山本 譲二(やまもと じょうじ、1950年2月1日 - )は、日本の演歌歌手である。本名同じ。山口県下関市出身。所属事務所はジョージ・プロモーション、現在の所属レコード会社はテイチクエンタテインメントである。筆名「琴五郎」名義で、楽曲の作詞・作曲も行っている。なお、歌手としてのラテン文字表記はGeorge Yamamotoである。娘は歌手の山本琴乃。早鞆高等学校在学中3年生時の1967年夏、山口県(当時・西中国)代表として第49回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園大会)に出場。1回戦で松商学園(長野県代表)に0-3で初戦敗退に終わったが、代打出場としてヒット(内野安打)を放って1塁に出塁した。演歌歌手になりたくて上京。多くの職を転々とする。クラブのボーイ時代、お客の飲み残しのビールを飲み干す。中にはタバコの吸い殻がたくさん入っていた。肝臓を壊しやむなく帰郷、ひっそりと療養生活を送る。母親の叱咤で強い決意を持ち22歳で再び上京。再び職を変えながらスナックでギターを手に2年間弾き語りを続ける。たまたま店に来た浜圭介に誘われ芸能界入りした。1974年、映画「ダーティハリー」にかけて、「伊達春樹」という芸名でビクターからシングル「夜霧のあなた」でデビューしたが、パッとせず、崖っぷちに立たされた。最後の決意で北島三郎の仕事場に何度も足を運び頭を下げ、十数回繰り返したときに北島から突然、鞄(かばん)を渡された。即ち「鞄持ちになれ」という意味であり、以降2年間北島の付き人を務める(当時の北島はまだ30代前半と若く、筋骨隆々としていたため、甘え容赦ない修行の毎日をすごした)。25歳だった。これを契機に1976年、読売テレビ制作の歌謡オーディション番組「全日本歌謡選手権」(当時は浜村淳が司会)に出場、「おもいで岬」や「中の島ブルース」などを歌って見事10週勝ち抜いた。本名でもある「山本譲二」名義でポニーキャニオンから再デビュー。またも鳴かず飛ばずが続く。1980年、30歳の時に『みちのくひとり旅』をリリース。北島等からは「この曲で駄目(売れない)なら、もう(歌手を)諦めろ」と言われていたと言う。しかしこの曲も発売当初は売れずヒットには更に10ヶ月を要した。年を越し1年近くが経過。1981年、フジテレビの「夜のヒットスタジオ」に注目曲として出演すると大きな反響を呼び大ヒットし、演歌スター歌手への仲間入りをようやく果たす。当時31歳の時だった。この『みちのくひとり旅』で1981年末の「第23回日本レコード大賞」ロング・セラー賞を受賞、さらに「第32回NHK紅白歌合戦」の初出場も果たす。最終的なレコード売上は130万枚を記録した。なお同曲がヒットしていた頃、あるテレビ番組の企画で無人の甲子園球場のマウンドでこの曲を独唱したり、さらにTBSテレビの「ザ・ベストテン」では、上半身裸で褌一丁の姿をさらけ出しながら歌唱したこともあった。こうした経緯から北島を親父と慕い、北島ファミリーの旗頭的存在となった。代表的な歌曲に『みちのくひとり旅』のほか、『旅の終りはお前』『奥入瀬』『花も嵐も』『名もない花に乾杯を』『浪漫-ROMAN-(「憲三郎&ジョージ山本」として)』など(もちろん長年の修行が実った上で初めて親父と呼ぶことを許された。それまでは先生という呼び方をしないと厳しく叱責された)。1997年テレビ朝日の『暴れん坊将軍』では、め組の頭長次郎役を演じる。VIIIシリーズから800回スペシャルまで長次郎を演じた。他にも、松平健、田村亮、北島三郎、高島忠夫、松金よね子、生稲晃子、名古屋章、中村あずさ、松下恵が出演していた。また北島が暴れん坊将軍に準レギュラーで出演する時には、北島が演じていた辰五郎を親父さんと呼んでいた。また北島がめ組の頭時代に辰五郎に恨みを持つ役、め組の頭降板後は萩藩主毛利吉元役でゲスト出演している。平成に入ると演歌が急速に衰退、1999年には所属していたポニーキャニオンが演歌・歌謡曲部門の廃止を決定。このためテイチクエンタテインメントへ移籍、2000年には移籍第1弾シングル「花も嵐も」を発売する。2005年、故郷・山口県に社会人野球のクラブチームを設立する計画を表明した。チーム名は「山口きららマウントG」で、自ら総監督に就任。また池永正明を監督として招聘したため話題性もあり高い注目を集めている。都市対抗野球大会の出場を目指すという。2012年の第84回選抜高等学校野球大会に母校の早鞆高等学校の出場が決まった際には自らのブログで「俺の時以来だもんな、ぶちうれしいけ!」と喜びのコメントを発し、母校を援助するべく寄付金を募り、かつ自ら応援団長を買って出る意気込みを見せている。2007年1月1日から北島音楽事務所を独立して個人事務所ジョージ・プロモーションを立ち上げた。暖簾分けという形であり、今も北島音楽事務所とは業務提携という形で強いつながりを持つ。2009年7月、右耳内部に良性腫瘍ができていることが明らかになったものの、除去手術を行った場合顔面麻痺が残る可能性があることから、手術するかどうか迷う胸中をブログに綴った。7月23日、福岡放送『めんたいワイド』に出演。もともとキャンペーンの一環として出演が決まっていたものの、病気を受けて急きょ内容が変更され、山本が経緯と今後の決意を語った。番組では、左耳に聴覚補助イヤホンをつけてやっと普通に聞こえる状態であったが、「ファンの励ましのメッセージが力になった」旨発言している。2010年、“関門ジョージ”の名で「関門地デジすすめ隊」隊長に任命された。任命権者は不明だが、全国で著名人などが任命されている「地デジ化応援隊」の一種である。師匠・北島が既にその前年からデジタル放送推進協会(Dpa)の要請で「地デジで元気!音頭」を作曲・歌唱してテレビのデジタル化に貢献し、総務省から同じく「地デジ化応援隊」隊員に指名されたという経緯がある。地元下関では長らく北九州市の皿倉山から発射される電波をアンテナで直接拾う世帯がほとんどであったが、完全デジタル化により、その視聴エリアが狭まる。NHK山口放送局などではこれを地元に視聴者を奪い返すチャンスととらえており、アンテナの方向転換などの呼びかけを行っている。同局大使・牛田茉友が出演した同年7月24日放送のPR番組はそのことを周知徹底するために、わざわざ北九州局の総合アナログ波(6chで送信)まで使って放送され、その番組に於いて山本が“関門ジョージ”として登場し、県西部地域における地デジ化に貢献する旨の挨拶を行った。このキャンペーンは現段階ではNHK単独で進められているものの、実質的には「デジサポ山口」がNHKに委託実施している形態である。これは、以上の理由による。8月9日からは、北九州局でも「関門海峡」をBGMに使用した“関門ジョージ”のスポット放送が始まった。酒に酔って前川清の家でウォシュレットを使い、便所を水浸しにしたというエピソードがある。その前川や吉幾三は親友である。鳥羽一郎と二人で10分で1升の日本酒をあけたと云う話もある。これはウチくる!?出演時の発言であるが、このときは1軒目からビール、焼酎などを飲み続け、番組の途中から完全に酔っ払っていた。2011年3月28日 KRY(山口)ラジオで、震災の支援活動をしたいが、他からのストップがかかっていると、嘆く。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。