広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して世界で初めて核兵器を実戦使用した出来事である。これにより当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡したとされる。広島県、広島市などを指す「広島」が「ヒロシマ」と片仮名表記される場合は、広島市への原爆投下の関連での言及が多い。アメリカ軍が日本の広島市に対して投下した原子爆弾(以下『原爆』と記す)に関する記述を行う。(この節以下では英国・米国の行動に視点を置く)1938年12月31日〆のイギリス国王書簡局発行『年2回刊 陸軍将校リスト 1939年』に、昭和天皇の名がイギリス正規軍の陸軍元帥として掲載される。1939年8月2日付けで、アメリカに移住したドイツ人物理学者アインシュタインが、フランクリン・ルーズベルト大統領に手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)で、「大量のウランが核分裂連鎖反応を起こす現象は、新型爆弾の製造につながるかもしれない。飛行機で運ぶには重過ぎるので、船で運んで港湾ごと爆破することになる。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるのがいい」と進言。1939年9月1日、第二次世界大戦勃発。1939年10月11日、その手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)がフランクリン・ルーズベルト大統領に届けられる。1939年10月21日、アメリカはウラン諮問委員会を設置。1939年12月31日〆のイギリス国王書簡局発行『年2回刊 陸軍将校リスト 1940年』に、昭和天皇の名がイギリス正規軍の陸軍元帥として掲載される。1940年4月10日、イギリスがウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)を設置。1940年、理研の仁科芳雄がウラン爆弾計画を安田武雄陸軍航空技術研究所長に進言。1940年4月、安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じた。1940年6月、鈴木辰三郎は東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出。1940年7月6日、すでに理研の仁科芳雄等がイギリスの学術雑誌ネイチャーに投稿してあった『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によって生成された核分裂生成物)』と題する、2個の中性子が放出される(n. 2n)反応や、複数の対象核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果が、掲載された。1940年12月31日〆のイギリス国王書簡局発行『年2回刊 陸軍将校リスト 1941年』に、昭和天皇の名がイギリス正規軍の陸軍元帥として掲載される。1941年4月、大日本帝国陸軍が理研に原爆の開発を依頼。二号研究と名付けられた。1941年7月15日、イギリスのウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)は、ウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。1941年9月25日〆のイギリス国王書簡局発行『季刊 陸軍将校リスト 1941年10月号』に、昭和天皇の名がイギリス正規軍の陸軍元帥として掲載される。1941年10月3日、イギリスのウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)最終報告書が、公式にフランクリン・ルーズベルト大統領に届けられる。1941年12月8日、日本が第二次世界大戦に参戦し、太平洋戦争勃発。1942年9月26日、アメリカのが、マンハッタンプロジェクトを最高の戦時優先等級に位置づけた。1942年10月11日、アメリカはイギリスにマンハッタンプロジェクトへの参画を要請。1944年7月9日、朝日新聞に、『決勝の新兵器』と題して「ウラニウムに中性子を当てればよいわけだが、宇宙線には中性子が含まれているので、早期爆発の危険がある。そこで中性子を通さないカドミウムの箱に詰め、いざという時に覆をとり、連鎖反応を防ぐために別々に作ったウラニウムを一緒にして中性子を当てればよい。」という記事が掲載された。ウラン原爆の起爆操作と全く同じであった。1944年9月、ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相の間でハイドパーク覚書(ケベック協定)が交わされ、日本に対して原爆を使用することが決定された。1945年4月には第1回目標選定委員会が開催され、原爆投下目標の選定が始まった。1945年7月25日、トルーマン大統領が原爆投下の指令を承認し、ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令官(戦略航空隊総指揮官)に原爆投下が指令された。8月2日、グアム島の第20航空軍司令部からテニアン島の第509混成群団に、次のような野戦命令13号が発令された。8月4日、B-29エノラ・ゲイ号は最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島北飛行場に帰還した。翌8月5日21時20分、第509混成部隊の観測用B-29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告した。5日、第509混成群団司令部から作戦命令35号が発令された。ブリーフィングでポール・ティベッツ陸軍大佐(機長・操縦士)がエノラ・ゲイ(名前の由来になったのは彼の母親の名前)の搭乗員に出撃命令を伝えた。8月6日0時37分、まず気象観測機のB-29が3機離陸した。ストレートフラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フルハウス号は長崎である。0時51分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。続いて1時27分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイがタキシングを開始し、1時45分にA滑走路の端から離陸した。その離陸2分後の1時47分、原爆の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が、さらに2分後の1時49分には写真撮影機(#91 or ネセサリー・イーブル号)の各1機のB-29も飛び立った。即ちこの日、6機のB-29が原爆投下作戦に参加し、内4機が広島上空へ向かっていたことになる。テニアン島から広島市までは約7時間の飛行で到達できる。6時30分、兵器担当兼作戦指揮官海軍大佐、兵器担当補佐モリス・ジェプソン陸軍中尉、爆撃手トーマス・フィアビー陸軍少佐らが爆弾倉に入り、リトルボーイの起爆装置から緑色の安全プラグを抜き、赤色の点火プラグを装填した。作業を終えたパーソンズはティベッツ機長に「兵器のアクティブ化完了」と報告し、機長は「了解」と答えた。機長は機内放送で「諸君、我々の運んでいる兵器は世界最初の原子爆弾だ」と、積荷の正体を初めて搭乗員全員に明かした。この直後、エノラ・ゲイのレーダー迎撃士官ジェイコブ・ビーザー陸軍中尉がレーダースコープに正体不明の輝点(ブリップ)を発見した。通信士リチャード・ネルソン陸軍上等兵はこのブリップが敵味方識別装置に応答しないと報告した。エノラ・ゲイは回避行動をとり、高度2,000m前後の低空飛行から急上昇し、7時30分に8,700mまで高度を上げた。さらに四国上空を通過中に日本軍のレーダー照射を受け、単機の日本軍戦闘機が第一航過で射撃してきたが、被弾はなかった。この日本軍戦闘機(所属不明)はハーフターンして第二航過で射撃を試みたが、射撃位置の占有に失敗した。エノラ・ゲイ号は危機を回避し、目的地への飛行を再開した。7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号である。7時15分頃、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。「Y3、Q3、B2、C1」(低い雲は雲量4/10から7/10で小さい、中高度の雲は雲量4/10から7/10で薄い、高い雲は雲量1/10から3/10で薄い、助言:第1目標を爆撃せよ)。この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。ストレートフラッシュ号は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。8時過ぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった(当然、ラジオによる警報の放送もなかった)。8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600ft (9,632m)。投下に先立ち、原爆による風圧などの観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ降下させた。青空を背景にすると目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。この時の計測用ラジオゾンテを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、「原爆は落下傘に付けられて投下された」という流説があるが誤りである。一部のラジオゾンデは「不発の原子爆弾がある」という住民の通報により調査に向かった日本軍が鹵獲した。広島県安佐郡亀山村に落下したラジオゾンデは、原爆調査団の一員だった淵田美津雄海軍総隊航空参謀が回収している。また一部の市民は「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点 (IP) に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度などの入力をし、投下目標 (AP) を相生橋に合わせた。相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点に架けられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。8時15分17秒、原爆リトルボーイが自動投下された。副操縦士のロバート・ルイスが出撃前に描いたとされる「爆撃計画図」によると、投下は爆心地より2マイル(約3.2km)離れた地点の上空であると推察される。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の影響を避けるために進路を155度急旋回した。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を急降下させた。リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こした14時58分、エノラ・ゲイ号は快晴のテニアン島の北飛行場に帰還し、戦略空軍総司令官カール・スパーツ少将から、ティベッツ大佐には栄誉十字章が、他の12人には銀星章が与えられた。その日は夕方から、第509混成部隊の将兵や科学者らによって、深夜まで盛大な祝賀パーティが催された。原爆投下時、撮影機はカラーフィルムで撮影していたが、テニアン島に帰還後、現像に失敗したためにその記録は失われた。そのため、爆発から約3分後にグレート・アーティストに搭乗した科学調査リーダー、ハロルド・アグニューにより8mmカメラによって撮影されたキノコ雲の映像が、世界初の都市への原爆投下をとらえた唯一の映像となっている。(この節以下では被爆地の状況に視点を置く)広島市は戦国時代の大名毛利輝元により太田川河口三角州に城下町として開かれて以来、中国地方の中心であり続けた。江戸時代には浅野藩の城下町として栄え、明治維新後は広島県県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地として発展していた。さらに広島高等師範学校・広島女子高等師範学校・広島文理科大学・広島工業専門学校・広島高等学校を有する学都でもあった。広島には軍都としての側面もあった。日清戦争時には前線に近い広島に大本営(広島大本営)が置かれ、また臨時帝国議会(第7回帝国議会)も広島で開かれるなど、一時的に首都機能が広島に移転されている。これを契機として、陸軍の施設が広島に多く置かれるようになった。広島城内には陸軍第五師団司令部、広島駅西に第二総軍司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。すなわち当時、爆心地の北側はおよそ陸軍の施設で広く占められており、陸軍敷地南端より約200mに爆心地がある。また宇品港に置かれた陸軍船舶司令部は兵站上の重要な拠点であった。被爆当時の市中人口は約35万人と推定されている。内訳は、(1) 居住一般市民約29万人、(2) 軍関係約4万人、および (3) 市外から所用のため市内に入った者約2万人である。現在の広島の地図から名前が消えた中島地区(中島本町・材木町・天神町・元柳町・木挽町・中島新町)は、数千人の一般庶民が暮らす街であり、また広島の第一の歓楽街・繁華街であった。この地区は爆心地から500メートル以内にあり壊滅、唯一、RC建築の燃料会館(旧大正屋呉服店)だけが耐え残った。戦後、この地区は広島平和記念公園として整備され、燃料会館は全焼した内部を全面改築して公園のレストハウスとなり現在も残っている。8月6日は月曜。当時は週末の休みは無く、朝は8時が勤務開始であった。大半の労働者・徴用工・女子挺身隊、および勤労動員された中学上級生(1万数千人)たちは、三菱重工や東洋工業を始めとする数十の軍需工場での作業となった。また建物疎開には、中学下級生(数千人)および一般市民の勤労奉仕隊(母親たち)や病気などの理由により徴兵されなかった男子らが参加した。動員は市内の他、近隣の農村からも行われた。建物疎開とは、空襲による類焼を食い止めるために建物の間引きを行う作業である。建物の破壊は軍が行い、瓦礫の処理を奉仕隊が行った。当然、青空の下での作業である。彼らは原爆の熱線を直接、大量に浴びることになる(後述)。尋常小学校の上級生児童は昭和20年4月に行われた集団疎開で市を離れていた者が多かったが、下級生児童は市内に留まっていた。児童は各地区の寺子屋学校での修学となっていた。就学以前の幼児は自宅に留まっていた。8月3日、4日と雨が降ったが、5日以降は高気圧に覆われて天候は回復した。8月5日は深夜に2回空襲警報が発令され、その度に市民は防空壕に避難したため、寝不足の市民も多かった。この日、市街中心部では米の配給が行われ、市民は久しぶりの米飯の食卓を囲んだ。8月6日の朝の気温は26.7°C、湿度80%、気圧1,018hPaであった。北北東の風約1メートル/秒が吹き、雲量8 - 9であったが、薄雲であり視界は良好だった。7時9分の空襲警報で市民は一旦は防空壕に隠れたものの、7時31分には警報解除されたため、外へ出て一日の活動を開始していた。爆心地である広島市細工町29-2の島病院(現島外科内科)は、産業奨励館の東側にあり、病院南西側の上空約600メートルで炸裂した。爆心地500m圏内では閃光と衝撃波がほとんど同時に襲った。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊、木造建築は全数が全壊した。島病院の建物も完全に吹き飛ばされ、院内にいた約80名の職員と入院患者全員が即死した。鉄筋コンクリート建築である産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破したが完全な破壊は免れている。相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま遺骸を乗せて、慣性力で暫く走り続けた。吊革を手で持った形のままの人や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士もいた。そのなかで、爆心地から僅か700m付近で脱線し黒焦げ状態で発見された被爆電車(広島電鉄650形電車651号車)が、修理・改造され今も現役で、平和学習に用いられるなど残った物もある。爆心地近くの生存者で、広島県燃料配給統制組合に勤めていた野村英三(当時47歳)が手記を残している。野村は爆発の瞬間に燃料会館(会館は島病院や産業奨励館の直近170mに位置している)の地下室に書類を捜しに入っていて難を逃れた。野村の証言によるとこの燃料会館からの脱出に成功した者は8名いたが、その後の消息は分からなくなったとされる(大量被曝による急性放射線障害で間もなく全員死亡したのではと考えられている)。野村はその後猛烈な火と煙の中、中島町を北進し相生橋を経て西方面の己斐方面へ脱出、その後、高熱・下痢・歯茎からの出血などの放射線の急性症状で生死をさまようが一命を取り留め、爆心地の状況を知るほぼ唯一の生存者として、1982年6月に亡くなるまで貴重な証言を残している。爆心地1キロメートル地点から見た爆心点は上空31度、2km地点で17度の角度となる。したがって野外にあっても運良く塀や建物などの遮蔽物の陰にいた者は熱線の直撃は避けられたが、そうでない大多数の者は、熱線を受け重度の火傷を負った。野外で建物疎開作業中の勤労奉仕市民や中学生・女学生らは隠れる間もなく大量の熱線をまともに受けた。勤労奉仕に来ていた生徒が全員死亡した学校もあった。広島市の行政機関(市役所・県庁他)は爆心から1,500メートル以内であり、家屋は全壊全焼、職員も多くが死傷し、被災直後は組織的な能力を失った。また広島城周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も機能を喪失した。市内の爆心地から4キロメートルにあった宇品港の陸軍船舶司令部隊は被害が軽かったため、この部隊(通称「暁部隊」)が救護活動の中心となった。陸軍船舶練習部に収容され手当てを受けた被爆者は、初日だけで数千人に及んだ。また原爆の被災者は広島湾の似島に所在した似島検疫所に多く送られている。この船舶練習部以外にも市内各所に計11か所の救護所が開設された。船舶練習部は野戦病院と改称し、救護所は53か所まで増加した。爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが死亡していった。11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。1945年(昭和20年)の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されている。原爆が投下された際に広島市内には米軍捕虜十数名が収容されていたが全員が被爆死している。この米軍捕虜は7月28日に呉軍港空襲を行って戦艦「榛名」に撃墜された米軍爆撃機B-24(タロア号・ロンサムレディ号・その他)の乗組員である。彼らは憲兵隊司令部がある広島市に移送された直後の被爆であった(広島原爆で被爆したアメリカ人参照)。東京帝国大学が、広島と長崎の原爆による被爆者を使って、戦後2年以上に渡り日本国憲法施行後も、あらゆる人体実験が実施されたことを、NHKが2010年8月6日放送の『NHKスペシャル 封印された原爆報告書』にて調査報道した。その報道の内容は次の通り。(この節以下では被爆地の状況に視点を置く)8時過ぎ、エノラ・ゲイが広島市街を目視確認する直前、広島県警所轄の甲山監視哨・三次監視哨・松永監視哨等から呉海軍鎮守府に、敵大型機(あるいはB-29)3機が広島市方面に向かうとの電話連絡があり、8時10分頃に警戒警報が発令された。陸軍中国軍管区司令部にも同様の電話連絡があり、8時13分に広島・山口両地区に警戒警報が発令された。続いて海軍の中野探照燈台・板城探照燈台や陸軍の中国軍管区司令部から呉鎮守府に続報があり、呉地区に空襲警報が発令された。高射砲陣地が戦闘配置し、対空戦闘用意の態勢に移行して高度標定機による敵機観測と高射砲弾の信管調定を開始した。また呉鎮守府飛渡瀬砲台では155mm高角砲がエノラ・ゲイを有効射程内に捕捉し、射撃命令を待っていた。中国軍管区司令部の地下壕にある作戦室の指揮連絡室では、隣の作戦室からの伝票「八・一三、広島、山口、ケハ」を受け取り、学徒動員の恵美(旧姓・西田)敏枝が宇品高射砲大隊と吉島飛行場に、荒木(旧姓・板村)克子が四国軍管区司令部(善通寺)に、岡(旧姓・大倉)ヨシエが電話交換機を使って各地の陸軍司令部や報道機関に一斉に電話連絡しようとした瞬間、原爆が炸裂した(中国軍管区司令部からの警戒警報は各方面に伝達されることはなかった)。広島中央放送局の流川演奏所では、古田正信放送員が呉鎮守府が発令した警報のメモを持って第2演奏室(スタジオ)に入った。古田が原放送所(放送休止時間のため停波中)に警報発令の合図を送り、放送所の送信機が始動した直後に原爆が炸裂、演奏所と放送所を結ぶ中継線が断線したため警報は放送されなかった。広島放送局では約40名の職員が犠牲となった。広島城内にある中国軍管区司令部の地下壕は半地下式のコンクリート耐爆シェルターであったため、熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって多くの負傷者を出した。荒木と岡は一旦壕の外に脱出したが再び地下壕に戻り、荒木は四国軍管区司令部からの電話連絡を受け、岡は西部軍管区司令部(福岡)と歩兵第41連隊(福山連隊)司令部に、広島空襲の第一報を電話で伝えた。上記のごく一部を除いてあらゆる通信が途絶した広島は、被害状況報告や救援要請を行う手段を失った。しかし、広島市郊外にある広島中央放送局原放送所(現在のNHK祇園ラジオ放送所)の主要設備(放送鉄塔を含む)は無事であった。原放送所は同盟通信社広島支社の緊急避難先となっていたが、偶然郊外の同僚宅にいて無事だった同盟通信記者の中村敏が避難、11時30分頃(16時の説もある)、同盟通信社岡山支社に「6日午前8時16分頃、敵の大型機1機ないし2機、広島上空に飛来し、特殊爆弾を投下、広島市は全滅した。死者およそ17万人の損害を受けた」との第一報を送った。この第一報は同盟通信岡山支社経由で東京本社に届けられた。また第一報は、当日昼過ぎに大本営にも届けられた。なお広島中央放送局は翌7日朝より原送信所の予備演奏所を使い、生き残った職員によって単独放送を開始、ネット回線が復旧、全国放送まで完全にできるようになったのは8月29日夕方であった。8月15日の玉音放送は、臨時回線によって届けられ、雑音だらけでほとんど聞き取れない状態ではあったが、広島でも放送された。6日8時30分頃、呉鎮守府が大本営海軍部に広島が空襲を受けて壊滅した旨を報告した。続いて10時頃には第2総軍が船舶司令部を通じて大本営陸軍部に報告した。加えて、昼過ぎには同盟通信からも特殊爆弾により広島が全滅したとの報を受けた大本営は、政府首脳にも情報を伝え、午後早くには「広島に原子爆弾が投下された可能性がある」との結論が出された。夕刻には蓮沼蕃侍従武官長が昭和天皇に「広島市が全滅」と上奏した。大本営は翌7日15時30分に報道発表を出した。8月7日、防衛本部は、各警察署へ「八月六日午前八時二十分ごろ、特殊爆弾により広島市は殆んど全滅または全焼し、死傷者九万人に及ぶものと推定せられる」と通報した。またこの日、高野源進広島県知事は次のように告諭している。8月6日深夜(米東部標準時。日本時間7日未明)、アメリカ合衆国ワシントンD.C.のホワイトハウスにてハリー・S・トルーマン米大統領の名前で次のような内容の声明を発表した。呉鎮守府司令部、同盟通信川越分室(現・川越市立博物館)もこの声明を傍受した。8月6日、大阪中央放送局が日本時間21時からの報道の最初に、B29が広島市に侵入し、焼夷弾と爆弾によって攻撃、損害は目下調査中という内容を放送し、アメリカの連邦通信委員会 (FCC) 内の外国放送諜報局 (FBIS) ポートランド受信所で受信された。また、報道の後半のローカルニュースで、下り大阪からの列車は山陽線の三原で折り返し、三原から海田市までは呉経由などの情報が放送された。原爆が投下された8月6日には大本営発表がなされなかったため、新聞各紙の扱いは小さかった。しかし、同じ8月7日付朝日新聞であっても、大阪版は東京版よりも記事が詳細で、「きのふの来襲図」には原爆搭載機の飛行ルートが記されている。8月7日の大本営発表を受け、8月8日には各紙とも広島が「新型爆弾」で攻撃されたことを1面トップで報じた。また、8月9日から10日朝にかけて、原子爆弾投下に関するリーフレット (AB-11) が大阪、長崎、福岡、東京に投下された。さらに、ソ連参戦を記した新しい内容のリーフレット (AB-12) が10日に熊本、八幡、大牟田、横浜に投下された。火勢がやや収まってきた6日17時30分、呉鎮守府の呉工廠調査班が入市調査を開始し、翌7日までには熱線や爆風による被害および正確な爆心地を解析し、8日には大本営海軍部調査団と合同で「8月6日廣島空襲被害状況報告書」にて原爆の空中爆発による攻撃であると断定した。また同日、帝国陸軍参謀本部第二部長の有末精三中将を団長とした大本営調査団9名が、陸軍軍医学校の教官を中心とする陸軍省広島災害調査班と共に空路現地入りした。9日、陸軍省広島災害調査班が日本赤十字広島赤十字病院の地下室でレントゲンフィルムが全て感光していることを確認、直ちに陸軍軍医学校に放射線専門家の派遣を要請している。これを受けた陸軍軍医学校は、陸軍軍医学校レントゲン教官である御園生圭輔軍医および理化学研究所の研究者玉木英彦研究員・村地孝一研究員・木村一治研究員らを派遣して残留放射能測定や被爆者の血液検査などを行った。この結果、土壌中からストロンチウム92やセシウム137が大量に検出され、白血球の減少している被爆者が多いことが分かった。後に遺体病理解剖にて被爆者を蝕んだ放射線はα線、γ線、β線、中性子線であることが判明した。10日10時、広島陸軍補給廠にて第2総軍や陸軍船舶練習部および海軍呉鎮守府等の軍関係者や目撃者を交えた陸海軍合同検討会を開催した結果は、以上を直ちに政府に報告した。日本政府は8月10日、スイス政府を通じて下記のような抗議文を米国政府に提出した。広島や長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は、緘口令を諦めて報道統制を解除。11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。科学雑誌などで近未来の架空兵器と紹介されていた原爆が開発され、日本が戦略核攻撃を受けたことを国民はここに初めて知ったのである。この原爆報道により、新潟県は8月11日に新潟市民に対して「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出した。これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報が流れたからである。原爆疎開が行われた都市は新潟市のみであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、稲光を「原爆の閃光」と誤認する一幕もあった。この節では広島に落とされた原爆の破壊力に関する科学的な記述をする。広島原爆には約50キログラムのウラン235が使用されており、このうち核分裂を起こしたのは1キログラム程度と推定されている。広島原爆はウラニウム型原爆であり、計算上得られる一定量以上のウラン235を「寄せ集める」だけで臨界核爆発を起こす。従って分割したウラン235の塊を合わせるだけの簡単な構造のもので、爆発そのものはほぼ確実であることから、複雑な構造を持つ爆縮型の長崎原爆(プルトニウム型原爆)とは異なり、事前の核実験(爆発実験)による動作の検証はなされず、設計図通りに作られたものがそのまま広島に投下され、後に広島の被災実態から詳細な計算がなされた。1キログラムのウラン235の核分裂によって0.68グラムの質量欠損が生じ、アインシュタインの特殊相対性理論が示す「質量とエネルギーの等価性 E = mc 」によってエネルギーに変換される。爆発で放出されたエネルギーは約63兆ジュール(62.8 [TJ(テラジュール)]、6.28 × 10 [J])、TNT火薬換算で1万5千トン(15キロトン)相当に及んだ。エネルギーは爆風(衝撃波・爆音)・熱線・放射線となって放出され、それぞれの割合は50パーセント・35パーセント・15パーセントであった。爆発の瞬間における爆発点の気圧は数十万気圧に達し、これが爆風を発生させた。爆心地における爆風速は440m/s以上と推定されている。これは音速349m/sを超える爆風であり、前面に衝撃波を伴いながら爆心地の一般家屋のほとんどを破壊した。比較するとこの風速は、強い台風の中心風速の10倍である。そして、爆風のエネルギーは風速の3乗に比例する。すなわち、原爆の爆風はエネルギー比では台風の暴風エネルギーの1,000倍であった。また、爆心地における爆風圧は350万パスカルに達した(1平方メートルあたりの加重が35トンとなる)。半径1キロメートル圏でも100万パスカルである。丈夫な鉄筋コンクリート建築以外の建造物は、爆風圧に耐え切れずに全壊した。半径2キロメートル圏で30万パスカルとなり、この圏内の木造家屋は全壊した(漫画『はだしのゲン』のアニメ版ではその様子が描かれており、広島城の天守閣が衝撃波によって爆風の引き起こしたあまりの荷重に耐えられずに崩壊するほか、爆風でレンガ造りの建物の一部が吹き飛ぶなどの様子が映像化されている)。核分裂で出現した火球の表面温度は数万度に達した。火球から放出された熱線エネルギーは22兆ジュール(5.3兆カロリー)である。熱線は赤外線として、爆発後約3秒間に一挙に放出された。地表に作用した熱線のエネルギー量は距離の2乗に反比例する。地表で受けたエネルギーは、爆心地では平方センチあたり100カロリー、500メートル圏で56カロリー、1キロメートル圏で23カロリーであった。比較すると、爆心地の地表が受けた熱線は通常の太陽の照射エネルギーの数千倍に相当する。このような極めて大量の熱量が短期間に照射される特徴から、熱が拡散されず、照射を受けた表面は直ちに高温となった。爆心地付近の地表温度は3,000 - 6,000℃に達し、屋根瓦は表面が溶けて泡立ち、また表面が高温となった木造家屋は自然発火した。核分裂反応により大量のアルファ線・ベータ線・ガンマ線・中性子線が生成され、地表には透過力の強いガンマ線と中性子線が到達した。地表では中性子線により物質が放射化され、誘導放射能が生成された。爆心地の地表に到達した放射線は、1平方センチあたり高速中性子が1兆2千億個、熱中性子が9兆個と推定されている。原爆投下後、広島赤十字病院の地下に残っていた未使用のレントゲンフィルムが放射線によって全て感光していたため、広島へ落とされた新型の爆弾は原爆と決定付けるものとなった。原爆の炸裂の高熱により巨大なキノコ雲(原子雲)が生じた。これは爆発による高熱で発生した上昇気流によって巻き上げられた地上の粉塵が上空で拡散したため、特徴的なキノコ形になったものとされる。キノコ雲の到達高度は従来約8000メートルだとされてきたが、米軍機が撮影した写真を基に測定したところ、実に2倍の約16000メートルに達していたことが判明した。低高度爆発であったためにキノコ雲は地表に接し、爆心地に強烈な誘導放射能をもたらした。熱気は上空で冷やされ雨となった。この雨は大量の粉塵・煙を含んでおり、粘り気のある真っ黒な大粒の雨であった。この雨を黒い雨という。この雨は放射性降下物を含んでいたため、雨を浴びた者を被曝させ、土壌や建築物および河川などを放射能で汚染した。当日、広島市上空には南東の風が吹いていたため、キノコ雲は徐々に北北西へ移動しやがて崩壊、日本海方面へ流れていった。このため市北西部の南北19キロメートル×東西11キロメートルの楕円形の領域において黒い雨が1時間以上強く降り、この雨に直接当たる、あるいはこの雨に当たったものに触れた者は被曝した。戦後の調査研究で、黒い雨の他、広範囲に放射性の黒い灰状の粉塵が6日15時頃まで降り、郊外にまで広範に放射能汚染をもたらしていたことが判明している。なお、放射性核分裂生成物、核爆発時に生じた大量の中性子線による誘導放射能などにより被曝した者を「二次被爆者」という。上述、郊外の黒い雨による放射線被曝者も二次被爆者になる。原爆投下後、被爆者の救援活動などのため、広島市外より広島市に入市し、誘導放射能などにより被曝した者を「入市被ばく者」という。規定では、原爆投下後2週間以内に爆心より約2キロ以内の区域に立ち入った者が入市被ばく者とされている。原爆投下当日、爆心地へ入り数時間滞在した者は約0.2シーベルト、翌日に入った者は約0.1シーベルトの被曝をした。その他、被災地域より避難してきた被爆者の放射能汚染された衣類や頭髪に触れて被曝した者も多くいた。当時は放射能や放射線の性質、その危険性を知る者が、物理学者やごく一部の軍関係者、医療関係者程度であったことが影響した。(この節以下では広島に落とされた原爆の人的被害に関する科学的な記述をする)原爆の熱線には強烈な赤外線・紫外線・放射線が含まれており、約600メートル離れたところでも(瓦の表面が溶けて泡状になるという現象から)2,000度以上に達したと見られる。爆心地から1キロメートル以内では5度の重い熱傷を生じ表皮は炭化し、皮膚は剥がれて垂れ下がった(表皮の水分が気化・膨張したことによるもので、アメリカ側はこの現象を(フラッシュバーン、Flash burn)と名付けた)。熱線による被害は3.5キロメートルの距離にまで及んだ。また熱線にて発火した家屋の火災による第2次熱傷を受けた者もいた。爆心地から1キロメートル以内で屋外被爆した者は重い熱傷のため、7日間で90パーセント以上が死亡している。爆心から20キロメートル離れた呉の海軍基地や可部地区や大野地区では、戸外に出ていた人は熱傷を負わずとも、「熱い」と感じている。原爆の爆風により破壊された建物のガラスや建材などが散弾状となり全身に突き刺さって重傷を負う者が多数出た。戦後何十年も経過した後に体内からこのときのガラス片が見つかるといった例もあった。爆風により人間自体が吹き飛ばされて構造物などに叩きつけられ全身的な打撲傷を負ったり、体への強い衝撃により眼球や内臓が体外に飛び出すといった状態を呈した者もいた。このような全身的な被害を受けた者は大半が死亡した。爆心地における放射線量は、103シーベルト(ガンマ線)、141シーベルト(中性子線)、また爆心地500メートル地点では、28シーベルト(ガンマ線)、31.5シーベルト(中性子線)と推定されている。すなわち、この圏内の被爆者は致死量の放射線を浴びており、即死(即日死)ないしは1カ月以内に大半が死亡した。また爆心地5キロメートル以内で放射線を浴びた被爆者は急性放射線症を発症した。急性放射線症では、細胞分裂の周期が短い細胞よりなる造血組織・生殖組織・腸管組織が傷害を受けやすい。症状は、悪心・嘔吐・食思不振・下痢・発熱から始まる。さらに被爆から2週間後頃に放射能症に特徴的な脱毛が始まる。20日過ぎ頃より皮下出血斑(点状出血)、口腔喉頭病巣を生じる。大量の放射線により骨髄・リンパ腺が破壊され、白血球・血小板の減少など血液障害を起こす。6シーベルト以上の放射線を浴びた被爆者は、腸管障害(消化管組織の破壊により消化吸収不能となる)により、1カ月以内に大半が死亡した。爆心地から2キロメートル以内で被爆した者は高度から中度の熱傷が生じたが、2キロメートル以遠で被爆した者は軽度の熱傷にとどまり、治癒に要した期間も短かった。しかし、3 - 4カ月経過後、熱傷を受けて一旦平癒した部分に異変が生じ始めた。熱傷部の組織の自己修復が過剰に起こり、不規則に皮膚面が隆起しケロイドを生じた。大量の放射線を浴びた被爆者は、高確率で白血病を発症した。なお被爆者の発症のピークは1951年、1952年であり、その後は徐々に下がっている。広島の被爆者では慢性骨髄性白血病が多く、白血病発症率は被曝線量にほぼ比例している。また若年被爆者ほど発症時期が早かった。発症すると、白血球が異常に増加し、逆に赤血球などの他の血液細胞が減少して障害を招く。さらに白血球の機能も失っていく。1950年代、白血病は治療法のない代表的な不治の病の一つであり、発症者の多くが命を落とした。原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子は、12歳で白血病のために亡くなっている。以降は癌の発症が増加した。転移ではなく、繰り返して多臓器に癌を発症する例がしばしば見られる。これら被爆者の遺伝子には異常が見られることが多い。放射線などにより回復不能にまで損傷を受けたDNAは、翻訳を介し、癌の発病を招くこともあるため、これら被爆者が「原爆により癌を発症した」と主張することも理に適っている。原爆の手記を分析した結果によると、被爆者の3人に1人が罪の意識(自分だけが助かった、他者を助けられなかった、水を求めている人に応えて挙げられなかった、など)を持っていることが判明している(一橋大石田による調査)。(参照:サバイバーズ・ギルト、心的外傷後ストレス障害)精神的影響は、原爆によって直接もたらされた、サバイバーズ・ギルト、心的外傷後ストレス障害だけではない。戦後のGHQによる原爆報道統制が日本国民の間に「被爆者差別」を生み、被爆者はこれにも長く苦しむことになった。すなわち原爆、放射能、放射線に関する情報不足より、日本国民の間に「被爆者差別」が生まれた。戦後しばらくの間、新聞・雑誌などにおいても被爆者は「放射能をうつす存在」あるいは重い火傷の跡から「奇異の対象」などとして扱われることがあり、被爆者に対する偏見・差別は多くあった。これらは被爆者の生活に深刻な影響を与えた。昭和30年代、例えば他の都道府県で就職の際、「広島出身」と申告すると「ピカ(原爆)を受けたのか?」と聞かれるのは常であり、被爆の事実を申告したら、仕事に就けないことが多くあった。このため少なからず被爆者は自身が被爆した事実を隠して暮らさざるを得なくなり、精神的に永く苦しめられることになった。原爆のことを「ピカドン」とも言うが、転じて「ピカ」は被爆者を示す差別語ともなっていた。被爆者差別の存在やその実態については、従来、一部で問題とされていたのみで、広く公にされることはなかったが、ついに2010年、日本放送協会は、その原因を、戦後のGHQによる言論統制を受けた報道機関が、正しく原爆に関する報道を行わなかったため、当時、日本国民の間で放射能・放射線の知識が一般的でなかったことと相まり、国民の間に誤った認識が広く蔓延したためであると分析、過去に存在した被爆者差別とその実態について発表した。なおその1年前、中国放送の記者であった秋信利彦(秋信は1975年10月31日、昭和天皇に原爆について質問した記者である。)は、当時の被爆者差別や被爆者の報道機関に対する強い反感と反発の実態について証言している。多くの被爆者個人が公に自身の被爆体験を語り始めたのは、概ね、被爆者差別の消滅以降である。2008年〜2009年の広島市の大規模調査の結果、2008年現在でもなお、被爆者の1〜3%に被爆によるPTSDの症状があることが判明、部分的な症状があるケースも含めると、4〜8%にもなることがわかった。その主要因は、放射線による病気への不安と、差別・偏見体験である。母親の胎内で被爆することを胎内被爆という。胎内被爆により、小頭症を発症する者がいた。小頭症とは同年齢者の標準より頭囲が2倍以上小さい場合を言う。脳の発育遅延を伴う。諸説あるが、被爆時に胎齢3週 - 17週の胎内被爆者に多く発症した。脳のみならず、身体にも発育遅延が認められ、これらが致命的であるものは、成人前に死亡した。「公式見解」では被爆二世、被爆三世については、永年にわたり健康への影響、すなわち遺伝的影響はないとされてきた。放射線影響研究所は2007年に、被爆二世への遺伝的な影響は、死産や奇形、染色体異常の頻度、生活習慣病を含め認められないと発表した。一方で、日本国政府などの公式見解となる放射線影響研究所などの発表には以前より疑問の声が多くあり、各大学などでの調査・研究が続けられていた。2012年6月3日、長崎原爆資料館で開催された第53回原子爆弾後障害研究会、広島大学の鎌田七男名誉教授らによる「広島原爆被爆者の子どもにおける白血病発生について」の研究結果発表では、広島大学原爆放射線医科学研究所研究グループの長期調査結果報告において、被爆二世の白血病発症率が高く、特に両親共に被爆者の場合に白血病発症率が高いことが、50年に渡る緻密な臨床統計結果より示され、少なくとも被爆二世については遺伝的な影響を否定できないと結論付けた。鎌田は「これでようやく端緒についた。」と語っている。
出典:wikipedia
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