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有馬氏久

有馬 氏久(ありま うじひさ)は、江戸時代中期の大名。伊勢西条藩の第2代藩主。氏倫系有馬家2代。紀州藩士渡辺泰綱の子として紀伊国和歌山に生まれ、同藩士有馬氏倫(のちに西条藩初代藩主)の養子となる。父の渡辺恭綱は伊予西条松平家初代松平頼純(徳川家康の孫)の長男であるので、氏久は家康の玄孫に当たる。享保2年(1717年)6月12日、将軍徳川吉宗に初謁する。享保8年(1723年)3月晦日に御小納戸役となる。享保19年(1735年)12月18日、従五位下備後守に叙せられる。なお、この間の享保11年(1726年)、養父の氏倫は加増によって大名に列している。享保20年(1735年)1月に氏倫の死去により家督を継ぐ。元文元年(1736年)2月3日に正式に遺領を継いで西条藩主となり、伺候席を菊間広縁に定められた。元文5年(1740年)6月20日には大番頭となる。宝暦8年(1758年)6月12日に大番頭を辞し、宝暦9年(1759年)6月2日に家督を養嗣子の氏恒に譲って隠居した。明和8年(1771年)2月26日、73歳で死去した。正室は堀親賢(飯田藩第4代藩主)の娘。『寛政重修諸家譜』には実子として、正室所生の女子2人、側室所生の女子2名と男子2名(幸次郎、氏房)を記載している。延享2年(1745年)、建部政周(播磨林田藩第4代藩主)の子・光隆を養嗣子とし、正室所生の長女を娶せたが、寛延2年(1749年)に廃嫡している。養子縁組解消後、長女は黒田直亨(上総久留里藩第2代藩主)に再嫁した。光隆に代わり、寛延2年(1749年)に堀親蔵(信濃飯田藩第6代藩主。正室の兄)の子・氏恒を養嗣子に迎えている。堀家と有馬家との関係は深く、正室所生の次女は外祖母・春台院(津軽信政の娘、堀親賢の正室)の養女となっている(のちに倉橋内匠助久知の室となった)。宝暦7年(1757年)に実子の氏房が生まれている。氏房はのちに氏恒の養子として家督を継ぎ、第4代藩主となっている。

出典:wikipedia

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