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プロコル・ハルム

プロコル・ハルム(Procol Harum )は、1960年代から1970年代に活動した、イギリスのロックバンド。デビュー曲「青い影」(1967年)は世界的な大ヒットを記録し、バンドは一躍スターダムにのし上がった。クラシックやブルースの要素を色濃く取り入れた独特の作風で人気を博した。プロコル・ハルムの前身となったのは、英国エセックス州で1961年に結成されたR&Bバンド、パラマウンツであった。彼らは、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーから「最高のR&Bバンド」と称賛されたものの、ヒットを出すことはできず1966年に解散する。その頃、パラマウンツの中心メンバーであったゲイリー・ブルッカーは、プロデューサーのガイ・スティーヴンスの紹介でキース・リードという詩人と出会い、楽曲を共同制作するようになった。その後2人はオルガニストのマシュー・フィッシャーを仲間に迎え入れ、1967年にプロコル・ハルムが結成される。なお、バンド名はラテン語で「Beyond these things」という意味で、プロデューサーの飼い猫の名をもじったものと言われている。「青い影」で一躍有名になった彼らの初期のサウンドを特徴付けるのは、ゲイリーのピアノとマシューのオルガンからなるツイン・キーボードの編成である。このスタイルについては、ザ・バンドとの影響関係も指摘されている。また、R&B的要素とクラシック的要素を融合させた独特の音作りは、70年代のプログレッシブ・ロックの先駆をなしたとも評される。特に、5部構成のロック組曲「In Held Twas in I」が収録されたセカンド・アルバム『月の光』(1968年)と、ポップな作風を指向したサード・アルバム『ソルティ・ドッグ』(1969年)は初期の佳作とされている。その後、1969年にマシューがバンドを脱退すると、ジミ・ヘンドリックスに深く傾倒していたギタリストのロビン・トロワーの存在感が圧倒的となり、彼の奏でるギター・リフを前面に押し出したハードな楽曲が増加してくる。しかし、1971年にはロビンもまたバンドを脱退し、ゲイリーの志向するクラシカルな路線が復活することとなった。1972年にはカナダのエドモントン交響楽団との共演によるライヴ・アルバムを発表するが、これはディープ・パープルのロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとの共演盤などと共に、当時ロックとクラシックの融合が盛んに試みられた事を例証する作品と言えよう。翌1973年の7作目のアルバム『グランド・ホテル』は、今日では1970年代プログレ・シーンを代表する作品の一つに数えられており、彼らの後期の傑作とされる。ホテルを退廃的な物質文明(西欧文明)の象徴と見なすコンセプチュアルな歌詞と、重厚華麗な演奏が特徴である。その後、ロックンロール草創期の代表的なソングライターだったジェリー・リーバーとマイク・ストラーのコンビをプロデュースに迎え、時流に即してAOR的要素をとりいれた1975年の『プロコルズ・ナインス』である程度の商業的成功を収めるものの、「全てをやりつくした」というゲイリーの判断で1977年には解散を迎えている。バンド解散後、ゲイリーはソロ活動を展開していたが、1990年にドラマーのB.J.ウィルソンが肺炎で死去したことをきっかけに、哀悼の意味をこめて1991年にバンドを再結成した。現在でも北米や英国を中心に散発的にライヴを行っており、マシュー、ロビン、キースらも参加して再結成後2作のアルバムをリリースしている。彼らは、デビュー曲を別とすれば、総じて華やかなチャート・アクションとは縁の遠いバンドであった。しかし、プログレ的ではあるものの分類の難しい独特な作風はロック史上に一特色を呈するもので、結成から半世紀近くを経た21世紀になって、世界各国で再評価の機運が高まっていることを無視してはなるまい。なお、彼らは1972年にテン・イヤーズ・アフターとのジョイントコンサートで来日し、2003年には再来日して四人囃子との共演を実現させた。また2012年には松任谷由実とのジョイントライブを日本国内数箇所で行なう。デビュー・シングル「A Whiter Shade Of Pale / Lime Street Blues」録音。このメンバーで収録したのは、デビュー・シングルのA面・B面のみボビー・ハリソンはデビュー曲収録直後にレーベル側から解雇され、同時に脱退したレイ・ロイヤーとともにフリーダムというR&Bバンドを結成。『青い影』でドラムスを叩いているのはボビー・ハリソンではなく、ビル・エイデン (Bill Eyden) というジャズ系のドラマーである(ハリソンは『青い影』のB面「ライム・ストリート・ブルース」のみドラムスを担当)。ロックバンドの作詞を専門に担当した詩人として、古くはクリームのピーター・ブラウンが知られるが、作詞の専門家であるキース・リードを正式にバンド・メンバーとしてクレジットしたところにプロコル・ハルムの特色がある。このスタイルは、ピート・シンフィールドを擁したキング・クリムゾンにも受け継がれることになる。1st「Procol Harum」、2nd「Shine On Brightly」、3rd「A Salty Dog」録音。この時期がオリジナル・メンバーと言われることが多い。ゲイリー、マシュー、ロビンという各々作風の違う作曲者が3人在籍し、ラインナップとしては最も充実していた時期と言える。ドラマーのB.J.ウィルソンは、パラマウンツ時代からのゲイリーのバンド仲間であり、ゲイリー、キースと共に解散までバンドに在籍した。プロコル・ハルムに正式加入する以前はレッド・ツェッペリンから加入の誘いを受けていたこともあり、演奏技術はメンバー中でも出色のものを持っていた。4th「Home」、5th「Broken Barricades」録音。マシュー・フィッシャーらの脱退とクリス・コッピングの加入により、前身バンドパラマウンツ時代とほぼ同じラインナップに回帰した。6thライヴ「Procol Harum Live In Concert With Edmonton Symphony Orchestra」録音。彼らの最初の来日公演時のメンバーである。このメンバーで7th「Grand Hotel」の録音を開始。7th「Grand Hotel」、8th「Exotic Birds And Fruits」、9th「Procol's Ninth」録音。「Grand Hotel」は第4期メンバーで録音し終えていたが、ギターをミック・グラバムのものに差し替えた。10th「Something Magic」録音。11th「The Prodigal Stranger」録音。ライヴ「One More Time : Live At Utrecht, Netherlands, 13 February 1992」録音。12th「Wells On Fire」録音。

出典:wikipedia

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