松平 信庸(まつだいら のぶつね)は、江戸時代中期の大名、老中。丹波篠山藩第4代藩主。丹波亀山藩形原松平家5代。第2代藩主・松平典信の三男として生まれる。兄で第3代藩主の信利が病弱で子がなく死去したため、兄の養嗣子となり、延宝5年(1677年)2月、12歳で家督を相続する。隠居中の祖父康信が後見役をつとめた。万尾時春(算術・経済学者)、松崎蘭谷(古義学・伊藤仁斎の高弟)を藩に招聘して藩学の基礎を確立する一方、儒者の奈良由繹、太田資置をして『篠山領地誌』を編纂した。藩財政は思わしくなく、元禄16年(1703年)に洪水、宝永6年(1709年)には干魃、正徳5年(1715年)には再び洪水と、災害が相次ぎ、百姓一揆も起こっている。幕府では奥詰(将軍の近習)を経て、京都所司代に抜擢され、在任中、京都の大火復興、中御門天皇践祚の儀になどに携わる。その後老中にのぼったが、1715年(正徳5年)ごろから病気がちとなり在任1年半で辞任する。酒井忠清の娘を正室としたため、綱吉政権時代には辛い立場だった。京都所司代時代の宝永2年(1705年)に、義兄で大留守居役の酒井忠挙が将軍名代として上洛し、信庸が領地からの収入では任務を果たすのが厳しいことを目の当たりにした。後に忠挙は吉宗の政治顧問的存在としてたびたび政策立案に関与したときに、信庸が少ない領地で大任を果たす苦労を提言した。吉宗は忠挙の提案を受け入れ、享保の改革では足高の制を施行した。
出典:wikipedia
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