サクラチトセオーは、日本の元競走馬、種牡馬である。1995年のJRA賞最優秀5歳以上牡馬(部門名は当時)。半妹にサクラキャンドル(エリザベス女王杯優勝馬)がいる。主戦騎手は小島太。切れ味ある差し脚を武器に活躍し、1995年の天皇賞(秋)を制した。その他にも1994年中山記念、1995年アメリカジョッキークラブカップなど中央競馬の重賞を4勝した。特に1994年の京王杯オータムハンデキャップで勝利した時は当時の芝1600メートルの日本レコード(1分32秒1)を樹立した。※馬齢は旧表記に統一する。デビュー前から能力の高さを買われていたサクラチトセオーは3歳の10月、東京の新馬戦でデビューした。この新馬戦で快勝すると、続くひいらぎ賞(500万下)では1位入線馬の降着によって勝利し、クラシック候補に名を連ねた。ところが、4歳になるとサクラチトセオーは右腰の状態が悪くなり、なかなかレースを使えなくなった。それでも、ダービートライアルのNHK杯で3着に入り、何とか日本ダービーに出走することができた。しかし、ダービーでは先行したものの、キャリア4戦という経験の浅さを露呈したことと体調が今一つだったこともあり11着と大敗を喫した。ダービー後、サクラチトセオーは休養に入ったが、腰の状態が思わしくないこともあり、秋は1度も出走できなかった。年が明けて古馬になったサクラチトセオーは900万下の条件馬からスタートした。2戦目のテレビ埼玉杯で勝利すると、格上挑戦ながら中山記念に挑んだ。3番人気に推されたこのレースで優勝し、初重賞制覇を遂げた。遂に重賞ウイナーの仲間入りしたサクラチトセオーだったが、GIレースでは凡走が続いた。宝塚記念では後方待機から追い上げたものの6着、京王杯オータムハンデキャップでレコード勝ちして臨んだ天皇賞(秋)では直線で進路をカットされて6着、富士ステークス(当時オープン特別)1着後、打倒ナリタブライアンを掲げて挑んだ有馬記念では第4コーナーでそのナリタブライアンに並び掛けながら、直線で失速し6着に敗れた。この頃のサクラチトセオーは、GIレース前のステップレースは勝つものの、肝心のGIでは6着に敗れるという、1着と6着が交互に続いていたため、「競馬界のイチロー君」と揶揄されていた。6歳になったサクラチトセオーの春シーズンはナリタブライアン、ヒシアマゾンの不在もあってGI戦線の主軸を担った。アメリカジョッキークラブカップ1着、中山記念2着を経て臨んだ安田記念では1番人気に推された。しかし、レースでは最後方から追い込みながら、優勝したハートレイクにハナ差届かず2着に敗れ、初のGI制覇はならなかった。続く宝塚記念も1番人気に推されたが、超がつく高速馬場で先行馬が前残りになる展開となり、7着まで押し上げるのが精一杯だった。秋になり、サクラチトセオーは毎日王冠から復帰したが、重馬場に苦戦して4着と敗れた。だが、1度叩いたことでサクラチトセオーの調子が上昇、絶好調の状態で2度目の天皇賞(秋)を迎えることになった。天皇賞(秋)を前にして、サクラチトセオーの主戦を務めている小島太が調教師転向を表明し、翌年2月限りでの引退がほぼ濃厚となっていた。これで陣営としてもGI奪取へ向けて後がない状況となった。股関節の故障で戦線を離脱していたナリタブライアンがぶっつけでの挑戦を表明し、1番人気に支持されていた。そして、サクラチトセオーは2番人気に支持されていた(これは2番人気だったマイシンザンが出走を取消したため、3番人気からの繰り上がりだった)。一般的に東京芝2000mは外枠不利と言われているが、追い込み馬が最内枠に入るとこれまた不利であった。サクラチトセオーは1番枠に入っており、苦戦が予想されていた。しかし、レースでは道中16番手(後方から2番手)を追走し、小島自らも「スタンドに馬をぶつけに行くつもりで大外へ出した」と最後の直線だけで15頭をごぼう抜きし、先頭で懸命に粘っていたこの年の皐月賞馬ジェニュインをハナ差差し切って優勝した。先行馬優位な展開の中での大逆転劇、そして小島が引退表明直後だっただけにファンの歓声も大きかった。この天皇賞から2週間後にエリザベス女王杯を制した半妹サクラキャンドルとともに、小島の引退の花道を飾った名兄妹として記憶されている。天皇賞後、サクラチトセオーは有馬記念に出走。この有馬記念はサクラチトセオーにとっても、鞍上の小島太にとっても最後のGIレースだった。このレースでも先行馬優位の展開になったが、サクラチトセオーは直線で猛然と追い込み、3着と健闘した。この有馬記念を最後にサクラチトセオーは引退し、種牡馬生活に入った。サクラチトセオーは1996年から静内スタリオンステーションで種牡馬入りした。2005年に同場が閉鎖すると、レックススタッドへ移動して種牡馬生活を続けた。初年度産駒から中央競馬の重賞勝ち馬を出したが、2002年以降の産駒からは地方競馬の重賞勝ち馬すら送り出せないほど不振に陥り、次第に人気は下降。2010年には遂に種付け頭数がゼロとなったため、2011年1月に用途変更が行われて、種牡馬を引退した。引退後は新和牧場で功労馬として繋養されていた。2014年1月30日、老衰のため死亡した。中央競馬のサイアーランキングではほとんどの年で芝の順位がダートの順位を上回っており、ダートより芝を得意とする産駒傾向になっている。※タイム欄、赤字はレコードタイム
出典:wikipedia
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