比較優位(ひかくゆうい、)は、経済学者であったデヴィッド・リカードが提唱した概念で、比較生産費説やリカード理論と呼ばれる学説・理論の柱となる、貿易理論における最も基本的な概念である。アダム・スミスが提唱した絶対優位(absolute advantage)の概念を柱とする学説・理論を修正する形で提唱された。これは、自由貿易において各経済主体が(複数あり得る自身の優位分野の中から)自身の最も優位な分野(より機会費用の少ない、自身の利益・収益性を最大化できる財の生産)に特化・集中することで、それぞれの労働生産性が増大され、互いにより高品質の財やサービスと高い利益・収益を享受・獲得できるようなることを説明する概念である。アダム・スミスの絶対優位(absolute advantage)は、各分野における経済主体間の単純な優劣を表現するに留まるため、自由貿易と分業の利点や実態が限定的にしか表現できていないのに対し、リカードの比較優位(comparative advantage)は、各経済主体内において複数あり得る優位分野間の時間的な収益性・効率性の比較とその選択・集中にまで踏み込むため、より精度の高い自由貿易・分業の説明・擁護に成功している。18世紀、アダム・スミスはトーマス・マンが提唱した重商主義を批判した。重商主義に基づき貨幣などの金融資産の蓄積を目的として、保護貿易や貿易相手からの搾取を行っても、植民地維持の費用の増大を招き、自国内で権力者のみが富むだけで、その経済主体全体の生活水準の向上には結びつかないからである。そして、アダム・スミスは1776年に自由貿易の重要性と社会的分業による労働生産性の向上を説いた。これは絶対優位にもとづいていたが、これでは交換の利益を説明しきれていなかった。なぜならば、絶対優位においては労働量と資本力を重視し他の経済主体よりも得意な分野に特化するので、絶対優位にある経済主体と絶対劣位にあるそれとでは、前者が一方的に利益を得て後者が一方的に損害をこうむる。しかし、これは貿易による現実とは相容れない。デヴィッド・リカードは1817年に彼の理論を拡張して比較優位の概念を発表した。ここでいう比較とは、労働生産性の各経済主体間の比較ではなく、ある経済主体内での各産業間での比較を意味する。その各産業間での生産性格差を他の経済主体のそれと比較すること、つまり、経済主体内での相対的有利さを経済主体ごとに比較したときにどちらが優位であるかという二重の相対比較が比較優位である。絶対優位であっても、両方に比較優位はあり得ない。さらに、労働力なども含めた資源は有限であり、あらゆる産業において絶対劣位にある経済主体でも比較優位な産業は存在する。仮に資源が無限にあれば、絶対優位のある経済主体のみで生産を行うことが最適となるが、現実には資源は有限であるためにある財の生産を行う場合には他の財の生産を諦めるという機会費用が発生する。直接的な費用だけではなく、この機会費用まで含めて考えれば、絶対優位にあるからといってその財を生産することが最適とは限らなくなる。ポール・サミュエルソンは、比較優位を「弁護士と秘書」の例で以下のように説明している。有能な弁護士Aは、弁護士の仕事だけでなく、タイプを打つ仕事も得意だったとする。秘書は、弁護士・タイプの仕事において、弁護士Aより不得意である。更に、秘書はタイプはそこそこできるが弁護士の仕事はほとんどできない。しかし相対的な比較として各自の弁護士の仕事の能力を基準にすれば、秘書のタイピング能力は弁護士Aより優位であると見ることができる。このような場合、弁護士Aは弁護士の仕事に特化し、秘書にタイプの仕事を任せる。それが、弁護士・タイプの仕事が最も効率よくできるからである。弁護士がタイプを打つと、弁護士報酬という機会費用を捨てることになる。弁護士がタイプを打つのは、恐ろしい機会費用がかかっていることになる。秘書がタイプを打っても、機会費用は驚くほど低い。停年退職者が、午後に映画を見る機会費用は非常に低いが、、カルロス・ゴーンCEOが、1時間の映画を見る機会費用は、驚くほど高い。彼が秘書のように、お茶くみの仕事をすれば、彼が出すコーヒーは何十万円という機会費用のかかるコーヒーとなる。ビジネスマンが、混んでいる安売りスーパーのレジに並ぶのではなく、コンビニで定価の商品を買うのは、「時間」という機会費用を計算=時間(機会費用)の浪費だと計算しているからである。主婦は時間(機会費用)が安いので、スーパーのレジに並ぶことができる。無駄な事をしない=何がトクかを常に考える(時間でも費用でも)ことが、「比較優位」を実践していることになる。比較優位の提唱者であるデヴィッド・リカードのメシュエン条約の引用例に従って、英国と葡国の2国及び毛織物とワインの2財をモデルにする。今、英国の全労働者が1単位時間分だけ働いた場合の生産量を、毛織物ならformula_1単位とし、ワインならformula_2単位とする。一方で、葡国の全労働者が同じだけ働いた場合の生産量を、毛織物ならformula_3単位とし、ワインならformula_4単位とする。この時、であるならば、葡国はワインに関して英国に絶対優位であると言う。又、であるならば、葡国はワインに関して(毛織物と比べた場合に)英国に比較優位であると言う。ここで、具体例として、次の表の場合を考える。葡国は、ワインと毛織物の双方に関して、英国に対し絶対優位である。しかし、毛織物に関しては英国の方が比較優位であり、ワインに関しては葡国の方が比較優位である。なお、逆の言い方をすれば、毛織物に関しては葡国の方が比較劣位で、ワインに関しては英国の方が比較劣位である、と言える。英国の絶対優位性と比較優位性とは無関係であるということが、この具体例からも示される。各国の労働力人口と労働投入係数が、次の表で与えられる通り、簡略化の為に、失業者が居ない場合を想定している場合を考える。両国の生産可能性辺境線は、貿易を行う事で、自給自足状態における状態より大きくなる。要するに、自給自足状態である場合に比べて、両国とも生産可能性領域が増える。これは、各国の国際分業によって全体的な労働生産性が増大することを示し、さらに、自由貿易を前提とした場合には両国が共に消費を増大させられることを示している。すなわち、比較優位にある財を輸出すると共に比較劣位にある財を輸入すれば、絶対優位に関係なく貿易で利益を享受できるということを意味する。もし、どちらの国も生産可能性辺境線上に在る(労働力が逼迫している)場合、一方の財を増産する為にはもう一方の財を減産しなければならない。例えば、毛織物formula_5単位を増産する為には、英国ではワインをformula_6単位減産せねばならないが、葡国ではワインをformula_7単位減産するだけで済む。逆に考えれば、毛織物をformula_5単位減産する場合に、葡国ではワインをformula_7単位しか増産させられないのに対して、英国ではワインをformula_6単位増産させられる。これは、比較優位に立つ側は相手側よりも少ない機会費用で生産できる、ということを示している。現代において、世界各国は、グローバルな貿易ネットワークに大なり小なりつながっており、貿易を行っている。輸出財は国内需要よりも多く生産しているということであるので、特化が進んでいることになる。国内には複数の産業があり、それぞれが他国へ輸出を試みたとすると、より高値で販売できる順に序列ができる。これによって、比較劣位な産業は、収益が悪化し解散するなどして、資源を解放することになる。この結果、比較優位な産業へ資源が集中して、特化が進み、一人当たりの実質GDP成長をうながす。比較優位の概念は、労働力のみが生産要素の場合には、2国多数財(あるいはは2財多数国)の場合にまで容易に拡張させられる。formula_11国とformula_12国の間で貿易を行う状況下において、formula_13財とformula_14財とが有り、それぞれの労働投入係数をそれぞれformula_15及びformula_16とformula_17及びformula_18とすれば、が成り立つとき、formula_11国はformula_12国に対して、formula_13財に比較優位性を持ち、formula_14財に比較劣位性を持つ、と言う。formula_11国からformula_12国へformula_13財が輸出されてformula_14財が輸入されるとは限らない。別のformula_27財がformula_11国からformula_12国へ輸出され、I財とJ財は共にformula_12国からformula_11国へ輸出され得る。このように、2国多数財のケースでは、比較優位は、それのみでは貿易の方向を決定しない。貿易論では、3国3財以上の場合は、2国2財あるいは2国多数財の場合とは、様相が大きく異なる。そこで、3国以上の場合を多数国、3財以上の場合を多数財という。以下はが1961年の論文に載せた数値例である。このとき、「比較優位」の単純な比較はできない。2国2財のどのような組合せを取ろうと、特化パタンは正しく定めることはできない。ジョーンズは、このような場合にも、置換積を最小化する特化パタンを求めればよいことを示した。置換積とは、労働投入係数に対し
"a" "a" ・・・"a"
という形の積をいう。ここで、σは、{1, 2, ... , "N"}の置換である。3国3財の場合、置換の数は全部で6個ある。上記ジョーンズの数値例では、A→1、B→3、C→2という特化パタンが唯一実現可能な完全特化パタンである。 労働のみが投入される経済では、ジョーンズの条件により特化パタンが定まるが、投入財が貿易される場合、比較優位の概念は定義ができない。ディアドルフは、いくつもの定義を与えているが、どれも完全なものではない。これは、きわめて不充分な理論状況である。イギリスの産業革命は綿花の輸入によって可能になったし、日本は、幕末開国以来、加工貿易が基本であった。マッケンジーは1956年の論文で、「特化に関する古典的扱いの基本的な誤謬は、... 中間財貿易を無視したことである」(同所、p.56)と指摘しているが、塩沢由典の研究に至るまで、大きな進展はなかった。が1961年は論文でこの問題に取り組んでいるが、投入係数がどの国でも同一の場合しか定式化できなかった。塩沢の貿易理論(国際価値論)は、多数国多数財で技術選択と中間財貿易が存在する場合にたいし、古典派価値論と同様の理論が成立することを示した。『リカード貿易問題の最終解決』は、2007年論文を概念的に整理し、正則領域における国際価値(各国の賃金率と世界共通の財の価格)が一義的に定まることを基本定理として示している。第4章では、リカードからポール・クルーグマンの新貿易論、の新々貿易論に至るまでの貿易論の歴史を詳しく解説している。比較優位に従って、分業が既述した様に進むと最終的にはいずれかの経済(国あるいは地域)が自身の比較劣位な財を全く生産しなくなるであろうことが導き出される。しかし、現実には、同種の財を互いに輸出・輸入し合う場合も見られる。これを産業内分業という。産業内分業は、ヨーロッパ諸国のような類似した国々の間で増大する傾向がみられる。産業内貿易に関する実証的研究は、バラッサにより始まり、グリューベル&ロイドによる1975年の本の出版により多くの経済学者が注目する事実となった。ポール・クルーグマンは、なぜ産業内貿易が起こるかについて、需要者の多様性選好と生産者の規模の経済(収穫逓増)とにより説明する理論を提起した。産業内貿易は、リカード型の比較優位(技術の違い)に基づく貿易とも、ヘクシャー・オリーン型(HOSモデル)の比較優位(要素賦存比率の違い)にもとづく貿易とも異なる論理によるものである。クルーグマンは、この理論を含む研究により2008年ノーベル経済学賞を受賞した。比較優位論は、当初は極めて限定的な前提(仮定ないし条件)のもとに立っていた。理論の進展とともに、限定的な前提がより一般的なものに置き換えられるが、その過程で当初の概念自体に修正が迫られることもある。また、リカードの比較生産費説の原理が成り立つには以下のような前提条件があり、このうちいずれかが欠けると「みんなの利益」にはならないとする指摘もある。比較優位は、全体で利益は向上するが、一部で仕事をあきらめるなどの犠牲を払う必要がある理論であるとする指摘がある。比較優位の考え方は、固定的に考えたり押しつければ強者の理論になるが、当事者が得意な分野を発見し、次の段階に発展していこうとすれば有効な理論にもなる二面性を持っているとされる。
出典:wikipedia
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