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畑俊六

畑 俊六(はた しゅんろく、明治12年(1879年)7月26日 - 昭和37年(1962年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。兄・英太郎は陸軍省軍務局長や関東軍司令官を務めた陸軍大将、長男・俊八は陸軍技術大尉。父は旧会津藩士・畑能賢。6歳のとき四谷尋常小学校入学、のち12歳のときに父の転勤に従い函館へ。函館・弥生小学校高等科4年在学時の13歳のとき一等賞を授与される。父が46歳で死去したことに伴い上京。14歳のときに東京府尋常中学校(のちの東京府立第一中学校)入学。以後、陸軍中央幼年学校を経て、明治33年(1900年)に陸軍士官学校(12期次席)を卒業。中尉で日露戦争に従軍し負傷。明治43年(1910年)に陸軍大学校(22期首席)を卒業する。ドイツ大使館付武官補佐官・参謀本部作戦班長・参謀本部作戦課長兼軍令部参謀・航空本部長など作戦関係の要職を歴任し、参謀本部第四・第一部長、砲兵監、第十四師団長、昭和11年(1936年)に台湾軍司令官。翌・昭和12(1937年)に陸軍大将に昇任し、軍事参議官・陸軍教育総監を兼任する。同年には、林銑十郎らと共に首班指名候補に推される。南京事件に対して、松井石根大将らの交代を陸軍大臣に進言した。翌・昭和13年(1938年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮。昭和14年(1939年)に侍従武官長に就任時も昭和天皇の信任が厚く、「陸相は畑か梅津を選ぶべし」との言葉から侍従武官長をわずか3ヶ月で辞め、同年8月に成立した阿部内閣の陸軍大臣に就任した。天皇は温厚で誠実な俊六を陸相に据えることで、阿部との一中コンビで日独伊三国同盟や支那事変での陸軍の暴走に歯止めを掛けると期待されていたが、膠着状態を脱することはできなかった。なお、陸相在任中に戦陣訓も考案した。その次の米内内閣でも留任した。しかし、天皇から内閣への協力を厳命されていたにもかかわらず、日独伊三国同盟締結に絡んだ陸軍の命により単独辞職、後任陸相も出せず米内内閣瓦解の原因となった。このことを畑は生涯弁解せず、陸軍の横暴の片棒を担いだという汚名を引き受け続けた。また、後年の東京裁判においても、この米内内閣倒閣の件が、畑の罪状において最も重視されることとなる。昭和16年(1941年)に支那派遣軍総司令官となり、在職中の7月に、ドイツ軍の対ソ攻勢に呼応して関東軍特種演習が発動されて対ソ戦が企図されると、畑は野田謙吾総参謀副長及び松谷誠参謀を参謀本部に派遣し、「目下は鋭意支那事変解決に専念の要あり」と具申させ、対ソ戦発動中止の一因を作った。また、大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦に際しても、土橋勇逸総参謀副長と松谷参謀を再度参謀本部に派遣し、前回同様支那事変解決を優先すべきと意見具申したが、塚田攻参謀次長より「支那事変解決のためには米英の対蒋援助を遮断する必要がある」と反論され、具申は通らなかった。昭和19年(1944年)に元帥となる。昭和20年(1945年)4月、小磯内閣総辞職後の後継を決める重臣会議で東條英機から総理に推されたが、他の重臣達が鈴木貫太郎を推したため総理就任は実現しなかった。同月、本土決戦に備えて第2総軍(西日本防衛担当、司令部広島市)が設立されると、その司令官となる。同年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。終戦間際の昭和20年(1945年)8月14日10時、昭和天皇は御前会議の開催に先立って元帥会議を召集し、俊六(第二総軍司令官)、杉山元(第一総軍司令官)、永野修身(元軍令部総長)の3元帥より意見を聴取した際、。極東国際軍事裁判(東京裁判)では畑は米内内閣倒閣などの罪状を問われてA級戦犯として起訴された。占領軍の見解では、米内内閣は戦前で最後の親英米派内閣であり、前述のように、この米内内閣を倒閣したという理由で畑が起訴されたのである。米内は弁護側証人として東京裁判に出廷して証言すると、米内は畑のことを徹底的にかばった。新聞記事その他の証拠を提示する検察側の質問に対し「知りません」「わかりません」「思い出せません」「(証拠書類が)よく見えません」「そんなことはありませんでした」などとぼけた証言を繰り返し、ウェッブ裁判長から「こんな愚鈍な首相は私は見たことがない」と面前で侮辱されるほどだったが、米内本人は証言後友人に「裁判長に、大バカ提督と罵られちゃったよ」とニコニコしていたという。米内には、陸相単独辞任・内閣倒閣は畑本人の意思ではなく、陸軍という組織の歯車の一つとして動かざるを得なかったことがよくわかっていたのである。このおかげで畑は死刑を免れるも、終身禁固の判決を受けた。6年間の服役後、昭和29年(1954年)に仮釈放を受けて出所した。畑はのちに「当時、後難をおそれ、弁護側の証人に立つことを回避するのが一般の雰囲気であったのに、米内大将は敢然(かんぜん)として私の弁護のために法廷に立たれ、裁判長の追及と非難を物ともせず、徹頭徹尾(てっとうてつび)、私が米内内閣の倒閣の張本人でなかったことを弁護されたことは、私の感銘措く能わざるところであって、その高邁(こうまい)にして同僚を擁護する武将の襟度(きんど)は、真に軍人の鑑とすべくこの一時は米内大将の高潔な人格を表象して余りあると信じる」と語り、東京裁判でのこの米内の言動に終生深く感謝感動を忘れなかった。東京裁判で畑をかばった米内はまもなく死去したが、彼の死後12年を経た昭和35年(1960年)、米内の郷里盛岡の盛岡八幡宮境内に彼の銅像が立てられ、故人ゆかりの人々が集まって除幕式が行われた。その直前に、人目を避けるようにして黙々とあたりの草むしりをする畑が目撃されている。昭和37年(1962年)、福島県棚倉町にて戦没者慰霊碑除幕式出席中に倒れ、脳内出血のため没した。。棚倉城趾には「畑俊六終焉の地」の碑が立っている。

出典:wikipedia

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