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福岡県立筑紫丘高等学校

福岡県立筑紫丘高等学校(ふくおかけんりつ ちくしがおかこうとうがっこう)は、福岡県福岡市南区野間二丁目にある県立高等学校。福岡県第五学区に属する(以下、「筑紫丘高校」と記す)。ふくおかスーパーハイスクール(FSH)指定校。全日制課程に普通科、及び理数科を設置している。「筑紫ヶ丘」と間違えられることがしばしばあるが、正式な校名には「ヶ」の字は入らない。漢字での正式表記は「筑紫丘」だが、以前の周辺地域の正式地名が「筑紫ヶ丘」であるため、食堂の食券や同窓会寄贈の黒板の一部などに「筑紫ヶ丘」と表記されていることがあり、表記のぶれが見られる。略称は「がおか」(が丘・ガオカ)もしくは「筑高」(ちっこう)。なお、昭和47年に発刊された、筑紫中学・筑紫丘高校史「筑紫丘陵」には、同校の校名について以下のようなくだりがある。『新校歌作詞の為来校された高木市之助先生が校名は「ちくしがおか」か「つくしがおか」と質問され、それに対して同校関係者は、「つくしがおか」であると答え、現在のような格調高い校歌ができた。』(要旨)卒業生累計は32,000人余り。クラス数は一学年11クラスの時期が長く続いたものの、一時期は10クラス(普通科9クラス+理数科1クラス)となり、平成22年度より再び11クラス(普通科10+理数科1)となっている。校風を一言で表すならば「生徒の自主性を重んじる」である。「"男女の交際は常に公明正大であるように心がけること。"(生徒心得10の(4))」というものがあったが、平成21年度以降の生徒手帳ではこの項目が削除されている。1926年6月28日、前身である旧制福岡県筑紫中学校の設置が許可された。太平洋戦争中は「学徒勤労動員令」により、生徒達は席田(むしろだ)飛行場(現福岡空港)建設や軍需工場(九州兵器工場など)に動員された。戦後、1948年4月1日の学制改革により、福岡県筑紫中学校及び1943年より併設していた福岡県三宅中学校(夜間)を合併、福岡県立筑紫高等学校と改称した。しかし同じ旧筑紫郡に福岡県筑紫高等女学校(現福岡県立筑紫中央高等学校)があり、「筑紫」の名称が競合することとなった。また同年7月、塩原の校舎を福岡学芸大学(福岡分校、現在は九州芸術工科大学を経て九州大学芸術工学部)に転用する旨の県知事通告を受けた。設置されてまだ月日が短いために選ばれたのだが、「俺たちの学校をなぜ奪う」と怒る在学生から卒業生や教師、PTAなど、学校一丸となった反対運動が起こった。在学生の中には血書をマッカーサー司令部に持ち込んだ者、連日県知事室にメガホンで訴えた者もいた。さらに東京・文部省(現文部科学省)をも巻き込んだ大規模な反対運動に発展したものの、現校地(野間)への移転が1949年3月の県議会で決定された。そして同年8月31日に福岡県教育委員会告示第23号により、現校名「福岡県立筑紫丘高等学校」に改称された。このことに関しては、非常に多くの文献・資料等が当時の校誌として残されている。現校地と現在の九州大学大橋キャンパスの間を、非常に重い机を1人1個持って移動した、という事実が伝えられている。現在もこの机は、社会科講義室で使用されている。意気消沈した学校に光を与えたのが、1951年に考案された筑高体操であった。1967年、創立40周年記念事業の一つとして「学校教育の発展向上を目的とした筑紫丘高校教育の援助等」を目的として財団法人福岡県立筑紫丘高等学校筑高協会が設立された。そして同窓会や父母教師会などの協力の下、1971年筑高会館が完成した(鉄筋コンクリート3階建)。翌年学校法人筑紫丘学園の設立が認可され、4月に筑紫丘学園が開校した。筑高会館で大学受験浪人生を対象とする予備教育施設として活動を続けたが、大学入試センター試験の開始や大手予備校の進出を受け、1989年に休校。1995年、筑紫丘学園は解散した。その後も会館は同窓会事務局や補習授業室として使用されたが、創立80周年記念を迎えるにあたり解体され、新図書館が建設された。それに伴って旧図書館が解体され、現在旧図書館跡地は空き地となっている。「剛健 叡智 創造」を校訓に、「21世紀の日本をリードし、世界に貢献する剛健かつ叡智と創造力に富んだ人材を育成する。」を本校教育の使命として掲げている。旧制筑紫中学校の校訓は「誠實(誠実) 剛健 勤勉 質素」である。また、初代校長生田徳太郎の教育方針は「筑紫男子(つくしをのこ)」。1955年(昭和30年)12月19日に制定された。作詞は高木市之助、作曲は信時潔による。歌詞は漢字のみの表記で、詞の中に校名がなく、漢文調の校歌である。式典や大運動会(フィナーレ)では応援団の太鼓と共に斉唱する。但し、卒業式に限っては吹奏楽部の伴奏である(吹奏楽の伴奏譜は新旧2種類あり、新しいものは平成15年3月の卒業式から使用されている)。完全下校30分前になると放送でピアノ伴奏・二部合唱譜による校歌が流れる。これと公式サイトで聴くことが出来る校歌は同じものであるが、普段歌うものとは異なる(下記のCD収録のものも同様)。また、1931年2月11日に制定され、戦後歌われなくなった旧校歌もあるが、今日では生徒手帳に掲載されているほか、同窓会総会や周年式典で歌われるのみである。作詞は生田徳太郎(初代校長)、作曲は片山頴太郎による。1番の歌詞の碑が校内の売店付近に建てられている。筑紫の名の起こりと伝えられる筑紫神社(祭神白日別命、筑紫野市原田)の神紋、角立四目結(かどたてよつめゆい)を図案化し、太宰府天満宮に鎮座する学問の神、菅原道真ゆかりの梅花を組み入れ、高の字を配したもの。。1948年1月25日制定。同年4月新制高校発足とともに旧校章に代わって使用することになったもの。デザインは高校第2回卒業生、船越進の作である。剛健な「筑紫男子(つくしをのこ)」を象徴する体操で、1951年(昭和26年)に梶山彦三郎(同校の元体育教諭、福岡大学名誉教授)が考案した。海軍で行われていた体操を基にしたものという。翌1952年の運動会で初めて披露されて以来、今日に至るまで大運動会において行われている。。最後の見せ場の「槍投げ」と呼ばれる動きが筑高体操像となっており、運動場わきに設置されている。各運動の名称は指導の際用いられるもの。〈〉内は創作者の一人、内田正男による運動内容の補足である。「ちっこうたいそう、よ〜い始め!!」筑高体操像は同校の元教諭で彫刻家の高倉準一の作である。しかし槍投げの角度は実際には斜め約45度であり、像のように垂直ではない(理由は不明)。南区や春日市に住む生徒の多くが、全体では約半数が自転車で通学する。那珂川町の生徒は通学に不便である。大野城市や太宰府市、筑紫野市の生徒は電車通学(西日本鉄道)が多い。「筑紫丘」の名の示す通り小高い丘の上に位置し、真下には筑紫丘トンネルが通っている。校舎は鉄筋コンクリート5階建てで、本館、第1棟(文系棟)、第2棟(理科棟)、第3棟(理系棟)に分かれている。また講堂のほか、武道場、2階建ての体育館、別棟の図書館、食堂がある。講堂は筑紫丘生の自慢の種の一つであり、1440人収容・冷暖房完備という講堂は公立校にしては豪華である。アリーナは体育館の1階、プールは武道場の屋上、食堂の下には駐輪場がある。テニスコート、ハンドボールコートは西門から50mほど東側の校外にある。本館の前にあるフェニックスの木は、旧制筑紫中学校にあった2本の内の1本である(このことはほとんど知られていない)。また2005年の福岡県西方沖地震では校舎内にひびが入るなどの被害があった。校内には「忍」「恕」などの文字が刻まれた石が置いてある。生徒の部活動加入率は、毎年約7割。主な部活動としては、野球部、サッカー部、ラグビー部、剣道部、柔道部、バスケットボール部、陸上部、吹奏楽部、水泳部、テニス部(硬式・軟式)、ハンドボール部などが挙げられる。

出典:wikipedia

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