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巴富士俊英

巴富士 俊英(ともえふじ としひで、1971年1月27日 - )は、秋田県鹿角郡十和田町(現在の鹿角市)出身の元大相撲力士。九重部屋に所属していた。本名は黒澤 俊英(くろさわ としひで)。現役時代の体格は191cm、151kg。最高位は西張出小結(1992年7月場所)。得意手は左四つ、下手投げ。血液型はAB型。農家の次男として生まれ、中学生時代は柔道と相撲の両方で活躍した。中学相撲で全国大会決勝まで進み、後の三代目若乃花と対戦。禁じ手の鯖折りを仕掛けたため反則負けとなったものの準優勝という輝かしい実績を残し1986年、元横綱・北の富士が率いる九重部屋に千代の富士の内弟子として入門。同年5月場所において15歳で初土俵を踏んだ。部屋には“昭和の大横綱”と呼ばれた千代の富士と同じく横綱の北勝海という先輩がおり、この両横綱の胸を借りて力を付けた。自身が幕下に在位していた1989年9月場所から1990年5月場所にかけて、兄弟子・千代の富士の勧めで、度胸付けのために弓取りを務めたことがあった。かつて大相撲では「弓取り力士は大成しない」というジンクスがあったが、巴富士はその後関取になり小結まで昇進している。1990年7月、19歳の若さで新十両に昇進。弓取りは同年5月場所千秋楽が最後となった。1991年1月場所では同じく19歳で新入幕を果たし、10勝を挙げていきなり敢闘賞を受賞するなど、順調な成長を見せた(ただし、同場所以降、巴富士が三賞を受賞することはなかった)。同年9月場所初日に当時関脇であった貴花田と対戦した際には14本もの懸賞が設定された。この記録は初日の関脇以下対決としては長らく平成以降最多の設定数であり続け、後の2015年1月場所初日の遠藤-逸ノ城戦で21本を記録したことでようやく更新を見た。1992年から1993年の前半にかけては幕内上位まで番付を上げた。1992年7月場所では新小結に昇進したが、その場所の初日において大関・小錦に敗れた後、場所前から傷めていた腰痛が悪化したため、わずか1日出場しただけでその後は休場した。結果的にこれが最初で最後の三役を務めた場所となった。これ以降は、腰痛に悩んだ上に右膝も痛めるなど怪我が重なり、1993年からは番付を徐々に下げていった。同年9月場所を最後に幕内から遠ざかり、1995年5月場所を最後に十両からも陥落して、力士生活の晩年はずっと幕下以下の地位に甘んじた。特に力士の職業病とも言える糖尿病が悪化、大変な段階まで進行していたとされ、足が壊死する寸前まで追い込まれていたという。結局は関取の地位まで復帰することはできず、さらに1998年1月場所中に右肩を痛めたのも響き、東三段目85枚目まで番付を落として全休した1998年9月場所をもって、27歳の若さで引退した。色白で朴訥な風貌、192cm・153kgの大柄な体格で非常に優れた素質を持ち、実力の開花を周囲から大きく期待されていた。投げ技が得意で、特に藤島親方(のち二子山親方・元大関・貴ノ花)が「元横綱・輪島の下手投げに似ている」と評した下手投げの強さは絶品だった。土俵際での掬い投げも得意とし、1993年3月場所では新大関の貴ノ花相手に、土俵際からの掬い投げで逆転勝ちも収めている。しかし師匠らは「投げに頼らず、大きな体を生かして前に出る相撲を取るように」「あの投げが決まってしまうからいけない」と度々注意を促していた。大相撲には「下手投げは守りの型であるため、下手投げ力士は大成しない」という定説があるが、その通りで下半身の負傷が多いのが難点であった。北の富士の著書によると「私の知らないところで贅沢をしていた」などとも語られるような豪遊により、糖尿病を発症させたことも短命に終わった理由として挙がっている。かつて同じ学年の若乃花、そしてその弟・貴乃花という当時の大相撲の大スター兄弟と、一時期は互角に近い戦いを繰り広げたにもかかわらず、地元のファンを始めとする周囲の期待に十分応えることはできなかったのは非常に惜しまれる。引退に際して、年寄株を取得できなかったため、日本相撲協会に残れなかった。引退後は地元に戻り、起業。農機具販売会社社長としての毎日を送る。社名の『フジトレーディング』は自身の四股名ならびに千代の富士の「富士」に因んだ物である。大相撲では、土俵に上がった時と対戦を終えて土俵から降りる時にそれぞれ対戦相手に対して礼をするが、巴富士は幕内から陥落して以降の十両時代に1度だけ礼のやり直しをさせられたことがある。

出典:wikipedia

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