三重県立明野高等学校(みえけんりつあけのこうとうがっこう)は、三重県伊勢市にある三重県立の高等学校である。通称:明高(あけこう)。全国的には、かつて1980年代に硬式野球部が甲子園大会出場時に、池田・天理・近大付などといった強豪校との対決でも知られている。明野高校の前身となる施設で明野原(明野ヶ原とも)開拓の拠点として創設された。当初は士族授産を目的としていたが、予定よりも応募が少なかったため、名称を明野勧農場に変更した上で県の模範農場として運営されることとなった。明野勧農場の主な業務は三重県一円に養蚕と畜産を普及させることとその技術の開発であった。養蚕では3町2歩の敷地に桑を植栽し、その改良を進めた。畜産では1882年(明治15年)に岩手県から農馬25頭を、さらに1893年(明治26年)には名古屋洋牛舎から「ブラウンスヰス種」の牛2頭を購入、同年農商務省から「デヴォン種」の牛1頭を借り受けたが、実際には員弁郡及び伊賀山田郡の農家に貸し出すことで勧業を図った。この結果県内各地に近代畜産業が普及し、勧業試験場はそのさきがけとなった。三重県立田丸実業女学校(みえけんりつたまるじつぎょうじょがっこう)は、三重県度会郡田丸町(現在の玉城町)にあった女学校。1948年(昭和23年)5月23日に三重県立学校の統廃合により明野高校に統合された。1920年(大正9年)4月10日に度会郡立農林学校として創立、1922年(大正11年)4月10日に三重県に移管され三重県立度会農学校に改称、1929年(昭和4年)4月に三重県立田丸実業女学校に改称、翌1930年(昭和5年)3月31日に男子部を廃止して、2年制の女子教育を行う学校となった。学校の跡地は、1948年(昭和23年)6月1日に田丸町外二ヶ村学校組合立城東中学校となった後、城東中が廃校し、1977年(昭和52年)に玉城町営住宅城東団地となった。次の教育組織がある。近隣には陸上自衛隊航空学校がある。例年、地元の伊勢市立小俣中学校からの進学者が最も多い。
出典:wikipedia
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