年(昭和9年)、併用橋から慈仙寺鼻に向かって鋼鈑桁の連絡橋が完成、従来の相生橋と合わせて"H字型"の橋となった。1938年(昭和13年)4月から木橋の撤去を開始、1940年(昭和15年)に完了し現在の"T字型"となった。竣工当時、親柱は石製だったが、欄干や橋上の街燈は鋼製であった。そのため、1941年(昭和16年)太平洋戦争に入ると金属類回収令によりすべて軍事供出され、欄干は石製か鉄筋コンクリート製のものに変えられた。南側に広がる中島本町は、幕末から明治・大正初期へかけて市内でも有数の繁華街であったが、大正中期に入ると繁華街の中心が市の東部へ移りはじめたので、往年の盛り場の雰囲気はなくなり、木造平屋の民家が広がる庶民的な街となった。このころ、橋の東詰には産業奨励館や広島護国神社、広島商工会議所・日本赤十字社広島支部や広電の櫓下変電所、西詰には本川国民学校(現在の広島市立本川小学校)が存在していた。東北方向には広島城を中心に中国軍管区司令部など陸軍施設が密集し「軍都広島」の中心地があった。二葉の里(右上の地図参照、広島駅北西約500mに位置した二葉山麓であり東練兵場の一角であり、相生橋から約2km強に位置した)には、日本軍の最重要拠点であった第二総軍総司令部が置かれ、軍都としての役割が強まっていった。相生橋のT字型という特徴は上空からも非常に目立つことに加え、上記のとおり主要軍事施設近くということから、原爆投下の際に目標点とされた。1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、この橋を目印として原子爆弾『リトルボーイ』が投下され、同16分に島病院上空を爆心地として炸裂した。相生橋はそこから約300mに位置した。同時刻にこの付近にいた人間は、高熱線を浴び衝撃波によって吹き飛ばされ、多数が即死した。橋の周辺は火と煙が充満し壊滅状態で凄惨を極め、後には火熱から逃れ川まで避難してきた被爆者が力尽きて息絶えた死体が累々と横たわった。橋の下では流されてきた死体によって水面も見えないほどであった。この際、相生橋は落橋から免れたうえに何とか通行出来る状況であったことに加え、下流側の本川橋が渡れない状況であった。爆心下の大手町や国泰寺町・中島町で奇跡的に生き残った被爆者は風向きの関係から多くが西や南へと逃げ、この橋を渡って西部あるいは北部へと避難路を求めた。中島町の燃料会館(爆心地から約170m、現在の広島市レストハウス)地下にいたため負傷を免れ、爆心地付近で生き残り、投下直後の爆心地の状況を知る『殆ど唯一の人物』として知られた野村英三(当時47歳)は、燃料会館から北進し連絡橋を渡り西へ逃げている。福屋百貨店(爆心地から約710m)付近で被爆したとされる第二総軍教育参謀中佐の李は、この橋付近で倒れていたところを発見された。その後彼は軍属により本川橋西詰近くの防空壕に一時的に運ばれ、陸軍船舶兵(暁部隊)に船艇で拾われ似島検疫所まで運ばれたが、翌7日午後4時過ぎに絶命した。中国軍管区司令部(爆心地から約1.0km、広島城内)や西練兵場(広島城南側)で被爆した兵士は、火熱を逃れこの橋上流側の本川の堤防までたどり着いたが、そのまま力尽きたり、あるいは北へ逃げていった。被爆翌日にこの橋付近にあったアメリカ人捕虜の死体は多数の日本人に目撃されている。その後米兵の死体は葬られ、原爆供養塔に遺骨が納められた。なお被爆時に橋上に電車は通行していなかった。当時市内電車の電源を操作していた東詰の櫓下変電所(爆心地から約280m、煉瓦造)は全壊、変電所で作業していた7人は即死している。同日夜から翌7日まで暁部隊が出動し、この橋付近の負傷者を臨時救護所となった本川国民学校や他の臨時救護所へ移送していった。この橋東詰は通行に困難な状況であったが被爆同日から瓦礫撤去作業が行われている。市内は大きな建物は壊滅していたため、約3km離れている皆実町からこの橋が間近で見ることが出来た。同月8日から15日にかけて周辺の河原で死体処理作業が行われた。被爆後に来広した政府の原爆調査団は、元安橋と相生橋の被害状況から爆心地の特定を行った。調査には、近代橋梁建築の第一人者であり土木学会会長でもあった田中豊東京帝国大学教授も加わっていた。その当時市内に架橋されていた主要49橋のうち41橋が残った。その中で唯一この橋だけ、欄干が破壊され川に落下すると同時に、鉄筋コンクリート床版が最大で1.5mほど浮き上がって破壊される現象が起きている。そこから今日では、被爆当時発生した衝撃波は橋を上から圧迫しただけでなく、本川の水面に反射し下からも圧迫したため、波打つ挙動となったと考えられている。主な破壊状況は以下のとおり。なお、映像は被爆から約8ヶ月後の1946年春に撮られたものであることに注意。併用橋の床版が車道部と歩道部でおのおの浮き上がったのは、この橋が爆心地から近距離だったことに加え当時の橋の構造に原因がある。軌道と車道および歩道の4つの境界部分で床版内の橋軸直角方向(主桁に対して直角方向)の鉄筋が当初から分断されていたため、衝撃波による外圧がかかった時に境界部分の床版は鉄筋で耐えることが出来ず破断し、別個に浮き上がったと考えられている。なお、相生橋床版の被害状況(上流側のほうが被害大)、下記表の橋梁被害状況、すぐ北側にあった広島護国神社の鳥居扁額の状況(相生通り側は吹き飛ばされず無傷)など、衝撃波による被害は真上から圧力がかかる爆心下より少し離れた位置のほうが大きくなっている。その他に熱線による被害として、路面に焼き付いた影の跡が残っていた。当時、爆心地近くには6つ(架橋中も含めると7つ)橋梁があった。これらは、同年8月原爆被災、同年9月大型の枕崎台風、同年10月小型ながら枕崎と同コースを通った阿久根台風と、立て続けに災害にあった。被災の概略は以下のとおり。爆心地に最も近い元安橋は真上から衝撃波がかかる位置であったため無事だったが、同じく爆心地近くの本川橋は衝撃波により橋全体が動き橋台から桁が外れ片方だけ落橋しそれが要因の一つとなり台風で流出した。もし相生橋も床版が破断せず橋全体が浮き上がり主桁まで動いていたら更に被害が拡大した可能性もある。この一連の台風災害により本川下流側の本川橋・新大橋・住吉橋がすべて落橋し、一時は本川最下流部の橋となってしまった。なお当時の市内主要橋梁のうち、8月の原爆で落橋したケースの殆どは熱線により発生した火災による木橋の消失であり、むしろ9月10月の台風に伴う水害により落橋したケースのほうが多かった。相生橋は原爆で甚大な被害を受けながら台風被害には耐えた稀有な橋でもある。この橋は市内有数の交通の要地であったことから早急に復旧を開始、同年9月7日には広電本線が八丁堀から己斐間まで再開したため、広電を通しながらの工事が行われた。施工手順は以下のとおり。「原爆と平和」を象徴する橋として市民から要望されたことに加え、「原爆記念保存物」として観光利用も期待されていたこともあり、欄干や親柱に原爆死没者慰霊碑にも用いられた庵治石が採用されるなど復旧費用がかさみ、事業費は跳ね上がった。工事は戦災都市復興事業として行われ、1949年(昭和24年)に全面復旧した。補修総事業費は当時で530万円。道路法施行に伴い、1953年(昭和28年)「二級国道182号広島松江線」に、1963年(昭和38年)「一級国道54号」に昇格、1965年(昭和40年)道路法改正に伴い「一般国道54号」の橋梁となった。1977年(昭和52年)から国の太田川高潮対策事業に伴い周辺の護岸整備が始まった。老朽化と交通量増大による広幅員化、高潮対策事業に伴う護岸整備に伴い、架け替えが決定した。1978年(昭和53年)起工した。この際、橋脚を全撤去し併用橋側は6基から4基に連絡橋側は橋脚なしとなり、併用橋は新しく鋼鈑桁橋で、連絡橋は支間長が長くなることから剛性を高めるため鋼箱桁橋に変更され、2橋共に幅員が拡幅された。また、広電の架線柱が景観を配慮しT字型のセンターポールに変更されている。1983年(昭和58年)10月竣工した。総事業費約48億円。2008年(平成20年)4月1日、道路管理者が国土交通省から市に移管され、国道54号から国道183号に変更された。親柱が3つとも現存している。原爆ドーム横の現親柱の下流側には「橋銘板碑」が置かれている。これは被爆後に補修された2代目の橋の橋名板を、現橋架け替えの際に再利用したものである。橋の歴史を刻んだ説明板も設置されている更にその南にはこの近所(旧・猿楽町、現在の紙屋町2丁目)で生まれた鈴木三重吉の「鈴木三重吉文学碑」が置かれている。下流側は赤い鳥の表紙を模し、上流側は三重吉直筆の詩が刻まれている。東詰に原爆ドーム・広島商工会議所・広島市中央公園・広島電鉄の原爆ドーム前停留場などがある。護岸整備されており、こちら側のみ橋の下をアンダーパスで歩いて通れる。上流側は市民球場跡地再開発に伴い、再整備が予定されている。道沿いにそのまま東へ進むと市内中心部である紙屋町交差点となる。西詰に広島市立本川小学校・広島電鉄の本川町停留場などがある。南詰は広島平和記念公園へと続く。元安川下流側に元安桟橋(河川遊覧船乗り場)があり、船でこの橋の下を通る遊覧コースがある。広島原爆関連作品に数多く登場する。特にこの橋をテーマとした作品を列挙する。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。