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東南アジア諸国連合

東南アジア諸国連合(とうなんアジアしょこくれんごう、、ASEAN )は、東南アジア10か国の経済・社会・政治・安全保障・文化に関する地域協力機構。本部所在地はインドネシアのジャカルタ。2009年以降、アメリカや中国など50ヶ国あまりがASEAN大使を任命し、ASEAN本部のあるジャカルタに常駐。日本も、2011年5月26日、ジャカルタに東南アジア諸国連合(ASEAN)日本政府代表部を開設し、ASEAN大使を常駐させている。域内の総人口は6億2000万人(2014年)を超えており、5億人(2014年)の人口を抱える欧州連合 (EU) よりも多く人口増加率も高い。2013年の加盟国の合計のGDPは2兆4,104億米ドルであり、日本のGDPの約半分の規模である。ASEANを一つの国家として見た場合、世界7位の規模を持つことになる。ASEAN経済共同体のAECを発足させようとしている。2015年末に向けて発足する予定で、主にASEAN各国同士の経済協力を目的としている。域内の物品関税が9割超の品目数ですでにゼロとなるなど高水準のモノの自由化を促そうとしている。1961年にタイ、フィリピン、マラヤ連邦(現マレーシア)の3か国が結成した東南アジア連合(Association of Southeast Asia, ASA)が前身。また、インドネシアも加えたマフィリンド構想も、ASEAN設立の土台となったEAN(東アジア協会)の設立によって発展的に解消される形となったとされる。のちベトナム戦争中の1967年8月、ドミノ理論による東南アジア諸国の赤化を恐れたアメリカの支援のもと、タイのバンコクでASAを発展的に解消する形で現在の東南アジア諸国連合が設立された。原加盟国はASAの3ヶ国とインドネシア、1965年にマレーシアから独立した新興都市国家シンガポールの計5か国で、いずれも反共主義の立場を取る国であった。各国外相共同の設立宣言は、東南アジア諸国連合設立宣言や「バンコク宣言」などと言う。1967年に5カ国で発足して以来、1984年にイギリスから独立して間もないブルネイが加わるまで新規加盟国は長い間現れなかった。これには冷戦期の反共主義が関連し、フィリピンやタイは反共軍事同盟である東南アジア条約機構(SEATO、1977年6月末解散)の加盟国としてベトナム戦争でアメリカを支援して南ベトナム(ベトナム共和国)へ派兵を行った。その後、1980年代以降にシンガポールやタイなどで高度経済成長が実現すると、徐々に総合地域開発など経済分野での重要性が増していった。1990年代後半に同地域の北方にある4か国が順次加盟し、現在に至る10か国体制が出来上がった。この10か国からなる拡大ASEANを"ASEAN-10"と呼ぶことがある。特に1995年、ベトナム共産党による一党独裁が続く社会主義国家のベトナム(ベトナム社会主義共和国)を迎え入れた事は、ASEANが反共政治同盟から東南アジアの地域共同体へと変質した事を示す象徴的な出来事となった。一方、ベトナムとしても、ASEAN発足時には北ベトナム(ベトナム民主共和国)としてアメリカやSEATO諸国などとベトナム戦争を戦い、その後もカンボジア内戦などでタイなどと激しく対立していた過去を払拭し、外交政策の転換と体制の安定化を完成させるためにASEAN加盟は必要だった。なお、最後の加盟国であるカンボジアは内政事情から加盟が遅れたもので、当初はミャンマー・ラオスと共に加盟する予定であった。ベトナムの影響力が強いラオスとカンボジアの相次ぐ加盟により、イデオロギー対立を超えた東南アジア地域統合体としての役割をさらに強く担う事になった。2013年には共産圏であるベトナム出身者から初めてASEAN事務総長が選ばれ、ASEAN共同体設立の舵取りを担った。一方、アメリカや西ヨーロッパ諸国から軍事政権による強権統治が批判されているミャンマーの加盟を認め、ASEANはミャンマーの民主化問題で「建設的関与」というアプローチを取る事を明確にした。以後、ASEANは強硬な軍事政権批判を避け、首脳会談での議長声明などの形で民主化を求める提言が続けているが、ミャンマー軍事政権はこれを拒否、あるいは自分の計画に基づいた政策展開を崩さず、加盟国の内政に対するASEANの影響力には限界がある事が示されている。パプアニューギニアは、1975年の独立当初からASEAN開始に関心を持っており、翌年の1976年からASEAN閣僚会議にオブザーバー(会議に出席はできるが議事への参加権や議決権がない)として参加し、1981年には特別オブザーバーの地位を得た。1986年のASEAN閣僚会議で正式に加盟を申請し、現在まで加盟を希望している。しかし、パプアニューギニアが東南アジアに位置してないことから、ASEAN諸国は加盟に否定的である。東ティモールは、オブザーバー・ステータスの獲得、さらにはASEAN加盟も目標とし、2007年には東南アジア友好協力条約(TAC)にも参加済である。東ティモールが加盟すると、ASEANは東南アジアに首都を置く全11カ国を迎えて地域共同体として完成するが、同国の独立はインドネシアとの紛争を経ており、インドネシアとの友好関係を重視する加盟諸国はこの動きを必ずしも歓迎していない。特にミャンマーは、自国の民主化運動家であるアウンサンスーチーが東ティモールを支持していることもあって反対を表明しており、シンガポールも東ティモール加盟には消極的とされている。また、独立後の東ティモールは国内情勢が不安定で、2006年から国際連合による国際連合東ティモール統合ミッション(UNMIT)が続いている点も問題となっている。これに対し、東ティモールのダコスタ外相は、2010年7月21日に行った時事通信などのインタビューで、同国は2012年までのASEAN加盟を目指しているとし、東ティモールは安定した民主国家であり、急速な経済発展を遂げていると述べ、加盟資格は十分あるとの認識を示した。また、ASEANの最高規範(加盟国が順守すべき基本原則としての民主主義、法の支配など)であるASEAN憲章の基準を満たすことはできると強調した。同年12月1日にはジョゼ・ラモス=ホルタ大統領が2011年中のASEAN加盟決定に改めて意欲を示した。2011年3月4日、ダコスタ外相は、ASEAN議長国インドネシアのジャカルタで同国マルティ外相に対しASEAN加盟を正式に申請した。マルティ外相は共同記者会見で「東ティモールの加盟を支持し、速やかにASEAN内で話し合う」「2015年までにASEANに迎え入れたい」と述べ、早ければ今月中にも外相レベルで協議を始める方針を示した。ダコスタ外相と3月3日に会談したインドネシアのユドヨノ大統領は東ティモールの加盟を全面的に支持すると表明。他の加盟国にも大きな異論はないが、手続き上の問題などから年内の加盟実現は困難とみられている。ダコスタ外相は「早期の加盟を望む」と語っており、ユドヨノ大統領と東ティモールのグスマン首相は22日に会談し、加盟問題などを協議する予定である。域内人口は6億人を超え、欧州連合 (EU) や北米自由貿易協定 (NAFTA) よりも多い。国連の予測では、2030年には7億人を超え、2050年には7億7000万人規模になるとされている。ASEANの主な活動は設立当初は外相会議であった。バンコク宣言では外相会議を毎年開催することを定めている(定期閣僚会議)。第1回の外相会議はASEANの設立を宣言したバンコクにおける会合である。設立当初の目的は経済・社会分野での地域協力で、最高決定機関は年次外相会議であった。1972年、1973年から欧州共同体(現欧州連合)やオーストラリアとの域外対話を開始した。現在はこれに中華人民共和国、日本、ニュージーランド、カナダ、アメリカ合衆国、大韓民国、ロシア、インドを加えた10が域外対話国・機構と呼ばれる。年次外相会議の直後に招かれた拡大外相会議を開いている。1975年以降は、外相会議とは別に、経済担当閣僚会議が年に1,2回開かれる。1976年2月にバリ島でASEAN首脳が初めて一堂に会しASEAN協和宣言が発表され、政治協力がASEANの地域協力の正式な一分野になった。ASEANサミットとも称されるこの会合は、当初は不定期開催であり、1992年のシンガポールにおける会合の時点で未だ第4回目を数えるに止まった。だが、この第4回首脳会議において、3年毎の公式首脳会議とそれ以外の年の非公式首脳会議が開催されることが決定され(シンガポール宣言)、1995年以降毎年開催されている。更に、公式・非公式の区別は2002年に入って廃止されることになった。1976年2月に開かれた初の首脳会議において東南アジア友好協力条約が締結された。この条約への加盟国は2008年7月で25か国に上り、ユーラシア全体に拡がっている。2006年首脳会議の合い言葉は、「一つのビジョン、一つのアイデンティティー、一つの共同体」である。ASEANの発足当初から日本は緊密な関係を維持し、1970年代より頻繁に首脳、外相レベル会談を行ってきている。1974年に田中角栄首相が東南アジアを歴訪した際には日本の経済進出に反発する現地住民からの反対デモが発生した (マラリ事件) が、それ以後も両地域の関係は概ね順調に推移した。日本にとって東南アジアはインドネシアの石油・マレーシアの天然ゴムなどの原料供給地として重要で、さらに低賃金で良質な労働力を得られるタイやマレーシアなどは日本の製造業が海外進出をする際の有力な相手国となった。また、アメリカへの従属度が高い日本外交にとって東南アジアはその独自性を発揮できる数少ない場で、1978年の福田ドクトリンなどが発表された。ASEAN側にとっても、地域内での覇権を求めず経済面での利益を追求する日本の進出は好都合で、両者の関係はさらに深化した。1981年には日本とASEAN諸国の間で「東南アジア諸国連合貿易投資観光促進センター設立協定」を結び、日本アセアンセンターが設立された。これは貿易の振興、日本からASEAN諸国への投資と観光客の増大を目標としたものである。他にASEAN文化基金、日・ASEAN総合交流基金、日・ASEAN学術交流基金、などの各種基金が存在している。2010年からは日本国内でのASEAN諸国への理解を深めるためとして「ASEAN検定」が開始され、日本アセアンセンターなどの後援を得て、リクルート社内に設けられた事務局によってタイ・ベトナム・インドネシア3カ国についての試験が行われている。1997年からはASEAN首脳会議の拡大版として日本・中国・韓国の3カ国首脳も集まるASEAN+3が開催され、東アジアの長期安定・発展を担う上で重要な存在となっている。2003年は日本ASEAN交流年とされた。記念切手の発行や人的交流、文化紹介の催しなど交流年を記念したイベントの開催や事業の実施が日本、ASEAN諸国各国で見られた。12月11日、12日には日本が各国首脳を招いて日・ASEAN特別首脳会議を開催した。また、2008年には当時の福田康夫総理は福田ドクトリンを継承する立場からASEAN共同体支持とASEAN大使及び代表部の設置を打ち出し、日本・ASEAN包括的経済連携協定を締結して2002年発効の日本・シンガポール新時代経済連携協定による経済連携協定(EPA)をASEAN全域へ拡大するステップとなった。しかし、ASEAN全体と日本の自由貿易協定(FTA)交渉はまだ妥結せず、2010年に成立した(ACFTA)が先行する事になった。これにより、日本が構想する東アジアEPAの成立も停滞している。2012年12月28日に発足した第2次安倍内閣は、価値観外交の基本方針下で、経済や安全保障での存在感が高まるアセアンを重視。就任後1か月以内に、安倍晋三総理の初外遊先となったベトナムに続いてタイ、インドネシアの訪問、民政移管を進めるミャンマーへの麻生太郎副総理の訪問など、閣僚がアセアン主要国を次々と訪問した。自由、民主主義、基本的人権、法の支配など普遍的価値の実現と経済連携ネットワークを通じた繁栄を目指し、日本はASEANの対等なパートナーとして共に歩んでいく旨のメッセージを各国首脳に伝達した上、2013年1月18日には、訪問先のインドネシアにおいて、以下の対ASEAN外交5原則を発表した。日本がアセアンとの価値観外交を進めるに当たっては、港や道路などハードのインフラの整備だけでなく、投資環境整備にもつながる法整備支援や、人材育成といったソフトのインフラ整備への協力を、日本の役割として位置付けることが重要と指摘されている。独立王国を維持したタイを除くASEAN諸国はいずれも現在の欧州連合(EU)加盟国の植民地となり、経済・文化面でも大きな影響を受けた。第二次世界大戦による日本軍の占領は各地での独立運動を活性化して戦後の独立につながり、特にインドネシアは独立戦争後もオランダ領ニューギニア(イリアンジャヤ)や東ティモールへの侵攻を行い、民族自決権の損害と侵害とこれを非難する西ヨーロッパ諸国との対立が生じていた。しかし、ASEAN諸国が資本主義経済の維持と発展を目指し、西欧諸国との関係が安定すると、欧州経済共同体 (EEC、EUの前身)とASEANは、1972年に初めて対話を行い、ASEANにとっての初めての対話国となった。以降、外相・閣僚レベルの会談を行い、1980年には協力協定を結んだ。この流れは1990年代に入っても続き、1996年には第1回のアジア欧州会合(ASEM)が実現し、以後も2年ごとの開催が続いている。1997年の合同協力委員会は、同年7月にASEANに加盟したミャンマーの取り扱いで意見の相違が生じ、1999年5月まで延期された。この会合では、政治および安全保障、経済、開発、環境、エネルギーの分野での協力関係を作る「作業計画」が採択された。2007年11月21日には公式関係30周年を記念して、初の首脳会議がシンガポールで行われた。元来、ASEANが軍事同盟の東南アジア条約機構(SEATO)を補強する役割を担っていたように、加盟諸国とアメリカは強い関係を保っていた。1975年のベトナム戦争終結により1977年にSEATOが解散しても両者の協力関係は変わらず、ASEANは資本主義諸国を束ねる国際政治システムの事実上の一部として機能していた。冷戦の終了によりASEANから反共政治同盟の色彩が薄まり、ベトナムが加盟してもアメリカはASEAN諸国との友好関係を維持し、現在でもASEAN諸国(東南アジア)はアメリカにとって重要な市場かつ原料供給地である。また、中国による南沙諸島(スプラトリー諸島)支配などの南シナ海進出に対しては、これに反発し警戒するASEAN諸国の立場をアメリカが支持している。しかし、マレーシアのマハティール政権が「ルックイースト政策」でアメリカではなく日本を経済発展のモデルとし、国民車構想で自動車産業の自立を進めるなど、経済面ではASEANとアメリカとの間にさざ波が立つ事がある。アジア全体の経済や国際世論をリードしようとするASEANの狙いは1996年にASEM開催として結実したが、自国抜きで多国間協調が深化する構図に対してアメリカは警戒感を隠さず、東アジア共同体提唱に対するアメリカの反発などに繋がっている。ASEAN発足時の中華人民共和国(中国)は文化大革命の最中で、毛沢東主義による社会主義革命の輸出を熱心に唱えていた。また、ASEAN諸国の多くでは少数派の中国系住民(華人)が経済の実権を握り、国家指導者を輩出する原住民との関係が微妙だった上、過去には華人中心のマラヤ共産党による武装闘争やインドネシアの9月30日事件もあったため、ASEAN諸国政府が持つ中国への警戒感が非常に強かった。1980年代に入るとニクソン大統領の中国訪問から西側と関係強化していた中国は改革開放路線となり、カンボジア内戦では、中国が支援するクメール・ルージュ(ポル・ポト派)やASEAN諸国(特にタイ)の支持を受けたシアヌーク派(王党派)などが協力した民主カンプチア三派連合政府が成立した。1990年に中国がシンガポールとの国交を樹立し、インドネシアとも国交を回復すると、中国とASEANの接近が始まった。1997年にはASEAN+3の一角となる。カンボジア和平合意により紛争が終結し、中国の改革開放政策の定着が不動のものになると、東南アジアの華人資本は中国への投資を拡大し、中国産の衣料品や電化製品がASEANへ大量に輸出されるようになった。2002年には中国とASEANが自由貿易区創設で合意して、2010年に両者間の自由貿易協定(ACFTA)が発効した。メコン川流域の総合開発計画でも両者は1996年に協力会議を設立し、この分野でも中国からのASEAN接近が、特にラオスなどで顕著である。このような制度整備により、経済関係は拡大の一途をたどっている。一方、政治面ではASEAN諸国の対中警戒心が解けていない。特に南シナ海中央部の南沙諸島(スプラトリー諸島)や同海北部の西沙諸島(パラセル諸島)の領有権を中国とベトナム・フィリピンなどが争い、中国海軍が両諸島に基地を設けている事はASEAN諸国から問題とされ、不安定要因になっている。中華民国はASEAN発足当時にはマレーシアを除く加盟諸国との外交関係を持っていたが、1990年以降は消滅している。しかし、非公式な外交関係や幅広い経済協力は続いている。中でもシンガポールとは1975年に締結した「星光計画」が依然として有効で、シンガポール軍は台湾での軍事演習を続け、中国による武力侵攻の場合にはシンガポールが支援する取り決めがあるとも言われている(ただし、リー・クアンユーは台湾に武力侵攻の場合は中国は2週間先に事前通告するよう要求してる)。なお、中華民国も南沙・西沙諸島の領有権を主張し、南沙諸島には軍事基地を設けている。

出典:wikipedia

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