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土屋義彦

土屋 義彦(つちや よしひこ、1926年(大正15年)5月31日 - 2008年(平成20年)10月5日)は、日本の政治家。参議院議員(5期)、参議院議長(第17・18代)、環境庁長官、埼玉県知事(第54・55・56代)、埼玉県議会議員(2期)、自由民主党参議院議員会長を歴任。次弟・昭二(現大正製薬会長)、三弟・祐三。土屋家は大工を営み、父澄男は家業から技術を習得し内務省技師となって潮来町に赴任していた。6歳のとき父が急性肺炎で死去。母初江は義彦らを残して家を去ったため、義彦と祐三は東京府北豊島郡高田町(現・東京都豊島区高田)で大工を自営していた父方の祖父母土屋仁作・たつも夫妻に引き取られた。昭二は澄男の妹・小枝とその夫上原正吉(当時大正製薬取締役)の養子となる。祖父の仁作は高田町会議員を務めた後、静岡県賀茂郡稲梓村(現・下田市)に移住したため、義彦も旧制中学(豆陽中学校)卒業まで同地で過ごす。仁作は静岡移住後酒屋を興し、稲梓村会議員も務めたが、義彦が中学在学中に死去。義彦は中学に通いながら祖母たつもとともに酒屋を切り盛りし、祐三を育てるという苦難の少年時代を送った。中学卒業後は大学進学を希望するも、既に祖父が他界していたこともあり叶わなかった。1945年召集。名古屋市の第6連隊に入隊。その後浜松市に派遣され、塹壕掘りを行う。終戦により除隊となり、叔父上原正吉・小枝夫妻を頼って帰京し、大学入学を果たした。上原家に下宿し、大学に通学しながら大正製薬で働く。1991年10月、土屋は参議院議長を辞し、翌年の埼玉県知事選挙への立候補を表明する。これに対し現職の畑和も同年12月の県議会定例会で6選出馬を明言。大物同士の一騎討ちの様相となったが、金丸信と田辺誠が双方に出馬を取りやめさせようと画策。この背景には歴代首相と懇意で経世会にも近かった佐久間実・自民党県議団長(元県議会議長・元自民党埼玉県連幹事長)が「ポスト畑」に意欲を示しており、既に自民党経世会と社会党との間では、畑を引退させ佐久間を後継者とすることで話がついていたという事情があったといわれる。既に政治家としては「あがりポスト」である参議院議長を務めた土屋の突然の立候補表明は永田町では予想外の出来事であった。土屋は出馬に際して「郷土愛」や「地元に恩返しがしたい」等とその意欲を強調したが、叔父同様参議院議員連続5回当選を果たし、閣僚・議長と国政の場においてまさに位人臣を極めた土屋が一都道府県の知事の職にこだわりを見せることに首をかしげる向きも多く、三権の長である参議院議長が任期途中で辞任して地方選挙に出馬するという行為は国会の権威上相応しくないという声も挙がった。こうした中、金丸らの意を受けた衆議院議員山口敏夫が両者の説得に当たるも不調に終わり(山口も知事の座を狙っていたといわれる)、金丸本人が双方に出馬を断念するよう申し入れた。年が改まった1992年、畑知事の実弟を含む建設業者による「埼玉土曜会」談合・献金事件が起き、疑惑が広がる中で畑は出馬を断念。政界引退を表明。一方山口・佐久間らはなお土屋の出馬取りやめを画策した。しかし土屋は清和会の支持や当時大正製薬名誉会長だった叔母上原小夜の後押しを受け、断固出馬の態度を崩さず、結局自民党推薦での立候補に至った。土屋の県知事就任後与党会派となった自民党内にも、土屋を支持する県議と佐久間を支持する県議が現れ、土屋と佐久間との対立は収まらなかった。佐久間は土屋の地元春日部市選出の県議であり、深刻な対立に発展する様相となった。ところが1993年5月、1989年と1992年の県議会議長選挙をめぐる汚職事件が発覚し、議長となった宇津木清蔵・玉田共瑞両県議(両者とも自民党)に現金を要求した佐久間が収賄容疑で、宇津木・玉田が贈賄容疑で逮捕されるという事態となった。佐久間は自民党県議団を離団し、自民党県議はすべて土屋支持に回った。失脚するかに見えた佐久間であったが、1995年4月の統一地方選挙埼玉県議会議員選挙に控訴中ながら立候補。一方土屋は元大正製薬販売部長で現職の春日部市議会議長だった清水寿郎(保守系無所属)を擁立し、佐久間を県議会から排除しようと図った。中傷や怪文書なども飛び交う激しい選挙戦の結果、両者とも当選した。1996年7月、佐久間の上告が棄却され、受託収賄罪で懲役1年2月・追徴金300万円の実刑が確定。佐久間は県議を辞職し、服役(自民党離党はせず党籍は維持)。県議会を舞台にした隠微な政争は終局に向かった。出所した佐久間は1999年4月の統一地方選挙埼玉県議会議員選挙に自民党員ながら非公認非推薦で再び出馬、僅差ながら当選した。一方の清水(自民党公認)は次点で落選。佐久間は議席を回復し復権を果たした。これを受け佐久間に近しい野本陽一元県議会議長(佐久間と同期当選)らが早速「自民党員が当選した以上自民党県議団に迎えるべき」と佐久間の党県議団復団を提案した。しかし土屋直系の清水が議席を守れず土屋が機嫌を悪くしており、また佐久間が知事与党会派である自民党県議団に復団すれば余計な火種となる恐れが大きかったことから党内でも「時期尚早」と反対する声が多く、この時は復団できなかった。以後佐久間は自民党員でありながら無所属で活動(自民党員であるため個々の議決は自民党県議団と行動を共にしており、事実上知事与党議員であった)し、党活動は制限されたものの、佐久間と親しい県議も党内外に複数おり、県議会では隠然たる影響力を有した。県議会で土屋と佐久間が表立って対立することはなくなったが、土屋辞任まで友好的な関係になることはなかった。2001年12月の春日部市長選挙では土屋義彦・品子親子が支持する現職に対し、対立候補を佐久間が支援。土屋対佐久間の代理戦争と評された。結果は土屋が支援した現職市長が6選を果たした。 2003年4月の統一地方選挙埼玉県議会議員選挙では佐久間(自民党籍・非公認非推薦)・清水(自民党公認)ともに当選。再び対立が表面化する様相となったが、同年7月、ダスキン不正支出事件をきっかけとなり、土屋の政治資金管理団体をめぐる問題で土屋の長女市川桃子が逮捕され、土屋が県知事を辞職し政界引退。県政における両者の政争は完全に終わったが、佐久間は自民党員でありながら自身が所属する支部の支部長である品子を支援しないなど、その後も対立が尾を引いた。土屋辞職後の知事選で佐久間は民主党出身ながら保守色の強い上田清司を支援し、その当選を歓迎。野党会派となった自民党県議団を上田知事に引き合わせ与党会派化するなど、再び影響力を増しているといわれた。2007年4月の統一地方選挙埼玉県議会議員選挙で9選を果たした佐久間は自民党県議団に復帰した。一方清水は落選したが、土屋の死の直後の2008年11月に行われた補欠選挙に立候補。品子らの支援を受け3選を果たした。しかしこの出馬の際清水は自民党を離党、自民党の推薦も受けず、政治団体「かすかべ元気塾」を届出。県議会では無所属で活動した。埼玉県春日部市に在住し、自由民主党最高顧問、社団法人日本・アルゼンチン協会会長、日本・ニカラグア友好協会名誉会長などを務めた。桃子逮捕の影響もあり、知事辞職直後は公職・名誉職を辞退。隠遁生活に近い状態であったが、2004年に出前芝居の劇団に入り、老人福祉施設などを慰問。ハーモニカ演奏などを披露していた。政治的影響力を失い脚光を浴びることも少なくなっていた中、童謡などを演奏しては聴衆から拍手喝采を浴び、満足げな様子であったという。政治活動は品子の選挙の後援のほかは控えていたが、2005年夏の第44回衆議院議員総選挙の頃から埼玉県内の自民党の集会に招待されるなど、「前知事」として政治の表舞台に再び登場した。2007年4月の統一地方選挙では埼玉県内を回り、現職中に自身を支持していた自民党県議や県内自治体首長などの集会にも参加し支援。5月に開かれた参議院選挙に向けての自民党の総決起集会には森喜朗元首相とともに来賓として招かれ、「トップ当選を」と鼓舞激励し、候補者古川俊治にはっぱをかけた。土屋の死去に際し、長年政敵として対立し春日部市の保守勢力を二分して争った自由民主党県議会議員佐久間実は「国が大変な時に国政とも太いパイプを持つ前知事が亡くなったのは残念」と語り、哀悼の意を表明した。2009年2月24日、「前埼玉県知事 故土屋義彦氏を偲ぶ会」が行われた。土屋が建設を推進したさいたまスーパーアリーナ(さいたま市中央区、さいたま新都心のメイン施設)が会場となり、県民や政財界関係者ら約4000人が参列した。参列者の中にはタイ、パラオなどの全権大使の姿もあった。後任の知事上田清司が「前埼玉県知事 故土屋義彦氏を偲ぶ会」実行委員長を務め、元内閣官房副長官石原信雄らが弔辞を述べた。

出典:wikipedia

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