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杉村春子

杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年(明治39年)1月6日 - 1997年(平成9年)4月4日)は、広島県広島市出身の新劇の女優。本名は石山 春子(いしやま はるこ)。旧姓は中野(なかの)。築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の屋台骨を支え続け、演劇史・文化史に大きな足跡を残した、日本を代表するカリスマ女優。称号は東京都名誉都民。遊女の私生児として広島市の色街に出生。幼時に母親が死んだため、材木商の養女にもらわれ何不自由なく育つ。当時のお金で800円のピアノを買ってもらう。山中高等女学校(現・広島大学付属福山高)卒業後、声楽家になるべく上京して東京音楽学校(現・東京芸術大学)を受験するが、2年続けて失敗。広島に戻り広島女学院で音楽の代用教員をしていたが、築地小劇場(俳優座の前身)の旅芝居を見て感動。1927年、再び上京してテストを受けるが、広島訛りがひどくまたも不合格になるも、『何が彼女をそうさせたか』のオルガン弾きの役(台詞無し)で採用され築地小劇場最後の研究生となった。築地小劇場が分裂・解散した後は友田恭助らの築地座に誘われて参加、1935年の舞台『瀬戸内海の子供ら』で好演した。築地座の解散後の1937年、岸田国士、久保田万太郎、岩田豊雄らが創立した劇団文学座の結成に参加。1940年に『ファニー』で主役を演じて以降、同劇団の中心女優となった。また、文学座以外の舞台にも出演し、日本演劇界の中心的存在として活躍した。1945年4月、東京大空襲下の渋谷東横映画劇場で初演された森本薫作『女の一生』の布引けいは当たり役となり、1990年までに上演回数は900回を超え、日本の演劇史上に金字塔を打ち立てた。作中の台詞 "だれが選んでくれたんでもない、自分で歩き出した道ですもの-" は、生涯"女優の一生"を貫いた杉村の代名詞として有名。そのほか『欲望という名の電車』のブランチ役(上演回数593回)、『華岡青洲の妻』の於継役(上演回数634回)、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』のお園役(上演回数365回)、『華々しき一族』の諏訪役(上演回数309回)などの作品で主役を務め、『女の一生』と並ぶ代表作となった。1948年には「女の一生」により演劇部門で戦後初の日本芸術院賞を受賞した。しかし、1963年1月、杉村の感情の起伏が激しい性格と、専横ともいえる劇団への統率ぶりに不満を持った芥川比呂志、岸田今日子、仲谷昇、神山繁、加藤治子、小池朝雄ら、中堅劇団員の大半が文学座を集団脱退し、現代演劇協会・劇団雲を結成。さらに同年12月には、それまで杉村主演の戯曲を何本も書いていた三島由紀夫の新作戯曲上演拒否問題(喜びの琴事件)が起こって、三島を筆頭に丹阿弥谷津子、中村伸郎、賀原夏子、南美江ら、文学座の古参劇団員が次々に脱退していった。杉村は、これらの脱退メンバーの大半とはその後の関係を断絶し、特に反杉村を鮮明にしていた福田恆存が代表となった劇団雲に参加したメンバーに対しては、共演を頑なに拒否するなど終生許すことはなかった。それにより文学座は、主要メンバーの2度にわたる大量離脱で創立以来最大の危機を迎え、当時の新聞は"崩壊に瀕する文学座"などと書きたてたが、太地喜和子、江守徹、樹木希林、小川真由美、高橋悦史ら若手を育てることで何とか乗り切った。しかし、杉村の専横に批判的だった人物が抜けてしまったことにより、杉村の劇団に対する独裁に近い影響力にさらに拍車がかかったとの見方もある。喜びの琴事件の際、三島由紀夫は杉村春子へ、「俳優は、良い人間である必要はありません。芸さへよければよいのです。と同時に、俳優は、俳優に徹することによつて思想をつかみ、人間をつかむべきではないでせうか。組織のなかで、中途はんぱなつかみ方をするのはいけないと思ひます」と皮肉をまじえて批判している。1967年の『女の一生』の再演は文学座が立ち直るきっかけとなった。経営の苦労を身に染みて知る杉村はお客を大切にした。このことは新劇の商業演劇進出の走りといわれる。舞台以外にも映画・テレビでも幅広く活躍。映画初出演は築地小劇場時代の1927年に小山内薫が監督をした『黎明』か1932年、初代水谷八重子と共演した『浪子』か、1937年、松竹の『浅草の灯』か、文献によって記述が異なる。戦後、黒澤明、木下惠介、小津安二郎、成瀬巳喜男、豊田四郎などの名監督たちから、既存の映画俳優には無い自然でリアルな演技力を高く評価され、日本映画史を彩る100本以上の名作に出演、映画史にもその名を刻んだ。森雅之と共に最も映画に貢献した新劇俳優でもある。特に、『東京物語』『麦秋』をはじめとする小津安二郎作品の常連でもあり、小津組でたった一人、読み合わせへの不参と"縫い"(かけ持ち)を許された俳優であった。1995年、当時89歳で新藤兼人の『午後の遺言状』で主演し、毎日映画コンクール、日刊スポーツ映画大賞、キネマ旬報で主演女優賞を受賞している。杉村は多くの演劇人の目標であった。高峰秀子は『小島の春』を観た際に杉村の演技に感動、「仕方なしにやっていた(本人談)」役者稼業に以後本気で取り組むようになったという逸話も残す。森光子もやはりこの映画の杉村の演技に大きな衝撃を受け、これ以上の衝撃を以降感じたことはないと話している。森は「演技の師匠を持たない私が、心から尊敬しお手本としたのは10代から憧れた杉村先生ただ一人です。時代劇の娘役の頃からいつか近づきたいとひそかに思い続けてきました」と話している。成瀬巳喜男監督『流れる』で共演した山田五十鈴は、「あの映画の杉村さんの芝居は、ぜんぶ杉村さんがお考えになったもの。そういうことが許されるようになった時代です。それこそ役者の力量が問われる時代になってきたんです」と述べている。気が強いことで有名だった岡田茉莉子の名前を冠した「岡田茉莉子シリーズ」が1965年2月~4月までTBS・金曜劇場枠で全13回放送され、この第3回『猫のいる家』(1965年2月19日放送)で、岡田自ら杉村との共演を希望した。しかしさすがの岡田も杉村の前であがり、最初の稽古のときメロメロになり、セリフ合わせでトチり、キッカケは間違うしで、「この大スターにして杉村春子にガタガタするのか」と、岡田にビビッていた演出の大山勝美も気が楽になったと話している。 若尾文子は「杉村春子さんは特別な存在」と話し、杉村の代表作『華々しき一族』を熱望し2008年に演じた。高倉健からも尊敬されており、誕生日にはいつも花束を贈ったという。勝新太郎は杉村を大崇拝し、「杉村と共演した勝は『はい、はい』と杉村の言うことは何でも聞いていた」と石井ふく子は話している。吉永小百合は美しい所作の先生は杉村と話している。また舞台を一度もやっていない理由について、20代半ばで市川團十郎との舞台の共演を病気で断ったことと、杉村や坂東玉三郎らの舞台を見過ぎてしまい、これから勉強して舞台に立つのは無理かなという思いがしたことを挙げている。テレビで共演作品の多い劇団民藝の奈良岡朋子は、「文学座の方には申し訳ないけれど、私が一番芝居を教えていただいた」と述べている。杉村の付き人として小津安二郎監督の『秋刀魚の味』の撮影を観たという樹木希林は、2011年、第34回日本アカデミー賞で最優秀助演女優賞を受賞して「50年ほど前に役者を始めた時に杉村春子さんに『役者は定年がない』と言われました。今、しみじみそう思います」と語った。1933年に5歳年下で慶応大学出身の医学生である長広岸郎と結婚したが、1942年に結核で亡くなっている。『女の一生』などを書いた劇作家の森本薫の愛人でもあったが、森本も1946年に結核で亡くなった。1950年に10歳年下の医者である石山季彦と結婚するも、1966年にこれまた結核で亡くなっている。1974年、杉村は女優としては東山千栄子、初代水谷八重子に次いで3人目の文化功労者に選ばれた。1995年には文化勲章授章決定の内示を受けたが、「勲章は最後にもらう賞、自分には大きすぎる。勲章を背負って舞台に上がりたくない、私はまだまだ現役で芝居がしていたいだけ」「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」とこれを辞退。周りの者がいくら説得しても聞く耳持たずだった。1996年日本新劇俳優協会会長に就任。杉村は70年の芸能生活で仕事を一度も降りたことがなかったが、1997年1月19日にNHKドラマ『棘・おんなの遺言状』の収録中に貧血と腰痛を訴えて入院し降板、代役は南美江が勤めた。2月に入り文学座の会見では十二指腸潰瘍と発表されたが、そのときすでに医師から膵臓癌でもあることが文学座の社長の梅田濠二郎、戌井市郎や北村和夫・江守徹など親しい者にだけ知らされていたという。3月に新橋演舞場で予定されていた『華岡青洲の妻』も、チケットが発売されている中での緊急降板となり、代役は藤間紫が勤めた。しかし病室では簡単なストレッチをしたり、男性の見舞い客が来ると聞くと長い時間をかけてお化粧をしたりと、常に弱っている姿を見せまいと気丈に振る舞っていたという。3月16日から意識が混濁し、4月4日午前0時30分、頭部膵臓癌のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去、満91歳。最期を看取ったのは養女のヒロと、当時70歳の長年親しくしていたファンの女性だけだった。本人には癌であることを知せなかったため、死去の直前まで台本を読んでおり、最期まで女優であり続けた。死後、政府から銀杯一組が贈られた。杉村の死後1998年、若手演劇人の育成に力を注いだ杉村の遺志を尊重し、新人賞的意味合いを持つ杉村春子賞が新たに創設された。太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品(戦後のみ)◎印は小津安二郎監督作品年月日は、杉村が最初に演じたときのものである。★=上演回数の多い演目トップ5、●=その他の注目すべき演目最初は端役やスタアが演じないような老け役、そして、だんだんと重要な役を演じるようになっていく。後に再演が繰り返され代表作となる作品に、次々出会う。後に起こった文学座と三島とのトラブルにより、杉村はこの時期以外にはこれらの作品を演じていない。文学座公演として、レパートリーとなった代表作や新作に主演しながら、商業演劇にも数多く出演。商業演劇のスタアたちと同格の主演として舞台に立つ。「女の一生」を文学座内で平淑恵に継承(杉村生前の1996年に平主演の公演があった)。商業演劇での活躍も続き、スタアとの共演ではない大劇場での単独主演も行なう。89歳まで新作公演に出演、90歳まで主演舞台に立った。1997年には、3月に新橋演舞場で「華岡青洲の妻」(松竹公演。杉村主演としてチケットはすでに発売されていた。藤間紫が代役で於継を演じた)、5月に紀伊國屋サザンシアターで文学座60周年記念舞台「柘榴のある家」(新作、文学座公演)、9-10月には芸術座で「もず」(東宝公演、山岡久乃と舞台での初共演)などが予定されていた。また、主演連続ドラマ「棘 おんなの遺言状」(NHK 竹山洋脚本 大竹しのぶ、島田正吾共演)は第1回収録途中に病気降板。没後10年のBS特集番組でその一部が放送された。

出典:wikipedia

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