シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール(、1890年11月22日 - 1970年11月9日)は、フランスの陸軍軍人、政治家。フランス第18代大統領。第二次世界大戦においては本国失陥後ロンドンに亡命政府・自由フランスを樹立し、レジスタンスとともに大戦を戦い抜いた。戦後すぐに首相に就任した後、1959年には大統領に就任して第五共和政を開始し、アルジェリア戦争によって混乱に陥っていたフランスを立て直した。ド・ゴールはイエズス会学院の校長(歴史科を教えていた)を務める父アンリの子として、フランス北部の工業都市リールに生まれた。ド・ゴールの家系は下級貴族である。「ド・ゴール ()」の「ド」 は本来は前置詞で、「ゴール(ガリア)公」「ゴール卿」といった意味を持つ。ド・ゴール家の場合は名字の一部と見なされている。ド・ゴールの曽祖父はルイ16世の法律顧問をしており、フランス革命時に投獄されている。父アンリは医学・理学・文学の3つの博士号を持つ碩学、熱心なカトリック教徒だったという。また、祖父ジュリアンも著名な歴史学者だったといい、ド・ゴールは幼い頃より歴史に興味を覚え、「フランスの名誉と伝統」に誇りを抱くようになったという。そして、ド・ゴールは、伝道師を目指していたものの、長身痩躯という立派な体格だったことから軍人の道を選んだ。地元の中学校を卒業後、1909年にサン・シール陸軍士官学校に入学した。ド・ゴールは陸軍士官学校内では「雄鶏」(シラノ。フランスのシンボルの1つでもある)、「アスパラガス」そして「コネターブル(:「大将軍」の意)」と呼ばれていたという。これらのあだ名は身長が約2mあったという彼の体格に由来している。卒業後は、歩兵第33連隊に陸軍少尉として配属された。歩兵第33連隊はフィリップ・ペタン(のちのヴィシー政権の指導者)の連隊だった。第一次世界大戦では大尉としてドイツ軍と戦い、1916年、大戦中最大の激戦地ヴェルダン戦で部隊を指揮した。ドイツ軍の砲撃で重傷を負い「気絶」したが、「戦死」と判断され、死体運搬車に乗せられた。しかし輸送途中に意識を取り戻し、事なきを得たという。戦死と聞かされたペタンは、「ド・ゴール大尉。中隊長を務め、その知性と徳性において知られた人物である。おそるべき砲撃によって大隊に夥しい損害を出し、中隊また八方から敵の攻撃をうけた状況下に、それが軍の光栄にかなう唯一の策と判断して兵をまとめ、突撃を敢行、白兵戦を展開した。混戦のうちに戦死。功績抜群……」という個人的な弔辞を作成したという。また、捕虜生活も経験し、それは第一次世界大戦終結まで続いた。ド・ゴールは5回脱獄を図ったものの、大柄な体だったため5回とも失敗し、最も厳重な捕虜収容所だったインゴルシュタット城の牢獄「天女の宿」で捕虜生活を経験した。ちなみにその牢獄には、後にロシア(ソ連)の赤軍元帥となり、スターリンによって粛清されたトゥハチェフスキーがいた。トゥハチェフスキーはド・ゴールに対し、「未来は我々のものだ、くよくよするな」と捕虜生活を慰めたという。第一次世界大戦終結後、ド・ゴールはポーランドの軍事顧問となり、同国へ赴任した。当時ポーランドは革命ロシア赤軍の侵攻を受けており、首都ワルシャワまで迫られていた(ポーランド・ソビエト戦争)。その時の赤軍司令官は、共に捕虜生活を過ごしたトゥハチェフスキーだった。ド・ゴールはこの戦いで活躍し、「ポーランド軍少佐」の称号を得ると共に、ポーランド政府から勲章も授与された。ポーランドから帰国し、サン・シール陸軍士官学校の軍事史担当教官として勤めた後、1922年にフランス陸軍大学校に入学した。同学校では、「勤勉にして敏鋭、博学。しかし友人との折り合い悪く、性格的に円満を欠く」と評価をされている。また、陸軍大を卒業したものの、ド・ゴールは「わが道を行く」という主義を強く持っていたため、陸軍上官との折り合いが悪く、大尉から少佐への進級に10年もかかってしまった。しかし、この間も後に敵となるペタンはド・ゴールをかわいがっていたという。その後、ド・ゴールは中東に1回赴任し、1932年には中佐となり、パリにあった軍事最高会議事務長に就任している。またペタンの計らいもあり、ド・ゴールは陸軍大学校において「戦闘行為と指揮官」という特別講演も行った。この講演を文書に纏めたものが1932年に出版された『剣の刃』である。ただ、この書は「フランス版『わが闘争』」あるいは「ド・ゴール版『我が闘争』」(ドイツのアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』から)とも評されている。ついで、1934年には「機甲化軍にむけて」、1938年には「フランスとその軍隊」を執筆した。ヒトラーはド・ゴールの著書『職業的軍隊を目指して』を読んで感銘を受けていたが、著者はアンリ・ジローだと勘違いをしていた。第一次世界大戦のヴェルダン戦の体験からド・ゴールは、これからの戦争は塹壕戦ではなく、機動力のある戦車や飛行機を駆使した機械化部隊による電撃作戦になることを論じ、いくつかの著書の中でそのことに言及した。この見解は、ペタンらフランス軍の主流派には受け入れられず、その後皮肉にもド・ゴールやジョン・フレデリック・チャールズ・フラーの著作を参考としつつ研究を行っていたグデーリアンのいたドイツ軍が積極的に採用している(国家指導者がヒトラーだったことも大きいと考えられる)。1939年9月に第二次世界大戦が勃発、まやかし戦争と呼ばれるにらみ合いの後、1940年5月にドイツ軍のフランス侵攻が始まると、ドイツ軍は防衛方針を堅持したフランス軍が国境に用意した巨大要塞「マジノ線」を機動力のある装甲部隊で迂回して進軍し、フランス軍はわずか1か月間の戦いでドイツ軍の電撃作戦により敗北を喫した。開戦直後の5月15日、ド・ゴール大佐は新編の第4機甲師団長に任命された。すでに手遅れの時期になり、しかも小規模ではあったが、ここでようやくド・ゴールは長年主張してきた機械化戦術を実地に試す機会を得た。他の第1から第3の3個機甲師団が特に見るべき活躍もなく終わったのに対し、ド・ゴール率いる第4師団は師団長の直接の指揮下のもとに戦車の集中運用を行い、一時的にではあれ、ドイツ軍部隊に脅威を与えることに成功した。特にソンム県アブヴィル近辺の反撃では、適切な航空支援が得られなかったために完璧な成功を収めるまでには行かなかったが、ソンム川南岸の敵橋頭堡3つのうち2つまでを取り返す活躍を見せた。しかしその後間もなく、ド・ゴールは陸軍次官に任命され、部隊の指揮を離れることになる。1940年6月には、同年3月のエドゥアール・ダラディエの辞任により新たに首相に就任したポール・レノー率いる新内閣の国防次官兼陸軍次官に任命され、フランス軍史上最年少の49歳で准将となった。ドイツ軍によるフランス侵攻に対するイギリス軍の協力を得るためロンドンに飛び、ウィンストン・チャーチル戦時内閣と交渉を開始する。その中で、合法的に英仏連合軍の指揮権の統合と亡命的性格の政策、英仏連合(フランスとイギリスとの政治統合構想)に奔走、イギリス側の閣議決定後、フランス政府の避難先ボルドーに向かったがレノー内閣は英仏連合の案件と休戦派の圧力で総辞職し、次官職を解かれる。6月15日に首都のパリが陥落し、自身に逮捕の噂がたっており、連合軍顧問のイギリス陸軍将校スピアーズ将軍の召還に同伴しイギリスへ亡命することを決断。脱出先のロンドンに亡命政府「自由フランス」を結成し、ロンドンのBBCラジオを通じて、対独抗戦の継続と中立政権ではあるものの親独的なヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかけた。イギリス議会や閣僚は事を荒立てることを恐れ、それを中止させようとしたが、イギリスのウィンストン・チャーチル首相の指示によって放送は強行された。この放送はのちにフランスの反撃ののろしとして高い価値を与えられるが、当時直接に聞いていたものはほとんどいなかったし、また録音されていなかったので再放送もなかった。しかし、翌日にはまだいくらかの自由が残っていたヴィシー政権下にあるフランス南部の新聞のいくつかがこの放送について小さな記事を掲載し、徐々に知られるようになっていった。翌1941年10月25日にはジャン・ムーランと会見、一つの大きな組織「レジスタンス国民会議」を作るためムーランを極秘裏にフランス本土に派遣する。また自ら自由フランス軍を指揮してアルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地を中心とした北アフリカ戦線で戦い、対独抗戦を指導した。しかし、仏領インドシナやマダガスカルをはじめとする植民地やフランス本国のフランス軍の多くは、中立を維持するかヴィシー政権に帰属した。その後自由フランス軍は連合国と共同でフランス植民地のガボン、マダガスカルを攻略した。1942年にはアルジェリアのフランソワ・ダルラン大将が連合国側につき、北アフリカのフランス主席となったが暗殺された。この暗殺の背後にはド・ゴールの関与があったという説もある。ダルランの後を継いだのはアンリ・ジロー大将で、連合国フランスの代表としてド・ゴールとジローが並び立つ体制となった。1943年1月にはフランスの指導者を決めるためカサブランカ会談が開かれたが決着しなかった。5月にフランス国内のレジスタンス組織全国抵抗評議会はド・ゴールをレジスタンスの指導者と決定したが、6月にアルジェリアで結成されたはド・ゴールとジローを共同代表とした。この二頭体制は11月にジローが辞職するまで続いた。委員会は翌1944年にフランス共和国臨時政府に改組され、ド・ゴールが代表となった。ド・ゴールはその独裁的かつ強権的な姿勢から、チャーチルやアメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトと衝突することが多く、特にルーズヴェルトはド・ゴールのことを「形式にこだわる旧世界的人物」、「選挙で選ばれたわけではないのに指導者として君臨しようとしている」「あのような人物にはマダガスカルの知事でもさせておけば良い」としてあからさまに嫌っていたという。とは言え、奪われた祖国を取り戻すために戦う姿勢には支持者もおり、チャーチル夫人はド・ゴール将軍の熱烈なファンだったという。その後、1944年6月の連合軍によるヨーロッパ大陸への再上陸作戦・ノルマンディー上陸作戦が成功すると、祖国に戻って自由フランス軍を率いてイギリス軍やアメリカ軍などの連合軍とともに戦い、同年8月25日にパリが解放された。ド・ゴールは翌26日に自由フランス軍を率いてパリに入城、エトワール凱旋門からノートルダム大聖堂まで、ドイツ軍の残党が放つ銃弾を気にすることなく凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びた。フランス解放後、臨時政府がフランスの統治を行うこととなり、制憲議会は満場一致でド・ゴールを臨時政府の主席に選出した。ド・ゴールは自由フランス時代から第三共和政の議会制度には欠陥があると主張しており、民衆の声望を背景に他の指導者・政党の意見を無視することが多くなり、とりわけ社会党 (SFIO)・共産党から独裁的との批判を受けた。1946年1月に、ド・ゴールは軍備費を20パーセントカットすべきだという社会党の予算提案に反発するという形で、突如首相を辞任した。この辞任の真意は、議会の優位を主張する政党側に対する不満があったといわれている。ド・ゴールの首相時代には、フランス解放後の1945年に大手自動車会社のルノーを国営化したほか、エールフランス航空など多くの基幹企業を国営化した。このように、国家の復興を推進するためもあり軍需、インフラ関連の大企業の国営化を積極的に推し進めるとともに、公共投資にも力を入れた。この政策は後にド・ゴールが大統領になってからも継続された。制憲議会が制定した草案が否決され、再度行われた制憲議会選挙でが躍進すると、ド・ゴールは6月16日のバイユーでの演説をはじめとして()、自らの憲法構想を表明するようになった。ド・ゴールは政府と大統領の権限を強化し、政府内部での統一が図られるべきだと主張したが、実際に採択されたフランス第四共和政憲法には反映されなかった。彼はこの信念から1947年にフランス国民連合(略称RPF)を結成したが、この団体もまた1952年には一部が分裂して政争が発生した。それを嫌ったド・ゴールはRPFを解体し、1955年には「公的生活から引退する」と宣言した。ド・ゴール引退後も政府が小党乱立によって機能不全に陥っていることには変わらず、アルジェリアでの民族自決を求める反乱にも有効な手を打てないでいた。1958年5月、この状況に不満を持ったアルジェリアのフランス植民者(コロン)が、アルジェリアの独立運動に対抗するため、アルジェリア駐留軍と結託して本国政府に反旗を翻し、「ド・ゴール万歳」を唱えてフランス本土への侵攻計画を立てた。現地駐屯の落下傘連隊がコルシカ島を占領し、鎮圧に向かった共和国保安隊も到着後反乱軍に同調し、フランス本土に脅威を与え始めた。この緊急事態に、就任直後の首相ピエール・フリムランはなすすべがなく、進退極まった政府は軍部を抑えることのできる人物として隠居を宣言して執筆活動にいそしんでいたド・ゴールに出馬を要請した。ド・ゴールはこの反乱には無関係だったが、だからこそ政府およびルネ・コティ大統領もド・ゴールに出馬を要請することができ、彼もそれを受けることができた。ド・ゴールが首相就任に際して要求したのは「現在の極めて困難な情勢の中で行動するために必要な全権」を与えるというものだった。ド・ゴールは、1946年憲法は「政党支配性 Régime des partis」に他ならず、執行府により大きな安定性と権威とを与えるが、だからといって民主的であることをやめないような新しい政治体制に、座を譲るべきであると確信した。ド・ゴールは首相指名をうけた後の6月1日、国民議会に対して6ヶ月間の全権委任を要求し、新憲法草案を提示した。議会はこれを承認し、ド・ゴールは正式に首相に就任した。この全権はによって承認された。ジャック・マシュ将軍やラウル・サラン将軍など駐留軍首脳部はこれを支持した。そして6月4日にはアルジェのアルジェリア総督府から「私は諸君を理解した!」と叫び、反乱を沈静化させた。ド・ゴールは、正規の形式に従い議会から憲法案を準備する権力の承認を獲得、その憲法案は人民投票に付託されることになった。ド・ゴールが示した憲法草案では、大統領の権限を強化し議会の力を抑制する新憲法を立案し、ただちにこれは国民投票に付された。同年9月に行われた国民投票で投票者の80%近くもの賛成により承認され、1958年10月4日には新憲法(フランス第五共和政憲法)が公布、制定され、フランス第五共和政が成立、ド・ゴールは第18代大統領に就任した。ド・ゴールは、以後1969年に退陣するまでの11年間、強権的とも言われた政権運営をもってフランスの内外政策を強力に推進することとなる。ド・ゴールはまた、かつての自らの党であるフランス国民連合の後身・社会共和派などを結集して、新たな与党として新共和国連合(Union pour la Nouvelle République:UNR)を結成した。この11年間に初めてフランスの政局は安定し、その巧みな経済政策によってフランスは高度経済成長を遂げ、外交の面でもフランスの地位は急速に回復した。しかしアルジェリアに対してド・ゴールは、担ぎ出した人々の思惑とは逆に独立は必至と判断していた。ド・ゴール自身が後年の回想録で第一次インドシナ戦争の背景にある民族自決の動きを理解していたこと、また当初は完全独立ではない緩やかな連邦制も模索した(実際に国民にも提案している)ことを明かしている。こうして1959年9月にはド・ゴールはアルジェリア人に民族自決を認める発言を行った。これにコロンは激しく反発し、1960年1月にはアルジェ市でバリゲードの一週間と呼ばれる反乱を起こした。さらに、1961年4月にはアンドレ・ゼレール、ラウル・サラン、モーリス・シャール、エドモン・ジュオーの4人の将軍によって将軍達の反乱が勃発したものの、ド・ゴールによって速やかに鎮圧された。結局アルジェリア領有の継続を主張する右翼組織OASのテロによる反対を押し切って、1962年、独立を承認した。ド・ゴールはこの間、たびたびOASのテロや暗殺の標的となった( → "詳細は「ジャッカルの日」項を参照")。1962年8月にはパリ郊外のプティ=クラマールで、乗っていた自動車がOASにより機関銃で乱射された「プティ=クラマール事件」が起きたが、ド・ゴールは九死に一生を得た。また、アフリカに残っていたフランス領西アフリカ及びフランス領赤道アフリカの広大なフランス領の植民地に対し、1958年9月、フランス共同体の元での大幅な自治を認めた第五共和国憲法の承認を求めた。急進的独立派だったセク・トゥーレ率いるギニアはこれを否決し単独独立の道を歩んだものの、それ以外の植民地はすべてこれを承認し、1960年にはこれらの植民地はすべて独立している(このことにより、1960年は「アフリカの年」とも呼ばれることとなった)。これによって、フランスは独立闘争によって国力をすり減らすことなく、独立後の諸国に対し強い影響力を保持することができた。東西両陣営の間で冷戦が続く中、ド・ゴールはアメリカとソ連の超大国を中心とする両陣営とは別に、ヨーロッパ諸国による「第三の極」を作るべきだという意識を持ち、フランスをその中心としようとしていたことを、遺作となった回想録の中でも述べている。彼自身はヨーロッパ各国が歴史や文化的背景を無視して統合することは無理だと考えていたが、各国が共同して事に当たる連合にはむしろ積極的だった。そこで西ドイツとは和解・協力を進める反面、アメリカ主導の北大西洋条約機構(NATO)や国際連合には批判的な態度を取り、1966年にNATOの軍事機構から脱退(一般の政治部門には残留)した。そのため、NATO本部はフランスのパリからベルギーのブリュッセルへの移転を余儀なくされた。それと並行して国連分担金の支払いを停止し、アメリカと近い立場を取るイギリスの欧州経済共同体(EEC)への加盟拒否も表明した。この時期には東ヨーロッパ諸国も歴訪している。また当時激化していたベトナム戦争に対するアメリカの介入を批判し、ベトナムの中立化をアメリカに提案したが、受け入れられなかった。この中立化構想は戦後になってアメリカ側でも再評価が試みられるようになった。また、「フランスの安全保障がアメリカの核の傘に依存せずに済む」との信念で、通常兵力削減の代わりにフランス独自の核兵器の開発を推進し、1960年2月にはサハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実験に成功し、アメリカ、ソ連、イギリスに次ぐ核保有国となった。1964年にはイギリスを除く他の西側先進国では最も早く、共産主義政権下の中華人民共和国を国家承認した。2年後、中国で文化大革命が起こった。1967年7月24日には、モントリオール万国博覧会訪問のために訪れていたカナダのケベック州モントリオール市で、群集を前に「自由ケベック万歳!」() と声を上げ、カナダとフランスとの間の外交問題になっただけでなく、ケベック独立運動の火に油を注ぐ結果ともなった。世界的な学生運動の高まりと共に、左派的な発想から現代社会を「管理社会」として告発する機運が高まる。そのさなか、女子寮への侵入を禁止された男子大学生の抗議から1968年、五月革命が勃発する。フランス全土をストライキの嵐が襲い、ド・ゴールは危機に陥る。しかし彼はジョルジュ・ポンピドゥー首相などの勧めもあり、議会を解散して国民の意思を問うことを表明した。それに呼応したド・ゴール支持の大規模なデモが行われ、またオリヴィエ・ジェルマントマがソルボンヌ大学大講堂でド・ゴール支持の演説を行う。五月革命は急速に力を失い、ド・ゴールは議会選挙でも圧勝して危機を乗り越える。しかし翌1969年には、彼が国民投票に付した上院及び地方行政制度の改革案が否決され、その必要がなかったにもかかわらずド・ゴールは辞任した。この改革案自体は議会を通過させることが不可能ではなかったにもかかわらず、ド・ゴールが側近たちの反対を押し切って敢えて国民投票を行った真意は明らかではない。辞任後は地方の山村に住居を移して執筆活動に専念し、翌1970年11月に解離性大動脈瘤破裂により79歳で死去した。『希望の回想』と題した回想録が未完の絶筆となった。遺言書には、「国葬は不要。勲章等は一切辞退。葬儀はコロンベで、家族の手により簡素に行うように」と記されていたが、フランス政府の希望もあり、結局国葬が執り行われた。墓地は希望通りコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズにある。フランス国民は彼の栄誉を讃え、ド・ゴールの名前を施設などに命名している。その主な例は以下の通り。この他にも、フランス国内にはド・ゴールの名を冠した道路や広場が無数にある。またフランス国外でも、カンボジア・プノンペンのシャルル・ド・ゴール通りなど、フランス語圏を中心にド・ゴール由来の名を冠した施設がある。また、その政治姿勢を評価する政治家・評論家も多く、彼らはゴーリスト(ド・ゴール主義者、ド・ゴール派)と呼ばれる。ド・ゴール派はド・ゴール没後もジョルジュ・ポンピドゥー率いる共和国民主連合に結集して議会内最大会派となり、ヴァレリー・ジスカール・デスタンやフランソワ・ミッテランといった非ゴーリズム政権下においても共和国連合として議会に大勢力を維持し続け、ジャック・シラクの元で再び政権を握った。私人としては派手な社交を嫌い、簡素な私生活を送っていた。また保守的で古風な、よき夫・よき父親でもあった。1921年4月7日にイヴォンヌ・ヴァンドルーと結婚し、長男フィリップ、長女エリザベート、次女アンヌの3人の子をもうけた。フィリップの名は、当時の上官で後に宿敵となったペタンが名付け親となり、彼自身から譲り受けた名である。次女アンヌは生まれつき知的障害を持っていたが、ド・ゴールはアンヌが20歳で亡くなるまで惜しみなく愛を注いで育てたと伝えられており、家族に対してすら内気だったド・ゴールが、唯一心を開けていた相手がアンヌだったと、親戚が揃って述懐している。また、妻のイヴォンヌはアンヌの死をきっかけとしてアンヌ・ド・ゴール基金を設立し、恵まれない子どもたちへの援助を行った。弟にピエール・ド・ゴールがいる。ド・ゴールは「わが道を行く」という姿勢をあらゆる局面で強固に貫いたこともあり、遭遇した暗殺未遂事件は第二次大戦中の事件も含めて31件に及ぶ。1962年8月22日にプティ=クラマールで車での移動中に、4人組の暗殺者に機関銃を乱射されるという暗殺未遂事件に遭遇した際は、車内に銃弾を撃ち込まれながらも、運転手や同乗していた夫人ともども無事だった。車から降りて側近に怪我はないかと聞かれると、「4人がかりで人1人殺せないとは銃の扱いが下手くそなやつらだ」と述べたとされる。後にド・ゴールが語ったところでは、彼が常に持ち歩いていた次女アンヌの遺影の額縁が被弾し、銃弾はそこで止まっていたという。好物はシチュー、野菜と肉の煮込み、ロールキャベツなどで、アルコールはワインを少々飲んだ。食欲はきわめて旺盛だったという。また、糖尿病を患っていたものの、規則正しい生活や食餌療法によって血糖をうまくコントロールしていたという。フランスの核武装を推進したが、個人としては日本への原子爆弾投下のニュースを聞いた際、「人類を破滅させることを人間に可能せしめる手段」の登場に絶望感に襲われたことを、回想録の中で語っている。1967年に勃発したビアフラ戦争で、フランスはビアフラの分離独立を支援した。これはビアフラにある石油利権を狙ったもので、ド・ゴールも腹心を通じて巧みに工作員を使い、ビアフラ分離独立運動を先導させ、資金・戦事物資をふんだんに送ったという証言が後にでている。結局アメリカ・イギリス・ソ連の支援を受けたナイジェリア連邦軍が優勢で、ビアフラは悲惨な飢餓状態に陥って崩壊し、独立はならなかった。大戦時の英雄として名高いド・ゴールだが、ことビアフラに関しては自国フランスの利益を優先した(しかも失敗した)として一部から批判がある。ド・ゴールは歴史や文学に通じた一級の教養人で、その文章は多くの批評家から評価されている。2014年1月、ノーベル財団は1963年度のノーベル文学賞候補80人の中にド・ゴールが含まれていたことを発表した。著作中の日本語訳は以下。
出典:wikipedia
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