民主党(みんしゅとう、)は、かつて存在した日本の政党。略称は民主、DPJ。2009年9月から2012年12月までは第1会派として政権を担当した。2016年3月に、維新の党が合流し民進党に改称。1998年4月、院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)に参加していた民主党・民政党・新党友愛・民主改革連合が合流して結成された。法規上は民主党以外が解党して合流したという形をとっているものの、民主の議員もいったん全員離党し再度入党、その他人事や要綱、ロゴなどを一新したこともあって、同じ政党名でありながら旧民主党とは区別して扱うことが慣例になっている。その後、2003年9月に自由党が合流(民由合併)。結党時には保守中道を掲げる旧民政党系と中道左派を掲げる旧民主党系が対立した結果、党の基本理念を「民主中道」とすることで落ち着いた。保守・中道右派を自認する自民党に対して、主に海外メディアからはリベラル・中道左派の政党と位置付けられる。しかし、結党の経緯により主に自民党の流れを汲む保守本流・保守左派の議員や旧民社党系の反共色の強い議員も一定多数存在しており、更に後の民由合併により保守派の議員を多く抱え込んだため、左派政党と位置付けられることに否定的な党員や支持者も存在する。なお、2001年に党内左派より「中道左派という概念から社会主義インターナショナルに加盟すべき」という提案がなされたこともあるが、当時の代表である鳩山由紀夫は「左派というのは民主党のコンセンサスではない」と反対し、頓挫した経緯がある。国際組織の民主主義者連盟に加盟している。自民党は1955年の結党以来、国政選挙の選挙区の公認候補の当選を47都道府県全てで経験しているが、民主党は1998年の結党から2016年の改名までの間に福井県・島根県・宮崎県の3県で国政候補の当選者が出なかった。2016年の維新の党との合流にあたり党名を民進党に改称。旧民主党から続いた党名は20年で消滅した。以下のキャッチコピーを使用していた。1980年代の後半からリクルート事件などを契機として政治とカネのあり方が問われ始めると、小沢一郎や後藤田正晴らを中心に自民党内の一部で小選挙区制と政党交付金の導入を主張する政治改革の機運が高まっていった。これには政権交代可能な二大政党制を実現させ、中選挙区制によって馴れ合いに陥っていた(小沢談)55年体制を打破するという目的があった。小選挙区制への移行は短期的には最大政党の自民党に有利なものであったため、野党は一斉にこれに反発した。一方で自民党内でも、将来的に政権から転落する可能性が高まることや特定団体からの組織支援効果が薄まることなどから反対論が相次ぎ、海部内閣では政治改革四法は廃案に追い込まれた。1993年、宮澤内閣でも法案が否決されるに至って党内の対立は決定的となり、小沢・羽田孜・岡田克也ら改革推進派は内閣不信任案に賛成票を投じて自民党を離党した。首相の宮澤喜一は衆議院を解散して第40回衆議院議員総選挙に踏み切るも、自民党は政権から転落。この選挙では枝野幸男・前原誠司・野田佳彦・小沢鋭仁ら、後に民主党の主要メンバーとなる議員が政治改革を訴えて日本新党から多数初当選した。この選挙の結果、小沢・羽田らは、8党派連立による非自民・非共産連立政権を樹立、政治改革四法を成立させた。しかしその後は政党間による対立が表面化し、約1年ほどでこの連立政権は崩壊した。また不信任案には反対した鳩山由紀夫らも新党さきがけを結成し、翌1994年には小沢、羽田、岡田らが新進党を結成。この二つの政党の一部に社民党右派議員を加えたものが、後の民主党のおおまかな源流となる。1996年9月、新党さきがけを離党した鳩山由紀夫、菅直人らと社民党右派議員、ほか鳩山邦夫らが集い、「官僚依存の利権政治との決別」「地域主権社会の実現」を標榜して旧民主党を結党。両院合わせて57名での船出であった。翌月に控えていた第41回衆議院議員総選挙を横ばいの議席で乗り切り、翌1997年には菅が党代表に、鳩山由紀夫が幹事長にそれぞれ就任して党の体制が整えられた。一方の新進党は同じ総選挙で政権獲得はおろか議席を減らすという敗北を喫していた。党の求心力は急激に衰え、1997年12月、党の再生が困難だと判断した小沢は新進党の解党を宣言。自民党に復党、合流する議員が更に多数出る中、小沢を中心とする自由党にも公明党にも与しない形で野党に留まる勢力があった。旧民主党はこれら民政党・新党友愛・民主改革連合と1998年1月に院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)を結成し、合流に向けた協議を進めた。旧民主党の枝野幸男、民政党の岡田克也、新党友愛の川端達夫らが基本理念をまとめる協議にあたり、合意に至った。同年4月27日、新たに「民主党」が誕生。手続上は他政党が解散し、民主党に合流した形となった。新民主党は、「行政改革」「地方分権」「政権交代」を掲げ、自民党に代わる政権政党となること、二大政党時代を作り上げることを目指すとした。「生活者」「納税者」「消費者」の代表という立ち位置、「市場万能主義」と「福祉至上主義」の対立概念の否定などを結党時の基本理念に掲げている。この年の第18回参議院議員通常選挙では、大型公共事業の抜本的見直しや地方分権の推進などを訴え、10議席増の27議席を獲得した。しかし、当時衆議院で単独過半数の回復に成功していた自民党と比して、この頃の民主党を二大政党の一角と見る動きはまだ少なく、あくまでも最大野党という位置付けが一般的であった。1999年9月、代表選挙で菅を破った鳩山由紀夫が代表に就任。2000年6月の第42回衆議院議員総選挙では、定数削減があったにも関わらず改選前の95議席を大きく上回る127議席を獲得、二大政党時代の到来を宣言した。とはいえ、自公保政権は引き続き安定多数を維持しており、与党を過半数割れに追い込むという狙いは達せられなかった。この選挙では、現行消費税の年金目的税化、扶養控除の廃止と児童手当の金額倍増などが公約に盛り込まれた。2001年4月、小泉政権が公共事業改革や分権改革を推し進める聖域なき構造改革を掲げて発足。これらの改革は民主党の政策と共通するものを含んでいたため、鳩山は小泉に対し「協力することもやぶさかではない」という姿勢も見せ始めるようになる。以後、小沢が代表に就任する2006年までは、改革の速度や手法を競う「対案路線」で与党と対峙することになる。同年7月の第19回参議院議員通常選挙では小泉旋風の前に伸び悩んだものの、4議席増の26議席獲得し、引き続き党勢を拡大させた。選挙公約には、道路特定財源の一般財源化、天下り禁止法の制定、全てのダム建設の一時凍結などが新たに盛り込まれた。2002年9月に鳩山は代表に再選されたが、これに関連して中野寛成を幹事長に起用する論功行賞人事が党内の求心力の低下を招き、自由党との統一会派構想の責任を取る形で12月には辞任に追い込まれた。同月、岡田克也を破った菅直人が代表に返り咲く。2003年9月、来る総選挙を前に執行部が自由党との合併に踏み切ることを正式に決断する。枝野幸男らをはじめ強硬に反対を唱える声もあったものの、役員、要綱、党名を据え置くという民主党による事実上の吸収合併という形で決着を見せた。この民由合併により民主党は両院合わせて204人(衆議院137、参議院67)を擁するまでに党勢を拡大させた。同年11月、日本初のマニフェスト選挙となった第43回衆議院議員総選挙では、明確に「政権交代」を打ち出し、改選前を40議席上回る177議席を獲得、大きく躍進する。比例区の得票数では自民党を上回った。高速道路の原則無料化、年金制度の一元化、衆議院の定数80削減などがこの選挙から新たに政権公約に加えられた。2004年、年金制度改革を巡るいわゆる「年金国会」において菅の納付記録に未納期間があることが判明し、代表辞任へと追い込まれた。(後にこれは社会保険庁職員の怠慢による手続きミスであったことが明らかとなり、厚生労働省が謝罪している。)菅の後継にいったんは小沢一郎が内定したが、小沢にも年金未納が発覚し、出馬辞退に追い込まれた。同年5月、新代表に若手の筆頭格であった岡田克也を無投票で選出。間を置かず7月の第20回参議院議員通常選挙を迎えた。発足間もない新体制に一部不安視する声もあったが、50議席を獲得し、国政選挙において初めて自民党(49議席)に勝利を収めた。この時期から政権選択選挙という言葉が急速に現実味を帯び始めるようになる。2005年8月、首相の小泉純一郎が郵政民営化の是非を問うとして衆議院を解散(郵政解散)。自民党は民営化に反対したいわゆる造反議員との分裂選挙に突入した。選挙戦の序盤は「漁夫の利」などとして民主党に楽観的な論評も飛び交い、政権交代を確実視して伝える一部海外メディアもあった。郵政民営化の是非を争点に選挙戦を展開した与党に対し、民主党は郵貯・簡保の徹底的な縮小と郵便事業への民間事業者参入促進など、2003年以来党が掲げてきた改革案で応えた。また、郵政問題よりも重要な争点として、利益誘導型政治・官僚支配からの脱却、公務員人件費の2割削減、18兆円に及ぶ税源の地方への委譲、大型公共事業の見直しなどを改めて提示し、「徹底した無駄削減」と「コンクリートからヒトへ」による大胆な社会構造の変革を訴えた。しかし、「造反議員」と「刺客候補」の対決構図が連日のように報道されていく中で政策論争は次第に世論の関心を失い、民主党は小泉劇場の前に埋没していく。結局、改選前を大きく下回る113議席という結果に終わった。岡田は即日代表辞任の意向を表明した。党代表後継には菅直人と前原誠司が名乗りを上げた。当初は菅有利と見られていたものの、最終演説で投票議員の心を掴んだ前原が僅か2票差で選出された。前原は、「脱労組」「世代交代」を打ち出し、党の再建に着手。当時43歳の前原は清新なイメージを与え、耐震偽装問題で馬淵澄夫による証人喚問が世論の喝采を浴びるなど、新生民主党は順調な出直しを図ったかに見えた。しかし、2006年2月に堀江メール問題が起きると、一転して民主党は激しい世論の批判を浴びることになる。情報の真偽を巡って執行部の対応が後手に回ったことも問題を長引かせる要因となり、翌3月にはついに前原が辞任に追い込まれた。これにより、民主党は解党の噂すら囁かれる、危機的な状況に陥った。2006年4月、小沢一郎が菅直人を破り、新代表に就任。小沢は菅を代表代行に指名し、幹事長を務める鳩山と共に「トロイカ体制」と言われる挙党一致体制を敷いた。小沢体制ではまず小泉構造改革を否定するという大きな政策的転換が図られた。それまで民主党の方針であった経済成長路線は影を潜め、子ども手当ての導入、農家への戸別所得補償といった多額の財政出動を伴う政策が打ち出された。更に2005年総選挙時に掲げていた年金目的消費税を凍結するなど、財源に関して甘い見通しが立てられたのもこの時期である。地方組織が磐石ではない民主党にあって、小沢は各議員・候補に徹底した地元活動を求めるなど、地盤の強化にも力を注いだ。2007年4月の統一地方選挙を勝利し、7月の第21回参議院議員通常選挙でも60議席獲得と大勝。ついに参議院で与野党を逆転させた。小沢は参議院での多数を武器に与党に激しく抵抗する「対立軸路線」を敷き、政権を追い込む戦術を選択した。一方で11月、小沢はねじれ国会の運営に行き詰った福田康夫に大連立構想を提案。しかし、予てから「健全な二大政党制」を望んでいた民主党役員会では小沢を除く全ての議員がこれに反対、世論も同様の反応を示した。その後、民主党は2008年のガソリン国会などで抵抗を続け、ねじれ国会の中で有利に戦いを進めた。この頃には首都圏の政党支持率では自民党を圧倒するようになった。ところが2009年3月、西松献金問題で小沢の公設第一秘書が逮捕・起訴されると、支持率は軒並み低下。迫る総選挙への影響を避けるためとして5月、小沢は代表を辞任した。次期総理候補を決める代表選挙として大きな注目を集める中、小沢に近い議員らが推す鳩山由紀夫と、世論の後押しを受けた岡田克也が争った。消費税率見直しは4年間議論もしないとした鳩山と、議論は行うべきだとした岡田であったが、参議院票の取り込みで優勢に立った鳩山が接戦を制した。初めて表面化した親小沢と非小沢との対立構図であったが、選挙後は岡田が幹事長職を引き受けるなど、このときはまだ選挙後の融和が図れる比較的穏やかなものであった。小沢の献金問題で一時的に落ち込んでいた政党支持率も持ち直した上、さらに上昇し、自民党に拮抗する調査も出始めるようになった。7月12日、総選挙の前哨戦とも位置付けられた東京都議会議員選挙で第1党に躍り出た。島部を除く全ての選挙区で民主系の候補者が1位当選を確保するなど、地滑り的大勝を飾った。翌13日、首相の麻生太郎が衆議院を解散する意向を表明。この月、NHKの全国世論調査で初めて民主党が政党支持率で自民党を逆転した。2009年7月21日、衆議院が解散され、事実上の任期満了選挙に突入する。鳩山由紀夫はこの総選挙を「政権交代選挙」と銘打ち、連立をみすえる社民党・国民新党と合わせて過半数の議席確保を目指した。マニフェストには、前回の参院選で訴えた内容とほぼ変わらぬ政策が盛り込まれた。各種世論調査では終始民主党の圧倒的優勢が伝えられた。結果、絶対安定多数を超える308議席を確保して、結党以来の悲願であった政権交代をついに実現する。308議席は一つの党が獲得した議席数としては戦後最多であった。また比例区の得票も2984万4799票を獲得し、日本の選挙史上で政党名の得票としては過去最高を記録した。第172回国会で鳩山由紀夫内閣が正式に発足し、社民党・国民新党との連立政権が誕生。党幹事長に小沢一郎、内閣官房長官には平野博文が起用された。鳩山内閣は当初、70%を超す高い支持率を得てスタートした。CO2削減目標の引き上げ、自衛隊インド洋派遣の撤退、公共事業の見直しなどの政策を推し進めるが、同時に幹事長の小沢と鳩山自身に政治資金収支報告書の虚偽記載問題が再燃する。「政治とカネ」を巡る不信に加え、鳩山よりも小沢に実質的な権力が集中する「二重権力構造」や、選挙支援と引き換えに予算配分を行う小沢の政治手法などが党内外で問題視されるようになると、内閣支持率は一転、下降の一途を辿ることとなる。そんな中、行政の無駄をあぶりだすことを目的に事業仕分けが行われ、これが世論から概ね好意的な評価を受ける。しかし子ども手当などの新たな歳出や、不況による税収落ち込みもあって平成22年度予算では過去最大となる44兆円の国債発行をするに至った。2010年1月、くすぶり続けていた政治資金収支報告書の虚偽記載問題で、衆議院議員の石川知裕を含む小沢の公設秘書と元秘書ら3人が逮捕される。3月には衆議院議員小林千代美の選対関係者2人も政治資金規正法違反で起訴され、民主党は厳しい批判を浴びることとなった。特に小沢に対しては幹事長、又は国会議員の辞職を求める声が世論の8割を超えるまでに高まった。また、鳩山自身の献金問題も、国会などで厳しい追求を受けた。ただ、これらの「政治とカネ」問題そのものは、政権を揺るがすまでには至らなかった。内閣にとって決定的な打撃となったのは、前年から徐々にクローズアップされてきたアメリカ軍の普天間基地移設問題であった。移設先を「最低でも県外が期待される」と総選挙時に明言していた鳩山は、沖縄及びアメリカが合意していた辺野古沿岸部へ移設する現行案を白紙に戻し、県外・国外移設の道を探っていた。しかし5月、移設先を見つけることができず、これを断念。失望した沖縄が現行案の辺野古沿岸部案をも受け入れ撤回する事態に発展し、移設問題は大きく後退してしまう(この際、あくまで県外移設を求める社民党が連立を離脱した)。このほか、野党時代の民主党の主張と、与党としての民主党の能力や政策との乖離が徐々に明らかになるにつれ、鳩山内閣への国民の不信はピークに達し、来る参議院選挙では20議席台に留まるという衝撃的な事前調査も明らかとなる。鳩山は事態打開のため、一連の問題の責任を取る形で首相を辞任した。後継の代表選挙は、まず小沢の影響力排除を目指す菅直人がいち早く出馬を決め、小沢と距離を置く議員から支持を受けた。これに対し党内最大勢力を誇る小沢グループは中立派として出馬した樽床伸二を支持した。6月4日に行われた両院議員総会では、小沢グループ以外の票を固めた菅が圧勝した。この代表選では小沢の処遇を巡って党を二分する激しい攻防が繰り広げられ、党内には深刻な対立が残ることとなった。菅内閣は発足にあたり、党幹事長に枝野幸男、内閣官房長官に仙谷由人など、主要ポストにいずれも非小沢の急先鋒を据えた。政策面では「強い経済、強い財政、強い社会保障」を一体的に実現させていく「第三の道」を打ち出し、財政再建と雇用創出を最大の国家的課題とする方針を表明。併せて消費税率見直し議論の提起、経済効果の薄い一部マニフェストの修正に着手するなど、鳩山内閣の政策方針からは大きな転換を図った。発足当初は、60%を超える高い内閣支持率を記録した。しかし、選挙戦での菅自身の消費税を巡る発言が二転三転したことで、2010年7月11日の第22回参議院議員通常選挙では現有の54議席に届かず44議席獲得に留まり、参議院で過半数を失うねじれ状態に陥った。小沢グループは参院選敗北の責任は選挙前に消費税議論を提起した菅にあるとし、総理退陣や枝野の幹事長更迭を迫った。しかし国民の7割超は菅の続投を支持し、これを背景に菅も応じる姿勢を見せなかった。こうした中で迎えた9月の代表選挙に小沢が出馬。小沢による事実上の倒閣宣言であった。財政再建とマニフェスト一部修正を目指す菅陣営には菅・前原・野田の各グループに加え岡田克也が、消費税議論封印とマニフェスト堅持を掲げる小沢陣営には小沢・鳩山・羽田・樽床の各グループが参集し、結党以来最も深刻な党内抗争が始まった。新聞主要四紙が揃って小沢と鳩山を批判し、世論調査でも菅支持が小沢支持の4倍超を記録するなど、戦いは次第に菅優勢へと傾いていく。9月14日、地方議員票と党員・サポーター票で大差を付けた菅が圧勝で再選された。幹事長には外務大臣から転じた岡田が再登板となり、閣僚からは小沢グループの議員は一掃された。この戦いにより党内の亀裂は更に深刻化することとなった。尖閣諸島中国漁船衝突事件の対応を巡り内閣官房長官の仙谷由人と国土交通大臣の馬淵澄夫に対する問責決議が参議院で可決されるなど政局は混乱。これを受けた内閣改造により、2011年1月14日に菅第2次改造内閣が成立。3月11日には東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、政権は震災復興と福島原発事故の対応に追われることになった。6月1日、「菅首相では災害復旧と復興、原発事故の処理に対応できない」との理由で自民党などが提出する内閣不信任決議案に対し、小沢に近い50人余りの議員が同調する意向を示したが、翌2日の採決前に開かれた党代議士会で菅が辞意とも取れる発言をしたことで小沢グループは自主投票となり、不信任案は否決された。菅はその後、福島第一原発事故の対応にメドがつくまで続投する意欲を示したが、仙谷由人官房副長官ら党執行部内からも菅への退陣要求が出始めた。8月26日に菅が退陣を正式に表明したため、民主党代表選が行われることとなり、野田佳彦・海江田万里・前原誠司・鹿野道彦、・馬淵澄夫の5人が出馬した。代表選では小沢と鳩山のグループから支援を受けた海江田が先行し、前原と野田が追う展開となった。第一回投票では海江田が最多の143票を得るが過半数には至らず、野田との決選投票では前原・鹿野陣営の支持を集めた野田が勝利し、第9代党代表に選出された。第9代党代表に選出された野田は、2011年8月30日の衆参両院本会議内閣総理大臣指名選挙において第95代内閣総理大臣に指名された。野田は代表選挙当時から消費税率を現行の5%から10%に引き上げる消費増税を掲げたが、歳出削減が進んでないうえ、景気にも悪影響だとして党内の小沢グループや連立を組む国民新党などから反対意見が噴出した。このため、野田は小沢とも良好な関係にある党参議院議員会長の輿石東を『党内融和』の象徴として幹事長として起用(党参議院議員会長も兼務)し、挙党体制の構築に努めた。しかし、閣内では経産相の鉢呂吉雄が福島第一原子力発電所事故に関する失言問題でわずか10日で辞任に追い込まれ、さらには小沢グループから起用された国家公安委員長山岡賢次のマルチ商法関与疑惑や、防衛相一川保夫の失言ならびにブータン国王来日歓迎の宮中晩餐会の私用欠席問題など、閣僚の資質が問われる問題が続出。12月9日には山岡と一川に対して参議院において問責決議が可決された。野田・輿石が提唱する『党内融和』『挙党一致』路線であったが、党が進める消費増税路線などの政策に反対の意を表し、離党(除籍)者が続出する事態となった。菅内閣の不信任案に賛成し除籍処分となり、首相指名選挙で海江田を支持した松木謙公は著書の中で2011年中の新党大地への入党を示唆していたが、12月28日に横峯良郎が一身上の都合により民主党から離党届を提出(認められず除籍処分)したことで、横峯や既に離党していた石川知裕とともに新党大地へ合流、新党大地・真民主を結党した。さらに同日、小沢に近い内山晃・渡辺浩一郎ら9人の衆議院議員が離党届を提出(認められず除籍処分)、新党きづなを結成。また、八ッ場ダム建設問題でも前原系の中島政希が離党した。このほか、党の増税方針に反発し党を離脱した佐藤夕子(減税日本へ入党)、菅内閣不信任案に賛成し除籍された横粂勝仁をあわせ、2011年の間だけでも民主党は14人の議員を失うことになった。2012年1月13日、野田は内閣改造を行った(野田内閣 (第1次改造))。今国会の最大の課題とする消費増税関連4法案を含む社会保障・税一体改革関連法案を国会で成立させるため、野党との協力関係構築と人心一新、体制強化を目的とした。しかし、改造後も閣内外で問題が頻出。防衛相の田中直紀は北朝鮮ミサイル問題に関する失言で、国交相の前田武志は公職選挙法に抵触する可能性がある問題で、閣僚としての資質が問われ、4月10日に参議院で問責決議案が可決された。また、社会保障・税一体改革関連法案が閣議決定されたことに抗議し総務副大臣の黄川田徹ら4名の副大臣・政務官、党内でも幹事長代理の鈴木克昌ら13人が辞表を提出した。さらには離党者も続き、連立を組む国民新党も社会保障・税一体改革関連法案が閣議決定された事で連立離脱派と維持派が対立、離脱派で代表の亀井静香、政調会長の亀井亜紀子が離党する(金融・郵政改革担当大臣の自見庄三郎が代表となり、連立維持)など党内外で混乱を露呈する事態となった。その後、5月には中国の一等書記官によるスパイ疑惑が農水相の鹿野道彦ら農林水産省を舞台に政治問題化したこともあり、野田は組閣からわずか5ヶ月余りで、内閣再改造(野田内閣 (第2次改造))を行う事態となった。社会保障・税一体改革関連法案の採決は6月26日に衆議院本会議で行われ、民主党・国民新党・自民党・公明党・たちあがれ日本などの賛成多数で可決された。消費増税法案の採決では反対の意を表明していた鳩山、小沢以下57名が反対票を投じ、元総務相の原口一博・元環境相の小沢鋭仁ら13名が棄権、2名が欠席(病欠した元首相の羽田孜を除く)するなど72名の造反者を党内から出した。野田は造反者に対して除籍も含めた厳しい処分方針を示唆した。一方で輿石は党内融和と分裂回避を重視する観点から小沢と数回に渡って会談を持つも、あくまで消費増税法案の撤回を求める小沢と分裂を避けたい輿石の議論は平行線をたどった。小沢が離党と並んで検討していた党籍を残したまま会派を離脱する案は野田が拒否。院内会派離脱願が受理される可能性がなくなったため、7月1日午後に小沢は記者に離党の意思を表明した。2日午前、小沢ら衆参合計52名(衆40・参12)の離党届を山岡賢次と広野允士が輿石の側近議員を通じて提出した。提出時点は52名であったが階猛と辻恵が撤回したため50名に修正された。3日、党執行部は反対票を投じた衆院議員57名のうち、同日離党届を撤回した水野智彦(10月に再度離党届を提出)を除く離党届を提出した小沢ら衆議院議員37名について除籍処分とする方針を決定。残りの衆院議員20名については鳩山は党員資格停止6か月、鳩山と平智之を除く18名は党員資格停止2か月の処分とする方針を決定した。参議院議員12名と採決前に離党届を提出していた平については処分を行わずに離党届を受理した。棄権、欠席した衆院議員15名についてはそれぞれ常任幹事会名の厳重注意、幹事長名での注意とした。4日、採決で反対票を投じていた加藤学が離党届を提出した。党倫理委員会での審査を経て、9日、党執行部は小沢ら衆議院議員37名の除籍を正式決定。党執行部が党員資格停止の処分とする方針としていた鳩山ら衆議院議員19名については鳩山の党員資格停止の期間を3か月に短縮し、鳩山と加藤を除く17名は党員資格停止2か月とすることを決定した。あわせて、6日に離党届を提出していた米長晴信参院議員の離党を承認した。17日、党執行部は加藤を除籍処分とした。さらに小沢グループの離脱後も分裂の流れは収まらず、17日には参議院議員の谷岡郁子・舟山康江・行田邦子の3名が、18日には衆議院議員の中津川博郷が離党届を提出。消費税増税関連法案の採決以後の離党者が55人となり、特に参議院では第2会派との差がわずか2人まで縮まることとなった。党執行部は24日、谷岡らの3名の離党を承認し、31日には中津川を除籍処分とした。8月に入ると、社会保障・税一体改革関連法案の参議院での採決が迫り、先に除籍された小沢らが結成した国民の生活が第一を含む、自民党・公明党を除く野党各会派が、消費増税法案採決を阻止すべく野田内閣に対する内閣不信任決議案を上程した。採決前日の8日、野田は、自民党総裁の谷垣禎一と公明党代表の山口那津男を交えた党首会談において、衆議院解散について「近いうちに国民に信を問う」こと、消費増税法案に賛成することで合意。一部を除く自民・公明の各衆議院議員が採決を欠席したため、内閣不信任案は反対多数により9日否決された。しかし、内閣不信任案では党内から小林興起・小泉俊明の両名が賛成票を投じ、10日に参議院で採決された消費増税法案でも有田芳生・水戸将史ら6名が反対票を投じ造反した。小林、小泉は採決前日に離党届を提出したが受理されず除籍処分となり、減税日本へ入党、先に離党した平智之とともに院内会派「減税日本・平安」を結成した。その一方で、29日に参議院で上程された野田首相に対する問責決議案では、一転して自民党が賛成に回り可決されるなど、野田の求心力の低下が顕著となった。9月に入り、大阪維新の会が、国政進出を目指して新党日本維新の会を結成。その動きに呼応し、党内から元内閣官房副長官の松野頼久、衆議院議員の石関貴史・今井雅人、参議院議員の水戸が離党届を提出し合流。執行部は各議員の離党届を受理せず除籍処分としたが、離党者の増加に歯止めがかからない状況となった。10日、党代表選挙が告示され、一時は再選を狙う野田に対し、総選挙での惨敗を危惧する勢力から環境相の細野豪志を候補に擁立する動きを見せたが断念、最終的に野田と元農水相の赤松広隆、元総務相の原口、前農水相の鹿野が立候補し、野田が1回目の投票で総投票数の過半数となる818ポイントを獲得し、再選された。24日、野田は党役員人事を行い、輿石幹事長の続投、政策調査会長に環境相の細野、幹事長代行に財務相の安住淳、国会対策委員長に国会対策副委員長の山井和則を充てた。党人事を受けて、10月1日には野田は内閣改造を実施した。閣僚待望組を多く登用した形だが、野田と代表選で戦った原口、赤松、鹿野の3グループから登用はなく、代表選で鹿野を支持した篠原孝は「口ではノーサイドと言いつつ、平然とこんな人事をするなんて度が過ぎている。横暴だ」と野田を批判。また、杉本和巳は今回の内閣改造・党人事を「メリーゴーラウンド人事をしていては組織が活性化するとは思えない」と野田政権を批判したうえで離党しみんなの党へ移籍、「離党予備軍」と目される反主流派議員の人心掌握に至っていないことが露呈した。また、さらなる党人事として、新たに国会対策委員長代行・代理、政策調査会長代行・代理のポストを新設。国対委員長代行には奥村展三、国対委員長代理に後藤斎と津島恭一、政調会長代行に細川律夫、政調会長代理に馬淵澄夫と高橋千秋を起用した。しかし、3度目となった内閣改造も、法相の田中慶秋が外国人からの献金や暴力団関係者との交際が発覚し早期の辞任(事実上の更迭)に追い込まれ、内閣改造で退任した前法相の滝実を起用する事態となった。また、野田が自民党前総裁の谷垣らと交わした「近いうちに解散する」という約束をめぐり、解散時期について自民・公明両党と対立。他の野党と共に前法相田中の任命責任を追及する構えを見せ、国会審議において重要法案の採決に際して野党より協力を得られない可能性が高まった。28日、野田政権下において初の国政選挙となる衆議院鹿児島3区補欠選挙では、党が推薦した国民新党公認の野間健が自民党公認候補の宮路和明に敗れ、与党側の議席を守ることが出来なかった。29日、臨時国会が召集されたが、冒頭で党所属の熊田篤嗣と7月に一度は離党届を出しながらも撤回した水野智彦が離党届を提出し減税日本への移籍を示す(後に除籍処分)など離党の動きを抑えることが出来ず、野田の求心力の低下がさらに露となった。報道各社による世論調査において内閣支持率が軒並み低迷し、求心力を失っていた野田は、日本維新の会などのいわゆる「第三極」の選挙準備が整う前に解散・総選挙を行うのが得策と判断。11月に入ると自民・公明両党の求めに応じる形で、年内に解散・総選挙を行う意向が明らかとなった。野田は、衆議院議員定数の削減や環太平洋戦略的経済連携協定 (TPP)交渉参加推進などを党公約として選挙戦に打って出る構えを見せたが、党内では今選挙を行えば惨敗必至との声が根強く、解散に反対する意見が続出。幹事長の輿石は「党内の総意」として早期解散に反対する意見を取りまとめた。しかし11月14日、国家基本政策委員会合同審査会における党首討論で自民党総裁の安倍と対峙した野田は、「(衆議院議員定数削減法案への賛同の)御決断をいただくならば、私は今週末の16日に解散をしてもいいと思っております」と発言。これを受けて自民・公明両党も野田の提案を受け入れ、事実上16日の衆議院解散が決定した。この電撃的な解散決定を受けて、早期解散に反対していた党内から離党届を提出する議員が続出した。閣僚経験者では、元環境相の小沢鋭仁が日本維新の会へ移籍を表明、元農水相の山田正彦はTPP交渉参加反対を強硬に主張して亀井静香とともに「反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党」の結成を表明。また政権交代の象徴的存在だった福田衣里子も山崎誠や初鹿明博とともに先に離党していた谷岡郁子らの「みどりの風」へ移籍することでこれを政党要件を満たす国政政党化した。さらには長尾敬のように自民党へ入党を希望する者もいた。結局この解散を前後しての離党者は11名、2009年9月の民主党政権誕生以後党を離党・除籍された衆参両議員はあわせて103名を数え、民主党は両院で少数与党に転落した。11月16日、衆議院は解散され、第46回衆議院議員総選挙は12月4日公示・16日投開票の日程で行われることが決定した。党執行部は解散前後に離党届を提出した前議員を除籍処分とし、また党公認に際しては党の定める方針に従う誓約書に署名させ、従えない立候補予定者には公認を与えないと決定した。そのような中、党創設者の一人で7月に消費増税法案に反対したことで去就が注目されていた元首相の鳩山は、消費増税やTPP交渉推進など野田が掲げる主要政策には従うことができず、公認をもらって戦うことはできないと判断、総選挙への不出馬と政界引退を表明した。第46回衆議院議員総選挙では、解散前の230議席を大きく下回る57議席と大きく後退した。特に、前回の勝因となった小選挙区で軒並み敗北し27議席しか獲得できず、比例も30議席にとどまる記録的な大敗となった。野田内閣の閣僚では官房長官の藤村修、財務相の城島光力、総務相の樽床伸二、文科相の田中眞紀子、厚労相の三井辨雄、国家公安委員長の小平忠正、金融相の中塚一宏と現憲法下で最多の7閣僚(国民新党で郵政改革相の下地幹郎も含めると8閣僚)、さらに3人の首相補佐官、23人の副大臣・政務官など政務三役が大量に落選した。閣僚経験者でも元官房長官の仙谷由人、元農水相の鹿野道彦、元文科相の川端達夫、元厚労相の小宮山洋子など多くの主要議員が落選した。前首相の菅、前衆議院議長の横路、元経産相の海江田、元総務相の原口、元農水相の赤松らは小選挙区では落選したが、比例重複により復活当選した。他の党公認候補も苦戦を強いられ、小選挙区では第3位以下の得票数となる候補が続出し、供託金没収となる候補まで出る結果となった。この結果、有力政党としては珍しい参議院議員が衆議院議員を上回る党内構成となった。野田は大敗を受けて開票センターとなっていた都内ホテルで会見し「たいへん厳しい結果となった。同志を失ったことは痛恨の極み」とし「全ての責任は私にある」と代表辞任を表明した。連合会長の古賀伸明は、「敗因は内部抗争」と発言した。野田の代表辞意表明を受けて、12月25日に代表選挙が党所属国会議員のみの投票で行われ、海江田万里が馬淵澄夫を破り、代表に選出された。12月26日午前、野田内閣は臨時閣議を開き、辞表が取りまとめられ総辞職した。民主党を中心とした連立政権(民社国連立政権→民国連立政権)は1198日で終焉した。同日午後、第182回国会の首班指名選挙にて自民党総裁の安倍晋三が第96代首相に指名され、大勝した前回衆院選から3年3カ月で再び野党に転落した。新たに代表に就任した海江田は執行部人事に着手、代表代行に元国交相の大畠章宏、幹事長に前政策調査会長の細野、政策調査会長に前厚生労働副大臣の桜井充、国会対策委員長に元文科相の髙木義明を宛てた。幹事長を退いた輿石は参議院議員会長のみの職となった。また、3年3か月にわたる政権運営を検証する「党再生本部」・「党綱領検討委員会」を設置、政策決定機関である「次の内閣」(ネクスト・キャビネット)を復活させ、「党再生内閣」と名付けた。党勢の立て直しが求められる中、次期参議院議員選挙で改選期を迎える参議院議員の川崎稔、植松恵美子が相次いで離党を表明、さらには党創設者でもあり、前年の総選挙に立候補せず議員を引退した元首相の鳩山も「4年間の総括を見る限り、これでは民主党の再生は難しい」と党を批判し、離党を表明した。また、2013年4月5日に日本維新の会やみんなの党など他の野党との選挙協力を断念したことを明らかにした。これに対して、前原誠司らからは「野党がバラバラに戦っていては自公が喜ぶだけだ」などと批判の声が上がった。さらに4月17日には、同じく改選期を迎える参議院議員の室井邦彦が離党を表明し、参院第2会派の自民党に1議席差と迫られることとなった。参議院選挙の前哨戦と目される東京都議会議員選挙では、民主党は1人区で全敗するなど改選前の43議席から15議席と大幅に後退。都議会第1党から、公明党はおろか共産党すら下回り第4党に転落した。第23回参議院議員通常選挙では1人区で候補が擁立できない「不戦敗」(富山・和歌山・山口)を含めて全敗し、複数区でも東京・埼玉・宮城・京都・大阪・兵庫で候補者が落選し、比例代表でも7人にとどまるなど改選前の44議席から17議席へと減らす大敗で、非改選と合わせた参議院の議席数は59議席となり第2党に転落した。また青森・秋田・群馬・富山・石川・福井・鳥取・島根・山口・徳島・宮崎・鹿児島・沖縄の13県では県連に所属する国会議員がいなくなった。ただし、引き続き参議院議員が衆議院議員を上回る党内構成は維持された。海江田体制発足後1年となる2013年12月までに「民主党に限界を感じた」「民主党は存在意義を失った」などの理由で当年の参院改選組および衆参落選組から離党者が続出。衆議院議員の山口壮は離党届を提出した上で自民党の二階派に入会し、除籍された。前原誠司は、「このままでは統一地方選は厳しい。しかるべきときには立ち上がる」と述べ、場合によっては執行部交代へ動く可能性も示唆した。同年12月の結いの党結党などに伴う野党再編の動きも相まって、「海江田おろし」が始まるという指摘も出ている。その後、民主党内部では岡田克也などから代表交代を求める声が出るなど、不穏な動きが続いている。また、他の野党との協力体制も、それぞれの党の思惑の違いなどでうまく構築できているとは言えず、現状では自民党による「一強多弱」体制を突き崩すことができていない。安倍首相は前回の第46回衆院選の争点となった消費税率引き上げを先送りすると表明し、この判断の是非を問うということで衆議院を解散した。民主党にとっては野党転落後初の総選挙である第47回衆議院議員総選挙が行われた。12月14日の投開票の結果、民主党は小選挙区と比例代表合わせて73議席を獲得し、改選前の63議席から10議席増やした。しかし、党の顔とも言える代表の海江田万里が東京都第1区で敗れ、重複立候補していた比例東京ブロックでも惜敗率の関係で復活当選できなかったため、議席を失った。党としては前回衆院選ほどの逆風はなかったにもかかわらず、小選挙区比例代表並立制導入後初の野党第1党首落選となった上、対する与党は3分の2以上を獲得し、「一強多弱」の情勢は崩しきれなかった。当初、海江田は代表の引責辞任を否定していたが、民主党は党規約第8条で役員を国会議員から選ぶと規定しているため、議席を失った海江田が代表を続けることはできない。そのため、海江田は12月15日に党代表の辞任(事実上は解任)を表明した。12月17日に両院議員総会が党本部で開催され、2015年1月からの常会までに新代表を選出するため、1月7日に告示、1月17日に郵便投票分予備開票、1月18日に臨時党大会を開き新代表を選出する、という日程を決定した。1月7日に告示された第18回民主党代表選挙には、長妻昭、岡田克也、細野豪志の3人が出馬した。1月18日に実施された臨時党大会で投開票が行われた。1度目の投票では3候補とも過半数を確保できず、2回目の投票では1度目でトップの細野と2位の岡田で国会議員らによる決選投票となり、長妻を支援した議員らが岡田に投票したことで細野を逆転し、岡田が第10代民主党代表に選出された。岡田は第44回衆院選敗北を受けての引責辞任以来、約10年ぶりの再登板となる。12月18日、民主党と維新の党は、衆議院事務局に統一会派「民主・維新・無所属クラブ」の結成を届け出た。会派には無所属の衆議院議員野間健も参加し、93名となった。会派代表には民主党の枝野幸男が就任した。2016年2月22日、岡田克也代表と維新の党の松野頼久代表が会談し、民主党が維新の党を吸収合併することで合意した。これに合わせて党名やロゴマーク、綱領を刷新する方向で検討しており、党名の候補には「立憲民主党」や「日本民主進歩党」、「民主党立憲同盟」、「国民党」、「憲政党」などが浮上している。維新の党前代表の江田憲司は、「『みんなの党』や『結いの党』のようなキラキラネームではなく、政治理念や政治信条を化体した本格的な名前にしていかなければならない」としている。また、無所属議員や日本を元気にする会・生活の党と山本太郎となかまたちなど他の党にも参加を呼び掛けている。そして4日後の2月26日、岡田・松野の代表会談が再び行われ、民主・維新の両党が3月中をめどに合流することで正式に合意。ただ、新党の党名で両党の間に隔たりがあり、3月3日に両党が記者会見で、合流に伴う新たな党名案を4日から6日にかけて、両党のホームページとファックスを使って、国民から一般募集すると発表した。世論調査の結果も反映して、3月10日には二つの新党名の案が決まった。民主党側は「立憲民主党」、維新側は「民進党」を提示した。3月14日、民主党と維新の党がそれぞれ実施した各サンプル数約2000の電話世論調査の結果、民主党の調査では「民進党」24.0%、「立憲民主党」18.7%、維新調査は「民進党」25.9%、「立憲民主党」20.9%といずれも「民進党」が「立憲民主党」を上回ったため、新しい党名を『民進党』とすることが決定した。維新の党の江田憲司は、党名には「国民と共に歩むという意味」があるとしている。民主と維新が合流に合意した同じ日、新党大地代表代理で、鈴木宗男代表の実娘の鈴木貴子衆院議員(比例北海道ブロック)が民主党からの離党を表明し、離党届を提出。後に、民主党から除籍・除名処分を受ける。なお、貴子は当面の間、無所属として活動するが、新党大地が今後選挙協力する自民党との統一会派結成を検討する方針。両党の内部では合併における党内手続きが進められ、3月25日、松野・岡田の代表会談が国会内で開かれ、合併協議書に調印した。これにより両党の合併手続きがすべて完了したこととなる。3月27日、民主党・維新の党、それに改革結集の会の一部などが合併された新党として『民進党』結党大会が開催され、これを以て民主党は結党以来18年の歴史に幕を下ろすことになり、「民主党」の党名は旧・民主党時代も含めて20年で消滅。1998年の第一回党大会で以下の「基本理念」と「基本政策」が決定された。結党以来長らく多党における「綱領」は存在せず、「基本理念」が綱領的文書ともされてきたが、2011年に「党の基本理念・基本政策に代わる「綱領」について検討する」として「綱領検討委員会」を設置。野党転落後の2013年2月14日の党大会において、綱領を採択。それまで綱領と扱われた「基本理念」は『1998年綱領』とされた。長らく綱領的文書とされてきた1998年の「基本理念」は以下の通り。綱領採択後は、「1998年綱領」と扱われている1998年の「基本政策」の主な内容は以下の通り。民主党の原子力発電に関する記述は以下のように推進から廃止へ変化している。1998年の「基本政策」では「原子力発電の安全性向上と国民的合意を形成する」とし、1999年8月の「政権政策委員会提言」では温室効果ガス削減の考慮、老朽化の廃炉、新規原子力発電所の建設検討、原子力安全委員会の独立性、原子力の安全確保、「原子力情報公開ガイドライン」などを列挙した。2003年マニフェストでは「安全を最優先し、原子力行政の監視を強めます」、2005年マニフェストでは「過渡的エネルギーとして慎重に推進」、2007年および2009年の政策集では「着実に取り組みます」とした。2009年の政権獲得後、鳩山由紀夫内閣がCOP15で温室効果ガス排出の1990年比25%減を掲げたが、原子力発電の増設を前提とした数値であった。2010年マニフェストでは「総理、閣僚のトップセールスによるインフラ輸出」に「原発」を含め、2010年10月にニントゥアン第二原子力発電所への原発輸出の技術協定を締結した。2011年3月の福島第一原子力発電所事故発生後は、菅直人が浜岡原子力発電所の停止要請を行い「脱原発」を主張したが、退陣条件の1つに再生可能エネルギー特別措置法を挙げ、成立後に退陣した。同年6月、海江田万里経済産業大臣(当時)は東京電力が求めていた福島第一原子力発電所事故の汚染水流出を防ぐ遮水壁設置の先送りについて、「中長期的課題」とすることを条件に認めた。2011年5月25日、菅直人総理大臣がフランス・パリで開かれた経済協力開発機構(OECD)設立50周年記念行事で講演し、日本国が太陽光や風力など自然エネルギーの総電力に占める割合を「大胆な技術革新」により2020年代の早期に20%へ拡大する方針を表明した。2011年9月に党代表となった野田佳彦は「脱原発依存」を掲げる一方、2012年7月に大飯発電所の再稼動を行った。2012年9月、民主党は「原発ゼロ社会を目指して」を了承し、2012年マニフェストで「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするよう、あらゆる政策資源を投入」と記載した。民主党の「政策集INDEX 2009」は、冒頭で「戦後諸課題への取り組み」を記載し、国立国会図書館に恒久平和調査局を設置するための国立国会図書館法改正や、従軍慰安婦とされた者に金銭の支給を行う戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案の成立を掲げている。2010年、難民の申請者に申請から六カ月が経過すれば無条件、一律に就労を許可した。しかし実際には難民に該当しないビザなしでの不法就労目的の「偽装難民申請」が相次いだ。そのため、自民党安倍政権時の2015年9月、この規定を見直しししっかりと審査し、該当しない場合には国外退去を求めるようになった。民主党には保守系から革新系まで政治的思想の異なる議員が集まっているため、全体の合意は存在しても、個別政策によってはしばしば対立が生じる。また民由合併から小沢の離党まで、小沢一郎を支持するグループと、小沢に批判的なグループとの対立が根強く存在した。党員・サポーター制度は2000年(平成12年)の党大会で導入されたもので、党ではFAQの中で「党員には規約・組織規則・倫理規則に基づく義務が発生するが、サポーターにはそれがない」と両者の決定的な違いを説明している。党員の資格は「民主党の基本理念と政策に賛同する18歳以上の日本国民」、サポーターの資格は「民主党を支援したい18歳以上の人間」となっている。2012年9月の規約改正以前は日本に帰化していない在日外国人でも党員になることができたが、改正後は日本国民に限定され、それまで党員だった外国人はサポーターへ切り替えさせられた。党費は年間6,000円で機関紙「プレス民主」が毎号自宅に郵送される。また党代表選挙に投票することが出来る。サポーターの会費は年間2,000円。党代表選挙の投票権を購入するだけと誤解されがちだが、実際はサポーターであっても党が主催する講演会や勉強会、イベント、選挙ボランティアなどに参加することができるとされている。2002年の代表選挙では1人1,000円を支払えば誰でも登録出来て投票することができたが、2004年からはその年の5月末時点の登録者が9月の代表選挙に郵便で投票できるようになった。また2012年の党規約改正により外国人サポーターは代表選挙に投票することができなくなった。一般党員の入党・サポーター入会は最寄りの総支部で、地方議員の入党は選挙区を管轄する都道府県総支部連合会がそれぞれ受け付ける。なお国会議員の入党は幹事長が受け付け、役員会と常任幹事会の承認を受けることが必要となっている。総支部は党費・サポーター会費を受け取った後、その中から一定額を「本部登録料」として都道府県総支部連合会経由で本部に送る。また自民党の党友組織ないしは政治資金団体である自由国民会議や国民政治協会と異なり、サポーターでも党本部が登録を受け付け管理する形式となっていて、党の政治資金団体『国民改革協議会』に個人献金をしただけではサポーターとみなされない。ちなみに党所属国会議員にはサポーターを集めるノルマが課せられており、達成できない者は幹事長厳重注意処分がなされる仕組みになっている。党員・サポーターの人数は合わせて、2004年度は約11万人、2005年度は約15万7000人、2006年度は約24万4000人、2007年度は約20万1000人、2008年度は約26万9000人、2009年度は約26万3700人、2010年度は34万2493人、2011年度は30万3219人、2012年度は32万6974人、2013年度は21万8508人という推移となっている。青年局学生部 (CDS) が存在する。衆議院の小選挙区、参議院の選挙区ごとに総支部(そうしぶ)、基礎自治体ごとに行政区支部(ぎょうせいくしぶ)を擁すると定められている。この他に、自民党の職域支部に相当する任意の組織を置くことができるとされており、都道府県ごとにこれら支部を束ねる連合会を設置している。この連合会のことを県連(けんれん)と略しており、正式には「民主党○○県総支部連合会」という。東京都、大阪府、京都府、北海道においてはそれぞれ都連(とれん)、府連(ふれん)、道連(どうれん)になる。県連代表は現職国会議員を就けるのが基本であるが、県内の衆議院小選挙区に議員がおらず(空白県)、衆議院比例代表にも地元出身者がいない場合は次の国政選挙の公認予定者を就かせることもできる。設立および代表の選任手続きは事前に党本部に通知して幹事長の許可を得た上で、役員会と常任幹事会の承認を得ることが必要となる。民主党の総支部は、自民党の選挙区支部に相当するものであり、現職国会議員及び次回国政選挙の公認予定者の活動を支える組織となる。参議院選挙区選挙の当選者と次回立候補予定者は、都道府県連の下に置かれる「参議院選挙区総支部」の支部長となる。衆議院比例代表単独で立候補し当選した議員、および参議院比例区選出議員、次回立候補予定者は出身都道府県ごとに置かれる衆参両院どちらかの「比例区総支部」に所属しその支部長となる。なお総支部長が国政選挙で落選、もしくは離党、除籍処分により党籍を失った場合は、県連代表または同県出身の他の現職国会議員を暫定総支部長とすることができる。その後、当該選挙区の次回立候補予定者が決まった場合は予定者が総支部長に就任する。行政区支部は自民党の地域支部に相当し、地元の選挙区選出の都道府県議会議員と、その地域の基礎自治体議会の議員が所属する。原則として1つの基礎自治体につき一つの支部(「地域型行政区支部」)とするが、複数設置することが党勢の拡大に寄与すると判断される場合は、都道府県・政令市議会議員の選挙区を単位とする行政区支部(「地方自治体議員型行政区支部」)を議員1人につき1つ設置することができる。地域型・自治体議員型のどちらの行政区支部も総支部の国会議員や公認予定者と緊密な連携を取る。自民党の職域支部に相当する組織として、都道府県総支部連合会または総支部の下に任意の組織を作ることができるとされている。2009年12月現在の民主党本部は、東京都千代田区永田町にある『三宅坂ビル』の一部を間借している。2009年の総選挙で政権与党の座に就いたことから来客が多くなり、党本部の手狭さが大きな悩みとなっているが、2012年に政権を手放し、2016年に民進党に改組した後も移転は実現できていない。民主党は2005年(平成17年)の第44回衆議院議員総選挙で惨敗したことを受け、衆議院小選挙区で「勝てる候補者」を育てることを狙って公認内定基準を定めてきた。全般的に自民党の公認内定基準よりも厳しく設定されているが、党本部による裁量の余地も残っている。2009年(平成21年)の第45回総選挙以降に初めて立候補する新人は、公認内定時に59歳以下でなければならず、なおかつ小選挙区で2回連続敗北した場合、その2回のうち1回比例復活当選していたとしても、以後民主党の公認を受けることができなくなる。第45回総選挙以前に当選経験のある者が第46回以降の総選挙で比例復活できずに落選して元職となった場合は、内定時に64歳以下であれば次回総選挙での公認を得られ、また小選挙区で3回連続までの敗北が許される。比例代表選挙の候補者は、比例単独か重複立候補かに関係なく公認内定時に69歳以下とする。同じく第45回総選挙以降、世襲政治家制限の一環として内規において選挙区の候補について配偶者および三親等内の親族が当該議員と同一選挙区から連続立候補をする場合は新規に国政参入する新人については公認候補としないことを決めた。なお、第45回総選挙で福島1区から当選した石原洋三郎は父が2003年まで福島1区選出の衆議院議員であった石原健太郎であるが、6年間の空白がありこの間に総選挙も1回行われている。この結果、元職者の一親等の親族が元職者と同一の選挙区に立候補するのであれば、最低6年の空白を設けることで認められるという慣習が確立した。国会議員の公設秘書に配偶者を新規採用することは2004年(平成16年)に法律で禁じられたが、民主党では透明性確保に向けた取り組みをアピールするため、「三親等以内の親族」を公設秘書に採用することを禁止した内規を設けた。ところが第45回総選挙で多くの新人議員が誕生したことで秘書に採用できる人材が不足したため、2009年9月15日の常任幹事会で「一親等以内の親族」に緩和することを決定、現在まで受け継がれている。(一部、山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)第21回参議院議員通常選挙までは、民主党の政党支持率は自民党と比べ上下変動が大きく、国政選挙の直前に急上昇する傾向が見られた。各種全国紙の世論調査では大体15%前後で推移していたが、朝日新聞の調査では第43回衆議院議員総選挙の前に20%台まで上昇している。また同調査で第20回参議院議員通常選挙および第21回参議院議員通常選挙の前には30%台まで急上昇し、このときは自民党の支持率を逆転するまでに至った。しかしその一方で、選挙後は選挙前の水準まで下がるのが一般的であった。また堀江メール問題など党内で不祥事などが起きると平時よりも政党支持率が一段と下落していた。年齢別に見ると、結党後しばらくは20〜40代の世代に強い支持を集めていたが、自由党と合併し小沢一郎の代表就任後は50〜60代の中高年層や保守層などにも支持を広げている。一方性別で見てみると、女性議員の数は自民党より多いにも関わらず、女性層の支持は男性層より少ない。第21回参議院議員通常選挙後は、これまでのような、選挙後に支持率が急降下するという現象が発生しておらず、各種世論調査で20%以上の支持率を維持している。このため、選挙後も
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