国鉄113系電車(こくてつ113けいでんしゃ)は、1963年に日本国有鉄道(国鉄)が開発した直流近郊形電車。本項では、113系の設計のベースとなった国鉄111系電車についても解説する。湘南電車(東海道本線東京地区普通列車)には1950年代末期から1960年代初頭にかけて80系と153系が使用されていた。しかし両形式は片開きの片側2ドア・デッキ付き構造でラッシュ時の客扱い能力に難があり、打開策として両開き片側3ドア・デッキなし構造の近郊形電車が投入されることになった。1960年に常磐線用に開発された交直流電車である401系とその姉妹車421系の直流専用型というべき位置付けで、主電動機として1時間定格出力100kWのMT46A形直巻電動機を搭載することも共通する。車体構造や座席配置についてもほぼ同様であり、詳細は同系列の概要を参照のこと。台車は、電動車用は401・421系用と同一のDT21B形であるが、付随車用台車はブレーキ頻度の高さを考慮して、401・421系に使用している踏面ブレーキ式のTR64形ではなくディスクブレーキ式のTR62形とされた。前面形状については、153系のうち1961年度以降製造されていた高運転台タイプと同じ構造とされた。前照灯は落成時点では大型タイプで、のちに前面強化工事と併施で小型のシールドビームに改造された車両もある。また、クハ111形のうち偶数向き(静岡・神戸方)に連結される車両は、床下に電動空気圧縮機 (CP) を搭載することから、300番台として区分されている。相前後して1時間定格出力120kWの強力型モーターMT54形が開発されたため、直流近郊形電車もこれを搭載した113系に移行し、111系の新規製造は1962年 - 1963年と短期間で終わっている。記載順は過去からの慣例に準じる。1962年に東海道本線用として大船電車区(現・鎌倉車両センター)と静岡運転所(現・静岡車両区)に導入され、秋には横須賀線にも進出した。この際には塗装変更はされず、東海道本線と同じ湘南色のまま前面に横須賀線のラインカラーであるスカ色のヘッドマーク形行先表示板が取付けられていた。登場当初の編成を以下に示す。基本編成中間に先頭車両(Tc)が組み込まれているが、これは新幹線が開通した際の編成短縮を見込んだためである。1974年以降、113系0'番台の投入によって大船所属車は広島運転所へ転出し、その後は東海道本線静岡地区と山陽本線広島・下関地区で集中使用された時期が長い。なお、111系と同じ時期に製造されたクハ111形の一部は、鳳電車区(のちに日根野電車区)に転配され、関西本線湊町(現在のJR難波) - 奈良間や阪和線、紀勢本線などで使用された。これらは国鉄末期から廃車が始まっていたが、国鉄最末期の1987年3月に四国地区(予讃本線高松 - 坂出、多度津 - 観音寺間と土讃本線多度津 - 琴平間)で電化が実施されるのに伴い、12両(モハ111/110-13・24・36, クハ111-6・11・28、303・317・323)が4両編成3本を組んで四国(高松運転所)に転用され、そのまま四国旅客鉄道(JR四国)に承継された。JR化後の1988年にJR四国用としてさらに日本国有鉄道清算事業団が保有していた8両(モハ111/110-3・4, クハ111-2・10・27・29)の車籍が復活したが、この時に車籍編入されたクハ111形は上り向き用の0番台ばかりであったため、同年2両(10・11)が下り向きに方向転換改造されてクハ111形3000番台(3001・3002)となった。四国の111系は使用開始にあたり塗装が独自のもの(四国色)に変更され、本四備讃線用の無線アンテナが設置された。またクハ111形のトイレは撤去(クハ111-27・29だけはトイレを撤去していない)され、モハ110形には2両分しかホームがなかった無人駅で車掌が集札を行うために車掌用設備(放送装置や車掌スイッチなど)がある業務用スペースを設置した。新製導入された121系と同様に全車禁煙としたため全車両とも灰皿は撤去された。さらに1988年から翌1989年にかけて集約分散形AU101形を用いた冷房化改造が実施され、あわせて電源装置が電動発電機 (MG) から静止形インバータ (SIV) に変更された。一部、窓サッシの交換や前照灯のシールドビーム化がなされた車両も存在する。瀬戸大橋線開業直後は岡山 - 高松間の臨時快速にも使用されたが、おもに瀬戸大橋線岡山 - 観音寺間と、ラッシュ時の高松 - 観音寺・琴平間の列車に使用されたほか、団体専用列車にも使用された。先述のように各部に改造がなされていたが、老朽化のために1996年から2001年3月にかけて6000系や後述の113系改造車(→#JR四国)に置換えられ、全車が廃車となった。なお、111系として落成し、西日本旅客鉄道(JR西日本)に継承されたクハ111-314は後述の高速化改造施工によりクハ111-5314に改番のうえ、2006年5月まで在籍していた。現在、旧静岡地区所属車のクハ111-1がリニア・鉄道館、モハ111/110-1が東海旅客鉄道浜松工場に、旧四国地区所属車のクハ111-3002が四国旅客鉄道多度津工場にそれぞれ保存されていたが、モハユニットに関しては、すでに解体されているものと思われる。保存車はいずれも湘南色 である。1962年(昭和37年)に先行開発された上記の111系をもとに、120kWに出力が強化され新たに標準化されたMT54形主電動機を用いた形式。これにともない主制御器、主抵抗器なども容量が増大された。1963年から1982年にかけて約2,943両(サロ124・125形を含めると2977両)が製造され、おもに本州内の平坦で温暖な地域の路線で広く普通列車から快速列車に用いられた。関連系列として、寒冷・急勾配路線用に並行製造された115系があるが、これと比較して、平坦線用のため抑速ブレーキやノッチ戻し制御は装備しない。JR移行に際しては、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・西日本旅客鉄道(JR西日本)の3社に引き継がれ、主に東海道本線や山陽本線系統など平坦路線の普通・快速列車に運用されたが、後継形式への置き換えによって2007年にJR東海で、2011年にJR東日本で運用を終了した。2016年4月時点ではJR西日本に140両とJR四国(JR東日本から一部車両が譲渡された)に12両の合計152両が在籍し、主に普通列車に運用されている。113系の形式における新造車および改造車は以下のとおりである。なお、順番は過去からの慣例に準じる。ここでは、113系の新造時から存在する形式を紹介する。製造区分によって違いがあるが、この点は下記の#新規製造車詳説を参照されたい。ここでは、113系が改造された時に発生した形式を紹介する。ここでは、新規に製造された113系の番台区分を地上線向けと地下線向けに分けて解説する。改造車両の番台区分については次節を参照のこと。1963年(サハ111形のみ1969年)から製造された、113系最初の製造区分。当初は東海道本線東京地区および横須賀線に投入され、1964年には京阪神地区にも投入が始まった。横須賀線の0番台車については東京駅および新橋駅の地下ホーム乗入れにともなう難燃化対策の必要から、1970年代以降すべて後述の1000'番台に置換えられている。構造上は111系のモーター出力を増強したのみで、外観的にはほとんど変化はなく、相互に連結も可能である。特に付随車および制御車については111系とほぼ同一構造で、形式および番号も111系の続番とされている。ただし、性能と無関係に、クハ111形の雨樋が乗務員室扉上まで延長されており、識別点となっている。設計上の母体となった401・421系および403・423系とともに、屋上のベンチレーター(通風器)の形状、配置が数回にわたって改良されている。大きな変化としては、1964年からクハ111形の運転台部分に乗務員への通風用の四角形の大型通風器が設置されるようになり、1968年からは雪対策として丸型(グローブ型)だった客室用通風器が、吸気調節のできる押込型に変更された。よって、サハ111形はすべて押込型での製造となっている。1967年製造のモハ113-203は、当時便所・化粧室ユニットとして実用化されつつあったFRPを屋根構体に試用して製造された。試用の結果、耐候性の点でFRPを構体に使用するには問題があることから試作のみにとどまっている。1970年に冷房試験車が京阪神地区に投入されている。103系に用意された冷房試験車と同様、AU73X、AU74X、AU75Xの3種の冷房装置と各種の風道方式が試験されたが、103系が試験用に新造された車両であったのに対し、113系は既存車の改造で賄われた。試験の結果は良好で、国鉄時代は一部車両に対しほぼそのままの様式で冷房改造が進められた(→#冷房改造)。1970年から1973年の間、1000番台の製造が重点的に行われたため、0番台の製造は中断した。1974年に再開されたが、これ以降製造された車両は車体構造が後述の1000'番台の影響を受けた、窓別組立・後取付け(ユニット窓)で製造時からの冷房搭載車(新製冷房車)となり、前照灯も製造時からシールドビーム となった。車輌番号は以前の車両の続番でモハユニット-233、クハ111-194・505、サハ111-5以降が付されたが、それらとは各部で形態が異なっていることから、非公式の呼称ではあるが「0'番台」と区別されることが多いため、本稿でもその呼称を使用する。なお、0'番台に相当する0番台のサハ111形は-5の1両のみであった。0’番台は首都圏と京阪神地区には大量に新製配置されたが、名古屋地区への新製配置はない。各地で長きにわたって使用されており、老朽化により廃車が進行している中で1969年以前の車両でも未だに運用されているものも存在する。JR東日本、JR西日本に承継された0'番台には延命目的で大規模なリニューアル改造(→#体質改善車)も実施された車両も存在したが、余命を考慮して2007年をもって新規施工は終了している。湖西線用に1974年から1976年に製造された寒冷地向け仕様のグループである。0'番台の車体をベースとするが、湖西地区が多雪地帯であるため、客用扉の半自動(手動で開閉)対応化、前面タイフォンへのシャッター設置、スノープラウ設置といった耐寒耐雪構造であり、いわば115系300番台から勾配抑速ブレーキを取り除いた仕様であるといえる。暖地仕様車のクハ111形300番台に相当するCP付きの西(偶数)向き制御車は「クハ111形750番台」と区分されている。2M2Tの4両、4M2Tの6両に編成された84両が製造されたが、短編成のためサハ111形は製造されていない。新製時の配置は高槻電車区(現:網干総合車両所明石支所高槻派出所)で、国鉄末期の同区の無配置化に伴い宮原電車区(現:網干総合車両所宮原支所)に転属、国鉄分割民営化時には全車がJR西日本に承継された。JR発足後に吹田総合車両所京都支所(旧:向日町運転区 → 京都総合運転所)に転属している。1991年からは後述の高速化改造が施工され、全車が番号に5000を加えた「5700番台」となり、一部は半自動扉の電動スイッチ化や体質改善工事も受けている。ただし、2007年以降の新規施工は中止されている。登場以来、湖西線とその後電化された草津線で運用されているが、京都支所への転出後は山陰本線京都口(嵯峨野線)でも運用されている。嵯峨野線用は方向幕がLED化され電気連結器を持つ「C編成」、湖西・草津線用は電気連結器を持たない「L編成」と運用が分かれている。このグループの中から、2003年電化開業の小浜線用として半自動開閉扉ボタン取付や座席改造が行われた2本が福知山運転所電車センター(現:福知山電車区)に転属したが、2006年の北陸線敦賀直流化に伴う125系増備により京都支所に復帰している。また、2005年に福知山線で発生した脱線事故による117系の同線からの撤退を受け、補充用として宮原総合運転所に転用された車両も存在する。現在は電動車ユニット1組 (5768) が該当。2008年から221系の山陰本線京都口(嵯峨野線)転用に伴い、一部の車両が広島地区への転用が開始されている。転用車の中には高速化の解除が行われ、原番号に復帰した車両も存在する。1978年から製造(サハ111形は1980年から)された地上温暖地向仕様の番台区分で、0番台の直系にあたるグループである。クロスシート部の座席間隔(シートピッチ)の拡大(1,420mm → 1,490mm)・座席幅の拡大(880mm → 965mm)、形状変更とこれに伴う窓の割付の変更、座席定員の減少などがなされたため、番号が区分された。CP付きの西(偶数)向き先頭車(クハ111形2000番台)は全車トイレ付きだが、CPなしの東(奇数)向き先頭車(クハ111形2100番台)は2145までがトイレなし、2146以降はトイレ付きと製造途中に仕様変更が行われたのが特徴である。後期に製造された車両は屋根上冷房装置横のランボード(歩み板)などの構造が当時製造されていた201系量産車に準じたものとなっている。サハ111形2000番台のうち、2001 - 2007・2009 - 2012・2025は1983年から2000年に大船電車区(現在の鎌倉車両センター)と幕張電車区(現在の幕張車両センター)に配置され、1000'番台に連結されて横須賀・総武快速線で使用されていた。1000'番台・1500番台との主たる相違点はジャンパ栓だけであり、0'番台以降、車両の耐火基準は地下用のA-A基準に沿って製造されているので、地下線区間走行に問題はなかった。第一陣は80系の置き換え用として大垣電車区に、その後同じ1978年に高槻電車区、宮原電車区に投入された。関東地区においては1980年、国府津電車区への配属が最初である。現在、東海道本線からは撤退したが、比較的新しい本グループは他番台置き換えなどで温存される例が多く、近年までJR東日本・東海・西日本に多数在籍していた。例えば、国府津車両センターから幕張車両センターへの転属車は一部の先頭車を除いてすべて2000番台が対象であった。しかし、状態の悪い老朽車や短編成で必要のないサハ111形については順次廃車・解体が進んでいる。またJR東海所有の車両は313系3次車の投入に伴い、2006年8月から2007年3月にかけて急速に廃車が行われ、定期運用が消滅している。また、京都総合運転所「C編成」に組成されておもに山陰本線京都口(嵯峨野線)で使用されている車両は、特に番号区分などは行われないまま寒冷地対策でスイッチ式半自動扉への改造が行われている。これらは方向幕のLED化も行われている。草津線電化用に700番台の増備として一般向け2000番台仕様に寒冷地対策が追加された1980年製造のグループである。このグループも、115系2000番台から勾配抑速ブレーキを取り除いた仕様といえる。700番台同様、サハ111形の製造はない。4M2Tの6両編成2本と非常に数が少なく、1983年から1984年にかけて4両編成に組み直された際に不足した先頭車は後述のクハ111形2000番台からの改造編入で賄われている。草津線電化開業時から湖西線用700番台と共通運用されてきた。全車がJR西日本に承継され、現在は全車が高速化改造されて番号に5000を加えた「7700番台」となり、体質改善工事を受けている。その後も湖西・草津線で運用されてきた。JR西日本では後述のとおり2002年から2003年にかけて追加で改造車が誕生している。横須賀線・総武快速線の地下区間(錦糸町 - 品川間、1972年錦糸町 - 東京間開業、1976年東京 - 品川間延伸)直通を目的に、1969年から製造された地下区間乗入対応車両グループである。0番台を基本に、運輸省(→国土交通省)制定のA-A基準に対応した難燃構造が採用された。CP付きの西(偶数)向き制御車は、基本番号+300の「クハ111形1300番台」と区分されている。パッキン材などごく一部の部品に使用されていた木材はすべて廃され、窓やカーテン、床板、腰掛などの材料も難燃性・不燃性材料に変更されたほか、火災発生源となりうる抵抗器などの一部機器・回路に発火防止対策がなされている。また、1972年以降に落成した先頭車(クハ111-1017 - 1025・1332 - 1339)は前照灯がシールドビームに変更されるとともに、片わたり(方向転換不能)とされ、主制御器もメンテナンスフリー化を図ったCS12Gに変更された。しかし、開業間近の時期に地下区間の保安装置としてATCを導入することにされたため、ATC装置を搭載し、あわせて冷房装置搭載(当初一部は準備)など各部に大幅改良がなされた車両が1972年4月以降に新たに製造されることになった。この変更のため、従来の1000番台車両は専ら房総地区(総武本線・成田線・鹿島線・外房線・東金線・内房線)ローカル列車や0番台とともに東海道本線東京口で使用されることとなった。特に、サハ111形については東海道本線東京口に転用されたことから、0'番台での増備が1両にとどまることになった。このグループは「地上用1000番台」と通称されることもある。新たに製造された車輌は先頭車の助士席後部にATC装置が搭載(一部は準備構造)され(したがって、助士席部分の折りたたみ構造は廃止された)、運転士側も後方に拡大されて急行形電車並みの広い構造に、従来車では前照灯と幌枠の間にあったタイフォン(警笛)が下方に移設され、ジャンパ栓がKE70形とされたほか、全車とも側面窓上に行先表示器が設置され、側窓は別組立・後取付けの「ユニット窓構造」となって大きく外観が変化した。車両番号は従来車に続いて、モハユニット-1055、クハ111-1026・1340、サハ111-1020以降が付番されているものの、従来の非ATC車両との区別のために、非公式の呼称ではあるが「1000'番台」と区別されることが多く、本項目でもこの呼称を使用する。また、トイレは設置位置、数は0番台や1000番台従来車と変化ないが、地下線の清浄化と保線作業者の影響を考慮して、循環式汚物処理装置が設置された(横須賀線向けに投入された車両は当初準備工事のみで後に設置)。また、主電動機もISO規格ネジを採用してメンテナンスフリー化を図ったMT54Dに変更された。後期の製造車は落成時から冷房装置を搭載した「新製冷房車」となり、MG容量は冷房・制御電源が一体化されて160kVAとなった。容量の増大にともない、搭載するモハ112形は側面中央扉の戸袋窓部分にMG冷却用冷却風取入口が設けられている。先述したが、この車体構造は以降の地上用の新製冷房車(0'番台)や700番台でも採用されたほか、115系300番台および415系0'番台でも採用されている。ただし、クハ111-1106・1419以前の車両は115系300番台以降の車両と異なり前面強化構造とはなっておらず、後年、前面強化工事が強固に推進されることとなる。地上用となった従来車についてはのちに前照灯がシールドビーム化された車両もあるが、タイフォンが他番台と同じ前照灯と幌枠の間の配置となっているほか、窓構造や、ATCの装備がなされていないために先頭車両の助士席後部の窓配置も異なっているなど、1000'番台との差異は現在も大きい。冷房装置も、国鉄時代には1000'番台と同じAU75系が搭載されたが、民営化後にはJR東日本開発の集約分散式冷房装置AU712形2基/両を搭載した車両も存在する。中には冷房が搭載されず、非冷房のまま廃車となった車両も存在する。国鉄時代にごく少数の初期非ATC車が中京圏・近畿圏に転用された他は、当初の配置区所で使用され続けた。よって、国鉄の分割・民営化時にはほとんどがJR東日本に承継されている。その後も長きにわたって横須賀・総武快速線および房総地区ローカル列車の主力車両として使用され、初期非ATC車を中心に更新工事、後期ATC車を中心にリニューアル工事も施工されたが、横須賀線・総武快速線では1999年にE217系への置き換えによって撤退する。一部の車両は小山電車区(現在の小山車両センター)に転出し、湘南色(塗り分けは115系と同様)に変更のうえ、E231系投入まで限定運用で使用された。房総地区でも2004年10月から状態の良い元東海道本線運用車(0'番台、2000番台)、2006年10月からはE231系の投入で余剰となった211系3000番台の転入があり、リニューアル車以外はほぼ消滅状態となっている。このグループのサハ111形は、2005年に東海道線で更新工事施工のうえ使用されていた1両 (1015) が廃車されたのを最後に、形式消滅した。また、中京圏・近畿圏からJR東海・西日本に承継された車両も、阪和線で使用されていた1両(クハ111-6310・高速化工事で+元番号5000)が2004年に廃車となり、消滅している。なお、横須賀・総武快速線からの撤退時には廃車となるゾロ目番号のクハ111-1111を含む編成が1999年(平成11年)11月11日にイベント列車として使用された。また、ATC付きの1000'番台は横須賀・総武快速線が禁煙区間とされたために灰皿は製造時から設置されていなかったが、ATC非搭載の1000番台では設置されていたため、房総地区では1997年3月のJR東日本管内普通列車全面禁煙化まで列車によって禁煙であったり喫煙可能であったりする現象が続いた。1000番台の改良増備型として、2000番台の車体構造を取り入れて1979年から製造されたグループである。国鉄の分割・民営化時には全車がJR東日本に承継された。CP付きの西(偶数)向き制御車は、基本番号+100の「クハ111形1600番台」と区分されている。また、6両製造された東(奇数)向き制御車のうち、1504までがトイレなし、1505と1506はトイレ付きと製造途中で変更がある。他の番台と比べ、前照灯とタイフォンが若干高い場所に設置されているのが本番台先頭車の特徴である。全車が大船電車区・幕張電車区に新製配置され、横須賀・総武快速線で使用された。E217系投入後は、房総地区ローカル用に多くの車両が幕張電車区配置となったほか、一部は車両需給の都合から国府津電車区に転出し東海道本線東京口で使用された。サハ111形は1両(1501 廃車)を除き国府津電車区に転出し、老朽化したサハを置き換えている。サハ111形は国府津車両センター(2004年に改称)へのE231系投入に伴い転用先がなく全車廃車となり形式消滅しているほか、国府津に転用された1500番台は幕張車両センター(2004年に改称)に再転属されることなく全車廃車となった。幕張車両センターに配置されている1500番台はほとんどの車両に対してリニューアル工事が施工された。しかし、モハ113・モハ112-1517・1520は未施工であったが、モハ112-1517については補助電源装置と空気圧縮機をリニューアル施工車と同一品に交換している。クハ111形1500番台(1600番台)については、最後の2両(クハ111-1504・クハ111-1602)が幕張車両センターS224編成の両先頭車に組成されていたが、2011年8月30日に長野総合車両センターへ回送された。本系列は、長きにわたり大量に製造されたほか、JR各社へ移行後も使用されていることから、地域や時代のニーズに合わせた改造工事が多数施されている。1960年代に製造された車両は1980年以降老朽化が進み置き換えの対象になったが、当時の国鉄の財政では新造車両への置き換えは困難だったため、製造から15 - 16年経過した車両に対して全般検査2回分の延命を図る延命工事を施工した。これが特別保全工事である。おもな施工項目はこのほか、施行工場によっては、引戸の取替や内装更新(化粧板、シートモケットの配色交換)、塗屋根化なども追加で実施したほか、冷房改造や汚物処理装置取り付けも併せて行った車両も存在した。民営化後も引き続き各社で行われたが、後述の延命工事に切り替えたため、施行車両は少ない。なおJR東海では平成に入ってから、施行の際に化粧板が211系同様のものに取り替えられた車両も存在した。0番台の項で触れたが、1970年に試作冷房編成が京阪神地区に投入された。改造されたのはサロ112形を含む以下の1編成8両である。冷房装置はクハ111-360とモハ112-15が東芝製AU73X形、モハ112-55とクハ111-369が日立製作所製AU74X形、クハ111-52とモハ113-15・55が三菱電機製AU75X形と集中式3種類が車体・台枠を補強のうえで搭載され、車内の意匠も冷房風道や吹き出し口の配置、扇風機の有無も数種類が存在した。冷房用電源装置は、製作期間の関係から急行用の110kVAのMGを流用しクハ111形に搭載した。一方、サロ112-14は同系の車体を持つ165系サロ165形、455系サロ455形と同様の分散式AU13E形が搭載されたが、それらが5基搭載だったのに対して6基搭載とされた。宮原電車区に配備されたサロ112-3についても同様の改造が行われた。※クハ111-810は2005年、クモハ113-3813と3819は2008年に廃車され、現在は415系800番台に改造された4両が残る。試作冷房車の使用実績から、冷房装置は小型軽量化の点で勝るAU75X形が標準機種として選定され、扇風機が無いクハ111-52の方式を基本としたAU75系が上記3社の手で量産が開始された。この時の対象車は試作冷房改造車に続いて関西地区の配属車が選ばれ、当時113系で運転されていた新快速運用で並行私鉄(阪急・京阪など)との対抗に利用された。このグループも試作冷房改造車同様、クハにMGが設置されている。また、冷房装置本体が後位寄りに設置されている。1973年以降、同年製造の1000'番台に準じて、冷房電源はモハ112形のMGを20kVAから冷房電源兼用の160kVAに交換して、自車を含む4両に給電する方式に変更された。また、同時に一部の車両(初期改造車)を除いて側面行先表示器の準備工事が施工され、競合する直下の窓は上段が固定化された。国鉄時代の1984年2月のダイヤ改正で、奇数向き先頭車が不足するため、網干電車区配置の偶数向きクハ8両が方転改造された。このうちクハ111-263(旧357)と-264(旧367)は方転前に幕張電車区に転属し、正確には幕張区転属後に方転されている。この2両のみ非冷房で、1994年までに冷房改造されることなく廃車された。265 - 268は冷房改造車の方転、-269と-270は方転後にAU75による冷房改造がされた。JR化後には-268以外は後述の高速化対応工事が施工され+5000となった。JR西日本になってからの1991年には上記と同様の理由で、同じ網干電車区配置の偶数向きクハ3両が方転改造された。-276と-278はWAU102形冷房改造車、277はAU75冷房改造車の方転であり、すべて後述の高速化対応工事が施工され+5000となったが、国鉄時代に改造された車両も含め現在はすべて廃車されている。クハ111形は前述のとおり、非冷房車は除き奇数向き (Tc) ・偶数向き (Tc1) ともに両渡り構造のため、静岡地区では国鉄末期 - JR初期に伴い改番を伴わない方転改造車が存在した。これらは211系投入により非冷房、奇数向きのまま廃車された。1984年2月のダイヤ改正で、当時高槻電車区の700番台、2700番台が短編成化により先頭車が不足するため、同じ高槻電車区配置のクハ111-2000番台8両が改造された。付番は新製車の追番。改造内容は側引戸の半自動化とシャッター付タイフォンカバーの取付(新製車とは異形状)と予備笛の追加である。JR化後に全車体質改善工事を受けている。またJR西日本でも中間車を含め追加改造車が誕生している。房総各線で運用している6両編成の一部を4両編成とするために先頭車を捻出する必要があったのと、クハ111-1307およびモハ112-1027の事故廃車補充および伊東線用の4+7編成1本を11両編成1本に組み替えるために、1984年と1985年にダイヤ改正で余剰となるサハ115形300番台4両を改造して登場した番台区分である。外観は115系時代と全く変わらず、115系の特徴である半自動扉対応の取手などもそのままであった。このため、当番台の側扉開口幅は他車より狭い1,100mmとなっている。301 - 304が改造され、全車が国府津電車区(→国府津車両センター)に配置された。これにより同区のサハ111-2000台3両が大船電車区(→鎌倉車両センター)に転属し同区の編成中間のクハを捻出した。東海道本線東京口基本編成で運用されたが、横須賀・総武快速線へのE217系投入による同線からの1000・1500・2000番台の転入に伴い、1995年から1999年にかけて全車が廃車された。この中で302と303がトイレ対向部を除いてロングシート化改造を受けていた。サハ111形300番台と同じ理由で1986年と1988年にモハ113・112形を電装解除して登場した番台区分で、401 - 404が存在し、奇数号車がモハ113形(273・1058)、偶数号車がモハ112形(273・1058)からの改造車である。サハ111形0・1000番台との相違点は電動車からの改造のため、車体妻面の主電動機への冷却風取入口が存置されている他、モハ112形からの改造車は電動発電機冷却風取入口の存置やパンタグラフを撤去した跡が残っているなどの特徴があった。403・404は、種車のモハ113・112-1058が冷房準備車だったために扇風機のスイッチ跡が残っていた。前述のサハ111形300番台と同様に東海道本線東京口で運用され、のちに403は全座席ロングシートに改造された。403以外は1998年に、403も2000年に廃車された。脱線事故によりユニットの片方を失ったモハ113-1027を1983年に制御車に改造して登場した番台区分で、種車の前位に運転台を、後位にトイレを設置して奇数向き固定使用とされた。改造を施工した大井工場にクレーンが無かったため、運転台ブロック接合方式ではなく、台枠を切らずに運転台を構築する方法で改造されている。-1201の1両が存在し、幕張電車区(現在の幕張車両センター)に所属して房総地区ローカル列車で運用していたが、2001年に廃車されている。1986年に福知山線宝塚 - 福知山間および山陰本線福知山 - 城崎(現在の城崎温泉)間の電化開業に伴い、国鉄が大船・吹田・鷹取・小倉の各工場と広島車両所・幡生車両所(名称はいずれも当時のもの)で0番台に対してドアの半自動化(手動)など、700番台に準じた寒冷地対策を施工したグループである。この時期には国鉄の財政事情も厳しくなってきており、各地から集めた余剰車を改造することとなった。800番台を名乗るが、パンタグラフ取り付け部低屋根化改造は行われていない。国鉄時代には4両編成9本と2両編成14本の64両が改造された。2両編成はモハユニットに対して運転台を増設することで賄われている(#改造形式を参照)ほか、一部は冷房改造が併施された。種車は大部分がグローブ型ベンチレーターを持つ最初期に製造された車両で、それらは寒冷地には不向きであったが、冬季の雪や冷風の吸い込みを抑えるためのカバー取り付け(車両前後方向の吸気口が塞がれ、開口面積が半分程度にされた)が行われたのみで使用された。また、種車の関係で非冷房車の率が比較的高く、冷房搭載が行われた車両も電源用MGは廃車となった食堂車から調達されている (70kVA) など、コスト削減の跡が伺える。クハ111形の前面形状もバラバラであった。なお、非冷房で残された車両は後の分割民営化後に様々な方法で冷房改造され、車両毎の形態差がさらに複雑化することになる(#簡易冷房改造車を参照)。戸閉機械も本来半自動用でないTK4形の改造品を搭載しているため、700番台など当初からの半自動対応車よりも開閉し難くなったことから、客用扉の取っ手は持ちやすいよう従来より大型の物が設置された(同様の工事を受けた103系仙石線用改造車や105系可部線用改造車に倣っている)。2両編成のクモハ112形にはトイレが新設され、汚物処理装置が全車に装備されたが、電動車で床下にスペースが無かったことから、水タンクは車内トイレ脇に設置された。元番号とは関係なく、改造順に801 - の番号が付された。クハ111形は他番台のような向きによる番台区分はされず、CP無しの東(奇数)向き先頭車は奇数番号、CP付きの西(偶数)向き制御車は偶数番号とされた。福知山運転所に配置され、4両編成の一部は改造後、車両不足を補うため日根野電車区に貸出され紀勢本線を中心に運用されたこともある。全車JR西日本に承継された。のちにJR西日本では七尾線電化関連で追加改造が行われている(#七尾線電化関連を参照)。国鉄から大量に継承したが、新形式の投入に伴い現在は全車両が定期運用を退いている。国鉄時代、非冷房車は新造車と同じAU75系冷房装置によって冷房改造されていたが、非冷房車は冷房搭載を前提とした設計ではなかったため搭載には構体の補強および電源用三相交流引き通し増設の工事が伴い、多額の費用と時間を要していた。113系では幕張電車区に所属していた房総ローカル用の車両には大量の非冷房車が残っており、対応が急がれていた。1000'番台冷房準備車はAU75による冷房改造を実施したが、初期車については1988年以降、屋根上に複数の冷房装置を搭載し、重量を分散することで補強を不要とする集約分散式冷房装置を使用しての冷房改造に移行した。最初に施行された3両(クハ111-1007・モハ113/112-1014)は、AU75形冷房車との混結となるため冷房電源はモハ112形のMG交換による容量増強で対応していたが、その他の車両は編成単位で改造が行われたため、工期・費用をさらに削減するために屋上別取付のSC24形補助電源装置 (SIV) も同時に取付けたタイプで登場した。多くの車両は車両更新工事と同時に行われたが、一部の車両は車両更新工事または特別保全工事施行後に別途冷房改造が行われた。1992年に対象車両の改造が完了したが、これらの車両は元々車齢が高い上にAU712形の冷却能力が低いのが欠点であり、特別保全工事車は1996年以降E217系の投入により早期に廃車され、その他の車両も2004年以降国府津区にE231系が投入されたことにより捻出された状態の良い113系で置き換えられ、2006年中に全車廃車となった。1989年から1992年にかけて、混雑の激しい東海道本線と横須賀・総武快速線の一部車両において、クハ・サハ111形のトイレ対向部以外の座席をすべて撤去し、ロングシートに交換された。これにより床面積が大幅に増加し、輸送力が向上した。新設された座席は211系や415系のロングシート車に準じたバケット構造(座席に体形にあった定員分の凹みを設け、より快適な着座感を期待するほか定員着席を誘導する構造)とされ、サービス維持と着席定員低下防止が図られた。改造時に車両更新を併施した車両も存在したが、シートピッチ拡大車は改造の対象からは除外された。両線で対象とする号車が異なり、東海道本線の田町電車区(のちの田町車両センター、現在の東京総合車両センター田町センター)では11両編成中の普通車9両(7編成で計63両)が、横須賀・総武快速線の大船電車区(現在の鎌倉車両センター)では11両編成中のグリーン車前後各2両の4両(11編成で計44両)が改造された。なお、田町所属編成はのちに国府津電車区(現在の国府津車両センター)へ転属している。E217系の増備により、大船電車区所属車のうち状態の良い車両更新車は国府津電車区に転じたほか、モハ113/112-1125、-1127は小山電車区に転属し、E231系投入まで使用されその後廃車された。国府津電車区でも廃車や編成替えによって徐々にロングシート統一編成が崩れていったが、追加改造はなされなかった。これらは他線転用の対象にもならず、本系列が東海道本線から撤退した2006年に消滅した。異常時の対応や車両故障時の応急処置など、乗務員のための巡回訓練用車両としてモハ113形(#新造形式を参照)から改造された職用車。車内は後位側半分の座席が撤去されてミーティング用スペースと視聴覚教育用のAV機器が設置された。車外は側面に訓練車であることを示す白帯2本と「訓練車」の文字が追加された。当初、1991年に0番台モハ113-68がモヤ113-1に改造されたが、1995年に同じく0番台で、経年の浅いモハ113-192改造のモヤ113-2と交代で廃車された。モヤ113-2は2005年まで使用されたが廃車され、形式消滅している。1992年に113系のクハ111-1038が成田線で踏切事故に遭い、乗務していた運転士が変形した運転台に挟まれて殉職した。JR東日本はこの事故を受け、衝突からの乗務員保護のために先頭部にステンレス板(一部鉄板の例もあり)を追加する工事を積極的に進めた。この種の工事は国鉄時代から行われていたが、同事故以降はより耐性を高めるため、それ以前や他のJRよりも徹底した、独自のメニューに移行した。下部のアンチクライマー(板状の物体)は1枚から4枚(ジャンパ連結器収め部分は2枚)に増強され、窓下の手すりは撤去されて衝撃吸収板が設置された。本来、アンチクライマーは正面衝突時に噛み合うことで他車への乗り上げを防ぐものであるが、ここでは障害物に対するバンパー的意味合いが強い。年内にすべての非施行車を強化するため、工場だけでなく各電車区でも工事が行われた。このうち横須賀・総武快速線の大船電車区と幕張電車区(いずれも現在の鎌倉車両センターと幕張車両センター)の両区での施行車には、塗装を省略してステンレス地に帯テープを貼付されたのみで出場した車両も存在したが、次の工場入場時に塗装が行われ、短期間で消滅している。なお、前照灯が白熱電球であった車両は改造と同時にシールドビームへの交換が行われたため、工事の完了によって副次的に白熱電球装備車も消滅している。JR東日本では発足当初、国鉄時代から行われていた特別保全工事によって車両延命を行ってきたが、その特別保全工事に代わる、より一層徹底した施工内容による延命工事で、施工当初は1967年 - 1972年製の車両を対象に1988年から1993年まで実施されたが、のちに1972年以降に製造された車両も追加された。113系では幕張区の0, 1000番台初期車、幕張・大船区の1000'番台の一部、東海道本線で使用されるサハ111-1000番台が中心に施行され、のちに国府津区の113系0'番台も一部施行された。おもな施工項目はこれらは多くの工場が担当しており、化粧板の柄や腰掛モケットが微妙に異なるなど、いくつか仕様に差異が見られ、大井工場施工車の一部には袖仕切が設置されている。1994年にE217系が登場すると車両更新工事は中止され、置き換えが進んだ。1999年より、幕張電車区(現幕張車両センター)配置の1000'番台後期車・1500番台を対象にリニューアル工事が行われた。内容は、コンプレッサーをレシプロ式からスクリュー式へ交換、座席の交換および車椅子スペースの設置、台車の軸箱の密封コロ軸受への改造、補助電源装置のMGからSIVへの交換などが挙げられる。編成番号は、4両編成はS221 - S225、6両編成はS61 - 71が与えられた。これらの編成では、後年に列車番号表示機がLED化されているのも特徴である。なお、モハ112-1252と1517はリニューアル工事は施工されていないが、補助電源装置やコンプレッサーが変更されている。幕張区の車両のみではクハ111が不足するため、以前から配置されていた0'番台先頭車 (-231, -249) もリニューアルが施行された。この他に、廃車対象ながら状態の良かった小山電車区所属(旧大船電車区所属)の-1138, -1455の2両を転属させた他、幕張区の1000'番台車両更新車と国府津電車区の未更新車 (-244, -552, -1602, -2146) との交換が行われた。-2146は2000番台として唯一リニューアル工事が施工された車両である。リニューアル工事は2001年まで実施された。1988年、国府津電車区所属のクハ111-173が方転改造(偶数方)され幕張電車区に配属された。1991年にさらにクハ111-183が改造、1992年にはクハ111-200が改造。予備車として国府津電車区所属のクハ111型ATS-P型取り付けによる代走を務め1993年に幕張電車区に転属。このグループでは-576が早期に廃車になったが、-569は訓練車として国府津区に復帰し2005年まで活躍。-575は幕張区で訓練車扱いで2006年まで活躍。一時的に営業車として運用に入ったこともある。1988年、房総地区の短編成化および列車増発に備え、JR東日本ではクハ115形からの改造編入(271 - 275・570 - 574)を行った。サハ111形300番台と同じく扉の半自動扱いのための取手などもそのままであった。これらの車両は車両更新工事や冷房改造が施行されることなく1994年までに全車廃車となった。1996年ごろから横須賀・総武快速線および東海道線で運用されているクハ111、サハ111のトイレ部分のみ方向幕が使用停止になった。これはトイレ部分の方向幕の盗難やいたずらが頻繁に起こったためである。施行後は幕部分は白、またはオレンジの紙が貼られ、機器裏蓋部分は残したものとステンレスの塞ぎ金物を詰めたものがあった。なお、対象車が房総ローカルに転用された場合は、方向幕は復元されている。後継形式の投入に伴い、2007年度中に全車廃車された。1988年3月改正で名古屋地区のフリークエントサービス充実化ため、短編成化で列車の増発を図ることになった。このため神領電車区(現在の神領車両区)、大垣電車区(現在の大垣車両区)に配置されている113系2000番台6両編成を3両編成×2本に改造する工事が1987年から1989年まで行われた。転用にあたり、以下のように編成替えが行われた。3両での走行のため、モハ113形は奇数向きに運転台が設置され、クモハ113形2000番台に改造された。種車はすべて2000番台であるが、車両番号は改造順に2001から振られた。設置された運転台は既存の2000番台先頭車に準じて新造されたものであるが、接合部に干渉した運転台直後の窓は設置されていないため、側面の印象はATC搭載車に近い。助手席側のワイパーは空気式ではなく手動式となった。上記の改造により偶数向きクハが不足するため、奇数向きクハから8両が改造された("この書体"のクハ111が8両)。種車にはCPが設置されておらず、方転改造時も編成内所要数の関係でCP設置が省略されたため、新区分番台「クハ111形2200番台」として区別された。改造内容は車間渡りの変更のみ。種車の大半はトイレ無しだったが、トイレの設置は見送られた。なおクハ111-2165のみトイレ付きで汚物処理装置も装備していたため、改造後もそのままトイレは使用可能となった。車両番号は改造順に2201から振られた。改造工事の最中の1988年夏に211系が投入されたことにより、一部は東海道本線静岡地区への転用が開始され、1989年3月時点では静岡運転所(現在の静岡車両区)と大垣電車区に8編成ずつが配置された。1990年3月には大垣電車区に311系が投入されたのに伴い大垣の8編成が静岡に移動し、以後全車が静岡地区での運用となった。当初はトイレの有無により運用が分けられており、トイレ付き車は大垣駅や米原駅までの長距離運用にも充当されたほか、東海道線 - 身延線、御殿場線への直通列車や御殿場線内の運用にも3連という身軽な編成を生かし使用された。しかし1999年12月のダイヤ改正で313系投入に伴い、豊橋駅以西での113系運用が廃止されたため大垣、米原乗り入れは消滅。東海道線 - 身延線、御殿場線への直通列車も313系ワンマン対応車投入に伴い捻出された115系によって置き換えられた(ただし、御殿場線内の運用は一部残存)。末期には長距離運用が無くなったためトイレの有無は関係なく一括で運用され、313系2000番台の投入に伴い、2007年までに全編成が廃車された。1999年の313系投入に伴い、JR東海では多数の113系初期車が廃車となり、車齢の若い2000番台車の転配が行われた。この際静岡運転所では奇数向きクハが1両不足したため、大垣区から転属された2000番台偶数向きクハ1両を奇数向きに方向転換。新区分番台「2300番台」とした。なお車号の下2ケタは元番号から引き継がれた。この車輌は1979年に静岡運転所に新製投入された2000番台車4両編成1本のうちの1両で1989年に大垣電車区に転属。10年ぶりに復帰し改造された。改造内容は車間渡りの変更。CPは残存(ただし、使用停止)。トイレは後述のとおり使用停止だったため、便所流し管が撤去された。本車両も2007年に廃車されて区分消滅となっている。非冷房車を数多く抱えていたJR東海では、1988年より冷房化率向上の早期実現のために所有の0番台非冷房車に国鉄時代より簡素な冷房改造を実施した。搭載される冷房装置は従来の集中式AU75形1機/両から、集約分散式C-AU711形2機/両となり、重量の分散によって車体補強などの関連工事が簡略化された。冷房電源は、冷房付電動車と編成を組むクハ111形はモハ112形の大容量MGから給電。編成単位で非冷房であった場合は費用と重量がかさむモハ112形のMG交換は行われず、編成中のクハ111形1両に専用の直流600V静止型コンバータ (SCV) 新設とされた。冷房風道は、AU75形搭載車とは異なり、室内灯取付位置に沿って線路方向に2本入る形となり、既設の扇風機も、冷房装置などの支障とならないものについては、そのまま使用された。蛍光灯は、冷房風道横の取付座に移り、増設された。改造にあたり、冷房付電動車と編成を組むクハ111形は元番号のまま、SCV搭載のクハ111形は元番号+6000、その他は元番号+5000と区分された。また、冷房機の外観はすべて同じであるが、MGから給電を受けるものはC-AU711C形、SCVから給電を受けるものはC-AU711D形と区別されていた。また、側面行先方向幕は取り付けられなかった。運転台後部の通風器の取り替え(大型→通常の吸出式または押込式)も行われなかった。SCV搭載車はすべて大垣区に集められ、MG給電車のほとんどは静岡区に所属した。一部のクハ111形は汚物処理装置未取付のままトイレ使用を可能としていた。対象車は全車初期車であり、313系投入により2001年3月までに全車が廃車された。静岡運転所配置の4両編成のうち、0'番台や2000番台で構成された17本がT編成と呼ばれ、国鉄末期の1986年11月から民営化後も東海道本線東京口でJR東日本車と併結運転を行ってきた。1993年10月から東京 - 小田原でATS-P形が使用開始されるのに伴い、1992年から1994年にかけて、先頭車にはJR東日本と同様のATS-P取付改造が施工された。これに合わせて編成全車も110km/h運転対応のブレーキ力向上が同時に施工されている。改造施工車は、早期に改造されたものは未改番だったが、1994年2月までに奇数向きクハ111形は700番台(2000番台車は2700番台)、それ以外の車両は600番台(2000番台車は2600番台)に改番されている。なお、車号は百の位を6、7に変更したのみなので元番号と順番が入れ替わる車両が発生している。後述のとおり、トイレは偶数向きクハ111形のみの使用と改められ、奇数向きクハ111形のトイレは業務室扱いとして閉鎖された。一部の編成では東急車両でATS-Pの取付が行われた改造内容はブレーキ力増強、焼結合制輪子・ライニングの使用。上記のとおり他社管内での運用が主で、伊東線および伊豆急行線全線でも2本併結の8両で運用された。入庫は下り東京 - 静岡間(323M, のちに325M)、出庫は上り静岡 - 横浜間 (360M) とされ、横浜で折り返し伊東行き (537M) となり、翌日は伊東線・伊豆急行線で終日運用され、その翌日に熱海から東海道線運用に入っていた。なお、伊東線・伊豆急行線での運用の際は、方向幕に「伊豆急下田」が含まれていないため、「普通」表示となっていた。1998年3月改正では、国府津電車区(現在の国府津車両センター)に横須賀・総武快速線からの転用車を使用して付属編成が増強されたことに伴い、捻出された一部は静岡地区内での運用が増加した。2000年には後述のように3本がT編成を解かれ、先頭車が元番号に戻された。2002年12月改正では、伊豆急行200系増備に伴い伊東線・伊豆急線内運用が消滅。出庫列車 (360M) の終着駅が国府津駅に変更された。2004年10月改正ではE231系の投入により国府津の113系の置き換えが開始され、さらにJR東日本 - JR東海乗り入れ列車の大幅削減に伴い、東京口での運用が終了。一部編成は貸出扱いとして残ったが、12月までにすべて返却された。その後は列車番号表示機の撤去およびATS-P使用停止の小改造を受け(耐用年数の関係からブレーキ力戻しや元番号への復帰はされず)、ローカル用編成と共通運用で自社内で使用された。しかし、東京地区での過酷な運用のため老朽化が著しく、他の113系より一足早く2006年初旬から廃車が開始され、2007年までに全車廃車となった。後年、偶数向きクハ111形のトイレ部分の行先表示器が、JR東日本車と同様に撤去され、その部分には当て板が施されている。1999年以降、静岡運転所の113系で自社内ローカルで使用される編成は、上記の3両編成16本のほか、6両編成5本が誕生したが、4両編成が5本に減少した。不足分はT編成が補ってきたが、2000年になって神領電車区から6両編成1本が転属。これを4両2本に変更したが先頭車が不足するため、捻出されたT編成から先頭車を転用することになったが、ブレーキ力改造車は未改造車との編成内での混結はできないため、ブレーキ力を戻す改造が行われた。のちにさらに6両編成2本を4両編成4本に変更するため、T編成2本の先頭車が追加で改造された。改造内容は、ブレーキ力戻しのほか、ATS-P車上子の撤去に伴い、元番号に復帰した。運転室内のATS-P表示灯、列車番号設定機は残されていたが、「ATS-P型使用停止」のシールが貼られた。この改造により余剰となった中間車(モハ113/112-633・634・647)は2001年4月に廃車となった。2001年に中央本線塩尻 - 中津川間へ臨時列車として入線するためにモハ112形2000番台4両が改造された。同区間には断面の小さなトンネルが存在し、通常のモハ112形の屋根高さではパンタグラフが接触してしまうため、折りたたみ高さの小さいC-PS24A形に交換された。この改造により元番号に6000が加えられて「8000番台」となった。2008年までに全車が廃車されている。なお、一部文献で「身延線入線のため」とする資料が存在するが、誤りである。JR東海では1992年から113系においては1編成にトイレは1箇所とした。このため以下のように変更した。これに伴い汚物処理装置装備車が不足する大垣区では、静岡区の同装置装備車との交換転配が行われた。静岡区ではトイレ使用可能車を捻出するため、トイレなし2100番台3両と汚物処理装置未装備車の0'番台1両をT編成に組み込み、奇数向きトイレ使用可能車を4両をローカル用に転用。同時に前述のATS-P型取り付けを考慮し、編成に含まれていた1000番台初期車を0'番台車に置き換えを実施した。なお、C-AU711D形搭載のクハ111の中で編成両方とも汚物処理装置未装備車が存在したが、偶数向きのみ使用可能とし、汚物処理装置は装備されなかった。クハ111-0'番台、2000番台は運転席、助手席部分の窓が小さく、客室からの前面展望および車掌乗務時の客室展望が良くなかった。このため1991年から1994年にかけて対象全車にこの工事が行われた。なお、Hゴム押さえだったガラス支持は拡大時に金属押さえに変更し、拡大時に支障となる機器は移設された。ATS-P取付車は設定器を助士席窓下部に取り付けたため、あわせて助士席の椅子が撤去された。なお、クモハ113は先頭車改造時に施行されている。窓面積はクハ111改造車より大きい。1994年から特別保全工事と同等の延命工事を2000番台車を対象に施行した。目立つ部分では1999年にかけて多数の車両で施行された。このうち静岡区所属の0'番台車クハ111-225、547にも同様の工事が施行されている。113系に限らずJR東海の車両と共通で行われた改造。京阪神地区で多く使用されていたが、後継形式の投入に伴い、廃車が進んでいる。また複雑な改造や転用も多い。2008年からは広島地区での運用も開始された。特別保全工事に代わる延命工事。製造から30年の使用を目指し、特別保全工事時代の施工内容のほか、客室内のアコモデーションの改良が追加工事である。1972年までに製造された車両の大半が該当している。後年は1972年以降製造車も一部施行された。おもな施工項目は国鉄時代に特別保全工事を受けた車両にアコモデーション改良のみを追加した工事。重複する部分は省略された。JR西日本に継承された非冷房車は221系の投入とともに多くは廃車されたが、先頭車を中心に一部分散型冷房改造が実施された。以下下記に記す。1988年より、JR東海のC-AU711形による冷房改造と同じ発想で、簡易的な冷房改造が実施された。編成によって給電方法が2通り用意された点も同一である。JR西日本では集約分散式3機/両のものが採用され、冷房付電動車と編成を組むクハ111形はモハ112形の大容量MGから給電。編成単位で非冷房であった場合は編成中のクハ111形またはクモハ112形1両に直流440V静止形インバータ (SIV) 新設とされた。前者は各地に存在したが、後者は福知山運転所(→福知山電車区)の800番台のみが施工された。なお、非冷房時代に設置されていた扇風機は存置され、クハ111形の運転台後部の通風器の取り替え(大型→通常の吸出式または押込式)も行われなかった。改造による車両番号の変更は無い。AU75系に比べて冷却能力が劣るなどの問題に加えて、老朽化のため廃車が進んでおり、現在ではクハ111形 (-811, -812) 2両のみが下関総合車両所に残存している。非冷房車の割合が高く、早期の置き換え予定もなかった800番台を対象に、WAU102形と並行してバス用冷房を応用した冷房改造が実施された。1991年までにクモハ113形+クモハ112形2両編成3本(後の5800番台ワンマン車、800番台の項で解説)とクハ111形3両 (823 - 825) の9両が改造されている。当初装置のほぼすべてが車内に搭載され、冷房電源は暖房と同様に架線の直流1,500Vを直接取り込んで利用するものとされた。しかし車内の機器占有面積が多く、後期に施工されたクハ111形3両では室外機部分が屋根上搭載に変更され、クモハ113形+クモハ112形の3本も1992年から1993年にかけて室外機部分の移設がなされた。クハ111形3両は1999年と2001年に、5800番台となったクモハ113形+クモハ112形のうち-5807と-5809は2009年2月に、最後に残ったクモハ113-5803+クモハ112-5803は2010年度にそれぞれ廃車された。1991年から最高速度120km/hの221系が投入されたこともあって各線の快速・新快速がスピードアップするのに伴い、1992年より向日町運転所(のちの京都総合運転所、現在の吹田総合車両所京都支所)・宮原運転所(のちの宮原総合運転所、現在の網干総合車両所宮原支所)・網干電車区(現在の網干総合車両所)・日根野電車区(現在の吹田総合車両所日根野支所)に配置されていたすべての113系に対し、運転の障害にならないように最高速度を100km/hから110km/hへ引き上げる工事が行われた。モーターは継続使用され、高速域からの減速力を強化するために台車への増圧装置および応荷重装置の取付け(2000・2700番台は整備)、制輪子の交換などが行われた。台車バネについては特に改造前と変化がない。施工車は未施工車と区別するために以下のように改番されたが、一部の電動車についてはブレーキてこ比の変更による更なるブレーキ強化が実施されており、さらに番号が分けられている。1991年3月、七尾線の電化による所要車両を113系から改造することとなった。転用にあたっては電動車のユニット組み替えを伴う編成変更、および形式間改造が1990年から行われた。改造後は3両編成となるためクモハ113、床下に交流機器を搭載するためMG非搭載車のモハ112(試作・1971年度冷房改造車およびモハ112-801)、110kVAのMGを搭載しているクハ111(試作および1971年度冷房改造車)が種車に選ばれた。改造後は車両不足を補うため、一時的に新福知山色に塗装変更し、福知山線系統で使用された。詳細は415系800番台を参照。七尾線転用車の捻出で不足する800番台が追加改造されたほか、余剰車を活用しての追加改造も実施された。上記の七尾線転用関連で、クモハ113を失ったクモハ112と編成を構成するため、415系改造対象から漏れたクハ
出典:wikipedia
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