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東京メッツ

東京メッツ(とうきょうメッツ、"Tokyo Mets")は、水島新司の野球漫画『野球狂の詩』およびその続編『野球狂の詩 平成編』『新・野球狂の詩』『ブル』『ストッパー』などに登場する架空のプロ野球チーム。『新・野球狂の詩』において化粧品会社に譲渡され、札幌華生堂メッツ(さっぽろかせいどうメッツ、"Sapporo Kaseido Mets")となる。東京倶楽部として発足(実在した同名のチームとは関係ない)。発足が戦前か戦後かは不明。戦後の五利らが現役の時代には東西対抗(オールスター)のメンバーが全員東京倶楽部の選手で、五利が「メッツ最強の年やった」と懐かしんでいることから、2リーグ分裂前に優勝もしくは強い時代があったと思われる(『メッツ本線』)。1948年に鉄五郎が自己最多の15勝を挙げた(『よれよれ18番』)とある事から、五利が最強の年と言っているのは1948年 - 1949年近辺と推測される。1950年の2リーグ分裂時に球団名が東京メッツになり、セントラル・リーグに加盟した。『野球狂の詩』当時、メッツの対戦相手は阪神タイガースや中日ドラゴンズ、大洋ホエールズ、広島東洋カープなどが多く、読売ジャイアンツ(巨人)選手の登場は『バットファーザー』などのオールスター戦や、『おれは長島だ』で長嶋茂雄などが登場、または話題になっている程度。『恐怖のTO砲』では、TO砲のデビュー戦となった阪神との試合で、岩田鉄五郎と五利監督が「長嶋の現役最後のシーズンが始まった」との主旨の会話をしている。原作での東京メッツのユニフォームはジャイアンツのものに似ている。ただし、アニメ版では青を基調にしたものとなっており、印象は全く異なる(MLBのニューヨーク・メッツに近い)。初期の東京メッツの所属する作中のセントラル・リーグには、他に架空球団大阪アパッチ(後に大阪ガメッツ)があり、8球団制。平成編の初期のみ架空の球団がメッツ含めて4球団の10球団制であるが、後に出てくる順位表などでは8球団となっており、残りの2球団の名前は登場しない。これはおそらく肖像権の問題などでセの実在球団および選手を出すことに躊躇があったための設定と思われる。メジャーリーグのニューヨーク・メッツとは提携関係という設定がある。東京メッツの親会社は、『恐怖のTO砲』で「東京インスタント食品」として名前が登場したのち、「メッツ食品」という名前が登場している。これは球団名に合わせて後日改名したと解釈される。「T,Oヌードル」を世に出したのは1973年 - 1974年で、日清食品のカップヌードル(1971年 - )があさま山荘事件(1972年)で有名になって間もない時期であり、さらにこの直後の1975年初めにサンヨー食品が「サッポロ一番カップスター」を発表している。後にメッツは『野球狂の詩外伝』において甚久寿の父親が社長の野呂建設に買収されたが、オーナーと球団名はそのままであった。『新・野球狂の詩』には、化粧品会社「華生堂」に売却。本拠地を東京都(国分寺市)から札幌市に移転し、「札幌華生堂メッツ」に改称し現在に至る。国立の現役1年目を1973年、火浦健の現役1年目を1974年とすると、メッツのドラフト指名は以下のようになる。1972年の夏の甲子園で白新高校は準優勝し、メッツが国立を指名、同期の学友・山井英司を阪神タイガースが5位で指名するが山井は入団せず。1973年から国立玉一郎が現役開始。(ただし、『野球狂の詩』の外伝的作品である『野球大将ゲンちゃん』では、主人公・力道元馬、および鉄五郎の孫・武司の出生年である1970年秋の時点で、玉一郎は「メッツの主砲」と呼ばれ、4番打者を務めている)1973年11月のドラフトで王島大介が阪神タイガースから指名され、学友の山川投手は太平洋クラブライオンズから指名された。阪急ブレーブスが江川卓を、大洋ホエールズが山下大輔を指名。このとき、メッツは財政上の理由で江川らを避けて唐部と丘を指名し、12月の入団テストで火浦健が国立を三振にとり、入団決定。1973年秋から1974年春までのオフ、TO砲がT,OヌードルのCMキャラクターに。1974年に入った入団テストで長島太郞が4年目で合格。春から火浦とTO砲が対阪神タイガース戦で別々に現役デビュー。立花薫もこの時期の入団と思われる。また、TO入団後のドラフトで野村南海が新潟西高校の日下部を指名するが本人は早稲田に入学、学友の富樫をメッツが指名。TOの人気で岩田とオーナーは「これで江川を指名できる財力ができた」と言っていたが、74年秋のドラフトでメッツが指名した相手は日下部で(作品では富樫のメッツ入団から4年たったことになっている)、日下部は岩田鉄五郎との電話で入団を承諾。75年秋のドラフトでメッツが水原勇気を指名し、76年から現役開始。岩田鉄五郎は山田を、五利監督は不知火または中西球道の獲得を検討していたが、山田や岩鬼が指名された1994年秋のドラフト会議にはメッツは参加していなかった。以下に優勝が確実なものを挙げる。以上の6回。また、岩田鉄五郎監督のもと優勝2回、2位2回、3位1回(『あて馬』)の記述を加えると優勝は8回になる。1975年は5位、水原1年目の1976年は優勝の可能性がある。また、昭和40年代(西暦では1965年から'74年)に優勝を4回(または6回)も果たしているにも関わらず、『新・野球狂の詩』にて鉄五郎や五利が「昭和50年代はメッツ黄金期」と発言をしている。1978年は阪神タイガースと並んで7位であったのは確認されている(『野球狂の詩外伝』)。1997年の『野球狂の詩平成編』の1話では20年間連続Bクラスといわれており、これだと上記の発言とは矛盾する。また、1974年以前6(8)回の優勝も、上記『俺は長島だ』の中日ドラゴンズ優勝、読売ジャイアンツV10阻止の記述で全否定されてしまう。ただしこの辺の辻褄の合わなさは読み切り重視の水島漫画の通弊とも考えられる。札幌華生堂メッツになってからの2001年以降は順に、2位・4位・2位・1位。1位。'01年と'03年はいずれも、最終戦までもつれた末の僅差での2位であった。2005年は日本シリーズで「ドカベン」山田太郎らを擁する東京スーパースターズと対決、日本一を逃した。

出典:wikipedia

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