伊一型潜水艦(いいちがたせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦の艦級。艦型名は海軍大型七十四型、大型七十四型、伊号型巡潜型、巡潜1型と呼称された時期もあった。伊号第一潜水艦から伊号第五潜水艦までの五隻が建造された。伊号第一号潜水艦から伊号第四号潜水艦までは同じ設計であるが、伊号第五潜水艦は若干仕様が異なるので巡潜1型改と呼ばれることもある。太平洋戦争においては開戦当初から活躍したが、全艦戦没して終戦時には一隻も残っていない。日本海軍が建造した一等潜水艦(1,000 トンを超える大型潜水艦)のなかで伊号第五十一潜水艦、伊号第五十二潜水艦(のちの伊号第百五十二潜水艦)の次に建造された艦である。第一次大戦以前の潜水艦は艦形も小さく、大洋の航海には適さない沿岸型の潜水艦であった。それに対しドイツは通商破壊戦のため水上速力の向上と長大な航続力を持ち、外洋航行能力のある大型の潜水艦が必要とされ、計画された。この大型潜水艦は巡洋潜水艦(略して巡潜)と類別されるようになる。第一次大戦が終結した時、当時世界最高だったドイツの潜水艦技術を各国は競って取り入れた。潜水艦を艦隊決戦の補助艦艇と位置づけていた日本海軍は当時最大最新の巡潜として計画されたU142型の図面入手を図った。これには訪独した川崎造船所(のちの川崎重工業)の松方社長の努力により実現したと言われている。川崎造船所はまた、ドイツから潜水艦技術者を招いて指導を仰ぎ、技術の習得に努めている。1923年(大正12年)度の艦艇建造新計画で建造された4隻の潜水艦はほぼドイツのU142型のコピーである(兵装だけは日本のものに改められている)。日本の大型潜水艦はまだ海大型の伊51の1隻が建造中なだけであり、当時の日本の造船技術としては仕方のないことだった。伊1から伊3までの3隻は1926年(大正15年)に竣工し、やや遅れて建造された伊4は冷却機を装備するなど設計を若干改め1929年(昭和4年)の竣工となった。1927年(昭和2年)度予算で1隻のみ建造された伊5は水上偵察機1機が搭載可能となり、巡潜1型改とよばれる。艦橋後方左右に格納筒を1基ずつ設置し九一式水偵を分解格納した。これは日本潜水艦での水上機の初搭載である。兵装に関しては、備砲を12.7cm高角砲2門としている。またピストン無気泡の八八式発射管が装備され、魚雷搭載数は20本となった。巡潜1型の4艦は1932~1933年(昭和7~8年)年頃に電池交換など能力改善工事を受けた。1937年(昭和12年)以降、第一線で新造時能力を発揮できるとされる「第1期艦齢」の12年を過ぎたため、巡潜1型はマル3計画において代艦計画が上がっており、計画終了時には全艦退役する予定であった。しかし、世界情勢が緊迫化するに伴い第一線として留まることとなり、1940~1941年(昭和15~16年)年には艦齢延長工事が行われ、発射管が断気弁無気泡式の九五式魚雷発射管相当のものに改修された。この際、伊5は射出機を撤去して艦橋を後部ヘ拡大し、25mm連装機銃を搭載している。太平洋戦争開戦時には長大な航続力を活かし、ハワイ作戦に5隻とも参加するなど第一線で活動した。その後もソロモン、アリューシャン、インドなど各地に出撃、陸上砲撃(ハワイ作戦)や通商破壊作戦、ソロモン方面での潜水艦輸送作戦などで活躍した。しかし次第に艦齢による性能低下が起こり、巡潜1型では安全潜行深度が64mに制限される事態も起きている。全艦が終戦をまたず全艦戦没した。
出典:wikipedia
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