LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

マルコポーロ事件

マルコポーロ事件(マルコポーロじけん)とは、1995年2月に日本の文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』が、内科医西岡昌紀が寄稿したホロコーストを否定する内容の記事を掲載したことに対して、アメリカのユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センターなどからの抗議を受けて同誌を自主廃刊したこと、及び当時の社長や編集長が辞任解任された事態を指す。この事件は、日本における「歴史修正主義」あるいは「ホロコースト否認論」を巡る状況のなかで、最も広範囲に話題となったもののひとつである。また、日本の出版界の商業主義、過度な広告依存、スポンサーへの過剰萎縮などの議論のきっかけとなった。発端は、文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』の1995年2月号に掲載された記事「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった。」であった。記事は国立病院に勤務する西岡昌紀が、アウシュヴィッツとマイダネクに観光に訪れた際に撮影などを行ったのち1989年頃から収集した英文図書に基づき執筆したもので、掲載にあたっての題名は『マルコポーロ』編集部が決めたものであった。この事件は公権力の強制力を伴う法規性や言論規制ではなく、言論による批判の結果として、あるいは広告収入に過度に依存し萎縮した結果として、言論機関が自主的に廃刊を決定したもので民事裁判にもなっていないため、憲法学上の概念としての「言論の自由」に対する弾圧事件ではなく、正確には「未係争の民事紛争事件」である。その内容は、ナチス党政権下のドイツがユダヤ人を差別、迫害したことは明白な史実としながらも、などというものであった。この記事を掲載した『マルコポーロ』1995年2月号が発売されたのは1995年1月17日で、阪神大震災が起きた日で震災報道に覆い隠されていた。また国内の多くの識者は、記事の内容そのものがニュルンベルク裁判におけるナチス戦犯と連合国による証拠と弁論に基づく判決と戦犯処刑によって決着した戦後処理事案の蒸し返しにすぎないと受け止め、話題性がないとして沈黙を守った。雑誌発売を受けて直ちに、アメリカ合衆国のユダヤ人団体とイスラエル大使館が、同誌を発行する文藝春秋社に抗議を開始した。特にサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)が内外の企業に対して、週刊文春をはじめとする文藝春秋社発行雑誌全体への広告出稿をボイコットするよう呼びかけた。ただしイスラエル大使館やSWCは終始一貫してマルコポーロの廃刊は求めていない。この事態により事件の話題性とニュースバリューは高まり、マスコミや識者から事件が注目され、言論界や国民各層から記事への批判や文芸春秋への抗議が寄せられるようになった。『マルコポーロ』編集部は、当初、抗議団体に反論のページを提供するなどして記事事実の撤回と謝罪を拒んでいたが、結局、文藝春秋社は『マルコポーロ』自体の自発廃刊と社長・『マルコポーロ』編集長ら雑誌編集・発行に対して責任のある人々の解任を決定した。執筆者の西岡や木村愛二などホロコースト見直し論者はこの決定に抗議を展開した。また、歴史認識と言論の責任をめぐって広範な議論が起こった(廃刊抗議者が論ずるようなナチ賛美はヨーロッパでは犯罪と定義されている)。また、この事件をきっかけとして、過度な広告収入への依存に対する反省や出版社のスポンサーからの自立についても議論が広がった。以下、要点。以上の理由をもって、西岡はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所内のガス室とユダヤ人虐殺の計画自体は存在しない、と主張した。冒頭で、著者はこう述べる。こうした主張の根拠として、著者は、例えば、こうした点を挙げる。このように、虐殺に関しての直接の証拠が存在しないと著者が主張する一方で、強制移住を示唆する文書が発見されていることから、ユダヤ人問題の「最終解決」とは虐殺ではなく「ユダヤ人の強制移住」を意味するものである、と西岡は主張する。また、「ホロコースト」の内容が、戦後二転三転していることも重大である、と著者はいう。例えば、ドイツ西部に在ったダッハウ収容所について、戦後しばらくはガス室による処刑が行なわれていたと言われていたが、ある時期からダッハウではガス室による処刑は行なわれていなかったという説明に変わっている、と著者は述べる。それでは、戦後しばらくの間語られていた「ダッハウのガス室」での処刑に関する生々しい「目撃証言」は、一体何だったのか?と著者は問いかける。そして、冒頭で言及しているように、こうした「ガス室」に関する目撃証言などを最初に疑った歴史家が、フランスの元レジスタンスであった左翼系歴史家ポール・ラッシニエであったことに触れて、こうした検証は「ネオナチ」のプロパガンダなどではない、と著者は述べる。こうしてナチス政権下のドイツは、確かにユダヤ人を差別・迫害した、と著者は結論づける。ドイツは、ユダヤ人を、戦後、ロシアに強制移住させる計画を立て、それを「ユダヤ人問題の最終的解決」と呼んでいた、と著者は述べる。そして、その準備施設として作られたのが、アウシュヴィッツをはじめとする収容所であったとする。ところが、東部戦線でドイツが敗退した結果、そうした戦後の強制移住計画は頓挫し、収容所の衛生状態が悪化する中で、発疹チフスの爆発的発発生が起きたのだ、と著者は述べる。そうした悲劇の中で病死したユダヤ人の死体を連合国は、ガス室などによる計画的な大量殺人の犠牲者であったかの様に発表、宣伝したのだ、と西岡は主張する。その傍証として、西岡は、当時のドイツが、「ユダヤ人絶滅」とは両立しない命令を出していた事に言及する。なお、こうした議論の中で西岡は、いわゆる「反ユダヤ主義」的な言葉は一言も書いておらず、イスラエルについても、全く言及していない。記事の末尾は以下の通りである。石田勇治は、西岡論文の論点をの三つに整理した上で詳細な反論を展開した。まず1.では、著者が問題とするホロコーストに関する「今日の定説」そのものに誤解・曲解があり、著者が批判する旧西ドイツの歴史家ブローシャトについても誤った記述をしていると批判した。2.ではジャン・クロード・プレサックの『アウシュヴィッツの焼却炉』に言及しつつ、アウシュヴィッツのガス室の構造を説明し、さらに毒ガスのツィクロンBは、著者の記述に反して、気化するために加熱を必要としないと論述している。さらに3.では、ヒトラー本人による虐殺命令文書が存在しないことは昔から自明の事柄であり、逆に著者が「証拠にならない」として退けた五つの史料(ニュルンベルク裁判でのラマース証言、ヒムラーの秘密演説、ヴァンゼー会議の議事録、ゲーリング書簡、親衛隊少尉ベッカーの報告)について、これらを否定しようとする著者の主張には根拠がないと言明した。こうした通説の立場からの反論に対して西岡は、廃刊事件直後からパソコン通信(PC-VAN)上で、さらに1997年に『アウシュウィッツ『ガス室』の真実:本当の悲劇は何だったのか?』(日新報道)を出版し、再反論している。西岡は『マルコポーロ』の記事に部分的には誤りが存在したことを認めたうえで、「ドイツがユダヤ人を絶滅しようとしたとする証拠はない」「ガス室でユダヤ人が殺された証拠はない」という主張を維持している。西岡による修正点は以下の通り。#サイクロンB(ツィクロンB)が青酸ガスを遊離し続ける時間が長時間である事と、サイクロンBの毒性の問題を混同し、サイクロンBの毒性が低いかの様な記述をしてしまった事#同じくサイクロンBの使用に際して、サイクロンBを加熱する事が必須の操作であるかの様な記述をした事。発売直後にロサンゼルスのユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)とイスラエル大使館は『マルコポーロ』編集部に抗議を開始。またSWCは『マルコポーロ』のこの号が発売された直後に駐米日本大使に記事を非難する書簡を送った。またSWCは文藝春秋に広告を出稿する企業に向け文藝春秋に一切の広告を提供しないよう求めた。ただし廃刊までは求めなかった。この広告ボイコットには欧米企業だけでなく日本企業も応じ広告ボイコット運動を是とした。欧米企業はもともと文藝春秋に広告を出稿している企業が少なかったため呼びかけに呼応する企業数は日本企業のそれよりも少なかった。呼応した企業のひとつであるマイクロソフト社は廃刊が発表された後にボイコットに応じている。『マルコポーロ』編集部はSWCに反論のページを10ページ提供すると提案。しかし、SWCは反論書に対する編集権が『マルコポーロ』編集部にあり反論を掲載すべきメディアとして不適当として無編集掲載を要求したが『マルコポーロ』編集部この要求を拒否した。その結果徹底的な広告ボイコット運動が続けられることになった。広告出稿企業はこうした運動を無視して広告を出稿をする自由があったが、多くの出稿企業はSWCに理(と利)有りとして『マルコポーロ』を含む『文藝春秋』各誌への出稿を自発的にとりやめた。こうして文藝春秋は企業存続の窮地に陥った。西岡が雑誌のインタビューなど述べたところによれば、『マルコポーロ』廃刊の決定がなされる直前、文春社内では「経験したことのない事態」であるとの発言があったほか、「早く何とかしないと『ニューヨーク・タイムズ』が動き出す」といった発言をした幹部がいたと言う事実を文春関係者から聴いたという。なお記事執筆者の西岡には雑誌編集権が無いため雑誌の編集をめぐる抗議や圧力は寄せられず、『マルコポーロ』廃刊が発表された後に記事の執筆者責任をめぐる批判が寄せられるようになった。発売から13日ほどが経った1月30日、文藝春秋は編集権は執筆者ではなく編集部であり発行責任は出版社自身にあるとして西岡には相談せず、出版社として「記事は誤り」と発表し公的な謝罪をすると共に、『マルコポーロ』の廃刊と花田紀凱編集長の解任、記事に関係する幹部構成員の更迭を行った。田中健五社長は廃刊を発表した1995年2月2日のホテル・ニューオータニでの記者会見で社長の職に留まると述べたが、後に社内外から批判を浴び、結局、2月中旬に田中健五は代表職を辞任した。廃刊により文芸春秋の社員有志がSWCでのセミナーやアウシュヴィッツ見学に参加した。『マルコポーロ』1995年2月号の回収は、実際には行われていない。廃刊が発表された1月30日、外務省の斎藤事務次官は記者会見を開き、外務省の見解として「廃刊措置は適切だった」と述べている。この廃刊の決定を、阪神大震災の被災地で取材中に聞いた江川紹子は、次の様に回想している。江川は、統一教会やオウムを巡る報道を通じて、文春と親しく、『マルコポーロ』編集部にも、花田紀凱を始めとする知人を持っていた。『マルコポーロ』が赤字であった事に加えて、事件の際、SWCとの交渉の窓口であったのが、塩谷北米総局長(当時)であったと言う指摘である。塩谷はまた、後述する2月2日にホテル・ニューオータニで文春とSWCが開いた共同記者会見において、田中健五の隣に席を取り、田中の発言を注視している。廃刊が発表された1月30日(月)、問題となった論考の執筆者である西岡は、朝日新聞夕刊紙上(社会面)で、文春の一方的な決定に対する強い怒りを表明した。この朝日新聞夕刊に掲載された西岡の主張は文春の謝罪と食い違っていたが、新聞で西岡が語ったとされる主張は西岡自身の主張である事実に違いはなかった。西岡は、廃刊発表の2日後の2月1日に総評会館で木村愛二企画による記者会見を開いた。一方、文春関係者の一人も廃刊が発表された1月30日の夜西岡に電話をかけ文春・SWCに対抗する記者会見を開く事をひそかに提案しており当時の文春社内での社員の不満が伺える、と西岡は述べた。が、それらを含めた会見発言や発言内容の動揺は執筆者の責任回避と受けとめられ、記者会見の西岡の主張が在京マスメディアで好意的に受け止められることは無かった。廃刊発表の翌日の1月31日、当時厚生省職員であった西岡の行動に対し、厚生省は国家公務員法が規定する職務専念義務を西岡に求めるため、勤務病院幹部を通じ事件について今後一切発言をせず職務に専念するよう指導した。。またその翌日に行われる事となった記者会見を中止するよう強い指導を実施した。厚生省直轄の勤務病院で「西岡はなかば軟禁状態に置かれた」と「西岡は」主張している。だが、警察への被害届は無く、後述するように実際には出入り自由であった。記者会見当日の2月1日、西岡は、執筆記事への批判から精神不安定状態になりこのままでは病院から出られないのではないかと思いこみ、記者会見に出席しないという嘘を関係者に流し「厚生省側を安心させた」と思い込んだ上で、病院の前に迎えに来た『サンデー毎日』の車で都内の記者会見会場に向かった。厚生省からの職務専念義務指導について西岡は記者会見冒頭で官庁名は出さないままに強く批判した。しかし、翌日の朝日・毎日・読売・日経は、西岡による記者会見自体は伝えながら、西岡が記者会見冒頭で抗議した厚生省による「介入」については、裏づけ取材によりその事実が無く単に職務専念義務指導にすぎなかったため報道をしなかったことが明らかになっている。(ただし反連合国史観の論壇誌『正論』は「官庁による圧力」という西岡の主張を「西岡の主張」として報じている)2月2日、文藝春秋社とSWCはホテル・ニューオータニで共同記者会見を開催した。廃刊の決定に不満を持つ元編集者は、取締役会の方針に反してホロコースト見直し論者であるフリージャーナリストの木村愛二を会場に乱入させ、木村は野次をとばすなどして会見を妨害した。また会場では『マルコポーロ』次号にルポルタージュ掲載予定だったフリー・ジャーナリストの江川紹子も現れ、マルコポーロの記事の内容は支持しないと表明したうえで、自分が取材した記事掲載がつぶれたことの不満をSWCの抗議方法に批判の矛先を向けることで表明した。江川は、SWCを強く批判したが、出稿企業がSWCの広告出稿中止要請を自由に拒否することができたという事実や「出稿企業側の判断の是非」や「ホロコースト犠牲者を冒涜する記事に広告を出し利益を得る企業の倫理欠如」といった問題については沈黙を守った。記者会見で江川紹子は次の様に述べた。。田中社長の記者会見について。SWC、クーパー師についての批判。『週刊SPA!』にコラムを連載していた宅八郎もこの記者会見に出席したが、繰り返し挙手をしたにもかかわらず、最後まで指名されなかった。宅八郎は、この日の記者会見場の空気をこう描写している。こうした騒動の中で、イスラエル大使館の行動は慎重で、SWCとは距離を置いていた。1995年2月8日産経新聞夕刊において、ガノール駐日イスラエル大使(当時)は「過剰に反応するのは日本とイスラエル双方にとって危険この上ない」と発言した。西岡はのちに「ガノール大使(当時)のこの発言はイスラエルが暗にSWCの過激な反応を批判した物ではなかったか?」と論じている。またイスラエル大使館は『週刊現代』の取材に対して、「これが原因で、強大なユダヤの力によって雑誌を廃刊させたなどといわれ、ユダヤに対する偏見を助長させないかと心配しています」と述べている。また、記事の中で西岡に「ガス室を捏造した」と名指しされたポーランド大使館は沈黙を守っている。新聞、テレビは、ポーランド大使館の沈黙に注目しなかったが、『噂の真相』は、ポーランド大使館に沈黙の理由を問い合せている。この『噂の真相』からの問い合わせに対し、ポーランド大使館は「既に抗議活動が起きていたので、それに加わる必要はないと考えた」という意味の回答を寄せている。木村愛二は、2月15日及び2月18日に総評会館で討論集会を開き、2回の公開討論は木村愛二が営業する木村書店から販売された。こうした木村による自称「討論集会」なる炎上商法のための席には、月刊『創』編集長の篠田博之が企業広告の萎縮を懸念する立場から司会者として加わった他、アメリカのユダヤ人で、左翼リベラルの立場からホロコーストの再検証を行っていたビデオ作家のデイヴィッド・コール(David Cole)や、科学史を専門とする常石敬一が参加した。2月18日の討論会の場で、常石敬一は、ナチスドイツは、アウシュヴィッツ等のガス室で、議論の多いツィクロンBを使ったのではなく、サリン等の神経ガスを使用したのではないか?と言う新説を述べた。又、同じ2月18日の討論会の場で朝日新聞記者が「ヒトラーが演説の中でユダヤ人絶滅を予言していたのでは?」と質問しコールが反論する場面などがあったが、議論は最後までかみ合わなかった。アジア記者クラブは、西岡と木村を招いて、会合で二人にマルコポーロ廃刊事件とホロコースト見直し論に関する講演を行わせた。西岡と木村が掲載メディアを失ったことに対して同情的なメディアもあったが、ホロコースト見直し論者である西岡と木村を招いて講演を行わせた事に歴史修正主義的な歴史認識に批判的な同記者クラブ関係者は反発し欠席するなど、同クラブの反応は分かれた。オウム真理教への強制捜査などの報道の中、世論の多数が廃刊やむなしで収束したことにより、この事件の報道は下火となっていったが、文藝春秋社で開かれたSWCによるセミナーのやりとりが密かに録音され、『噂の真相』で記事として暴露されただがこのような散発的に書かれるセンセーショナルな記事も、マルコポーロ編集部の編集責任の欠如を結果的に強調するものとなり、マルコポーロ廃刊やむなしとの世論を補完する方向に作用した。一方、同志社大学教授の渡辺武達は、雑誌『第三文明』1998年9月号にて、文藝春秋を次のように批判している。さらに、文藝春秋取締役であった岡崎満義が、1996年6月10日の情報化メディア懇談会での講演において、西岡記事は正しかったこと、ユダヤ人団体(SWC)は「テロ組織」と示唆したうえで、「『マルコポーロ』誌の廃刊の理由は記事内容が間違っていたとか、広告量が減ったことなどによるものではなく、ある筋からいまのままでは日本の海外駐在員がテロにあう危険性があるという情報が入ったためである」と発言している。この岡崎発言について渡辺は、「思わせぶりに語られる「ある筋」とはどこなのか。これは文藝春秋という出版社が外向き用と内向き用では正反対の「舌」を平気で使い、同時にたえず自己弁護をはかっている、げに恐ろしいところであることをよく表している」と文藝春秋を批判した。『マルコポーロ』編集長の職を解かれた花田は事件後、文藝春秋の閑職とされる戦後史企画室に異動となった。異動後は心機一転、新雑誌の企画を提案していたが上層部に相手にされないことが多かったことから、だんだんと出社しなくなり、事件の1年後に文藝春秋社を退社した。同時に『朝日新聞』が立ち上げた女性向け月刊誌『UNO!』編集長に就任し、マスコミを驚かせた。花田の朝日新聞移籍に際しては、朝日新聞の本田雅和が自社批判を展開している。なお、この『マルコポーロ』最終号の表紙を飾っていたのは、後にテレビドラマ『医龍』等で人気を集める女優稲森いずみであった。『マルコポーロ』の廃刊をめぐっては日本国内外で大きく報道がされた。日本国外では、ドイツ、オーストリアで、この事件が大きく報道されたほか、アメリカ合衆国の新聞各紙も、この廃刊事件を比較的大きく伝えている。当時の日本の新聞、雑誌報道の大部分は、記事の内容に関する議論を避けている。また『マルコポーロ』の廃刊が決定される直前、SWCが西岡がアウシュヴィッツを訪れていないとする事実に反するファックスをマスコミに送付したため、マスコミの関心は、西岡はアウシュヴィッツを訪れたのか、花田にはいつ会ったのかなど、末梢的な事柄ばかりに費やされた。その中で、記事の内容に比較的踏み込んだのは『朝日新聞』で、前述の本田雅和が社会面で「西岡論文とは何だったのか?」と題された大きな記事を執筆したが、他の新聞は総じてこうした記事の内容に関する検討を避けた。こうした事件後の報道がなされた当時、インターネットは、まだ普及していなかった。しかし、PC-VANでは、この問題を巡る討論がなされ、この討論には、西岡自身も参加している。このパソコン通信上の議論については、月刊「創」がこれを伝えた他、ホロコースト見直し論(否認論)を厳しく批判する歴史学者たちも関心を寄せ、自分たちの座談会を収録した単行本『ショアーの衝撃』において、簡単にではあるが、言及している。ジャーナリスト真山巴は1996年1月、『噂の真相』において、公開情報の分析から事件の背景には当時進行しつつあったオスロ協定に基づく中東和平進展があり、また事件当時多くの日本企業がイスラエルとのビジネスに関わりを深めていたとを指摘し、財界が『マルコポーロ』の記事がそうした中東ビジネスに影を落とすことを恐れた結果、それを受けた日本政府が文春に『マルコポーロ』を廃刊するよう行政指導を加えたのではないか、と言う分析を述べている。なお、2月2日の記者会見とその前後のマスコミの状況について、木村愛二は自著の中でこう描写している。事件を巡る批評については、『週刊SPA!』では小林よしのりが、「ゴーマニズム宣言」で数度に渡って西岡を攻撃したが、その一方で宅八郎が西岡にインタビューを行い、そのインタビューを掲載した。小林よしのりは宅八郎のこのインタビュー記事掲載に強く反発し、後に小林よしのりがSPA!での「ゴーマニズム宣言」を中止し『サピオ』に移動する一因となった。西岡は事実と違うことが書かれたとして小林に抗議している。図書館関係者の雑誌『ず・ぼん』は西岡と社会学者の橋爪大三郎の対談「『ナチ・ガス室』はなかったの論理を検証する」を掲載し、同時に、リベラル系のジャーナリスト長岡義幸の記事を掲載させたが、長岡はこの記事の中で事件を巡るマスコミの報道姿勢を強く批判している。漫画家では、やくみつるといしいひさいちが対照的な視点から事件を風刺した4コマ漫画を描いている。やくみつるは記者会見での西岡を揶揄する4コマ漫画を描いている。それに対していしいひさいちは、文春とSWCが共同記者会見をしている場面から始まり、4コマ目にイスラエル占領地のユダヤ人入植者がガス管を持ちながら「ガスが出ないぞ」と言っている光景を「入植地にガスはなかった」と言う太文字と共に描いて、やくみつるとは対照的な視点から『マルコポーロ』事件を風刺している。またマッド・アマノも『フォーカス』の狂告の時代でこの事件を風刺したパロディーを描いている。一連の事件が収束した後も、この事件を巡る論争が継続した。重要な争点のうちの一つは言論の自由の観点から提出されたものであった。そこではSWCによる広告ボイコット運動という手法と、それに応じて文藝春秋社が取った措置の両方が批判された。月刊『創』編集長の篠田博之も「この種の言説を紹介するだけでも雑誌廃刊のような目にあうのではと、この問題について言及するのを避けるメディアもあるようだが、これこそまた1つのマスコミ・タブーを作り出すことにほかならない」と批判している。更に、記事の執筆者である当時厚生省の職員(医務官)であった西岡が厚生省から記者会見中止の圧力を加えたことは、中央官庁による言論介入が行われたことを意味し、重大であるが、当時の新聞・テレビは、こうした問題を深く掘り下げて報道しなかった。この措置によって文藝春秋社が執筆者に一言の相談も無く、記事の内容を取り消し、広告ボイコットの圧力に屈したとして江川紹子は、西岡記事は支持しない立場を明確にした上で、広告ボイコットという行為については厳しい批判を加えている。江川紹子は、更に、こう懸念を述べている。出版物でのタブー化の空気とは対照的に、ネット上で、マルコポーロ事件とホロコースト見直し論を論じるブログ等は、数多い。文芸批評家の絓秀実は、ヘイドン・ホワイトとカルロ・ギンズブルグの論争に言及しながら、上記のような言論の自由という争点そのものを批判した。すがによれば、言論の自由という権利は中立的なものではなく政治的闘争の場に他ならないのであるから、その政治性が忘却されてしまった場合、政治的にホロコーストが重要な問題ではなかった日本においては、「ホロコースト否定論」すら言論の自由の名の下に登場し得ることになるのである。事件当時、『サンデー毎日』1995年2月19日号は、小野博宣による電話取材で、東京大学助教授(当時)石田勇治(ドイツ現代史)の次のようなコメントを掲載した。この石田勇治のコメントに対し木村愛二は、石田自身が「タネ本」とされるロイヒター報告を読んでもいないし、入手してさえもないと語ったして、自著の中で批判している。石田勇治はその後、木村の批判には直接答えることはせずに『ジャーナリズムと歴史認識』(凱風社、1999年)や『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』(白水社、2002年)といった著書で、戦勝国によるニュルンベルク国際軍事裁判だけでなく、戦後のドイツ司法当局が現在も続けている「ナチ裁判」、とくにアウシュヴィッツ収容所の重大犯罪(謀殺罪)を裁いたフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判を紹介し、ホロコーストが動かぬ事実であるとした。また石田勇治は上記『ジャーナリズムと歴史認識』に「アウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所の史料から」を寄稿して、木村や西岡が問題視するアウシュヴィッツ基幹収容所跡地のガス室の歴史を説明したうえで、ガス室の存在を示す当時の史料を詳しい説明とともに掲載した。しかし、西岡は「ユダヤ人絶滅を命じた命令書」が発見されていないと指摘しており、現在もそうした公文書(命令書)は発見されていない。欧米の歴史学界(アカデミズム)ではホロコーストに関する実証研究が進み、その歴史的な背景から要因、経緯にいたるまで明らかになっている。ユダヤ人絶滅命令がヒトラーによって口頭で下され、そのため命令書が存在しないことは歴史学界の常識となっている。ホロコースト見直し論(ホロコースト否認、ホロコースト否定論とも)が欧米の歴史学界で取りあげられることはない。ただしドイツ、オーストリアでは、ホロコースト見直し論がネオナチや極右勢力の宣伝に利用されていることを重く見る歴史学者、学校教員、教育機関が、歴史教育の一環として、ガス室を含むホロコーストの実態に関する教育・啓蒙活動を行っている。またドイツ連邦内務省(ベルリン)、ナチ犯罪追及センター(ルードヴィヒスブルク)はネオナチ対策のひとつとして、同様の啓蒙活動を行っている。日本の歴史学界では、ドイツ現代史学会が1995年夏の大会でこの問題(「マルコポーロ事件」)を取り上げたが、それ以外で取り上げられることはなかった。西岡の記事の内容に対しては、石田勇治(東京大学教授)、芝健介(東京女子大学教授)、永岑三千輝(横浜市立大学教授)、矢野久(慶應義塾大学教授)、栗原優(創価大学教授)、西川正雄(専修大学教授・東京大学名誉教授)などの歴史家たちが批判をしている。日本の歴史学界では、文教大学の加藤一郎(西洋史)が、ホロコーストの事実見解を根底から見直す立場を取っており、梶村太一郎(ベルリン在住のジャーナリスト)と金子マーティン(日本女子大学教授、社会学)は、マルコポーロ事件に関連して「週刊金曜日」1997年1月誌上でホロコースト否定論を糾弾した。これに反発した木村愛二は、両者及び『週刊金曜日』を名誉毀損で東京地裁に訴えたが、地裁は「ホロコーストは世界にあまねく知られた歴史的事実」とした上で、「このような「歴史解釈」をめぐる論争は、我が国の法体系の下においては、本来見解が対立する者同士の自由な議論に任せられるべき分野の問題であって、法が濫に介入すべきものではない。」としてガス室の存在についての判断は行わず、名誉毀損については請求を棄却した。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。