C53形蒸気機関車(C53がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省がアメリカから輸入したC52形を解析のうえ、国産化した3シリンダー型のテンダー式蒸気機関車である。愛称はシゴサン。汽車製造、川崎車輛の2社により、1928年から1929年の間に97両が量産された。その状況は次のとおりである。なお、本形式は製造中において以下に代表される細部の変更が行われた。大正時代は客車が大型化し、ボギー車が主流となったが、重量やコストの事情で車体の材料としては相変わらず木材が用いられていた。その折1926年9月23日に山陽本線において特急第1列車(後の特急「富士」)が豪雨による築堤崩壊により脱線転覆、車両は大破し、多数の犠牲者を出した。(山陽本線特急列車脱線事故)この列車は当時の国際連絡ルートの一翼を担う最高級列車であり、もし客車が鋼製車体であったならば死傷者数は激減していたのではないかと推定され、世論は紛糾した。そこで翌年度以降鉄道省は従来のナハ22000・スハ28400系大形木造客車の新造を中止し、新設計のオハ31系鋼製客車への切り替えを開始したが、この際一つの問題が発生した。従来量産されていた木造車であれば軽いもので「ナ」級(27.5t以上32.5t未満)、重い20m級3軸ボギー車でも大半が「ス」級(37.5t以上42.5t未満)以下であった各車の自重が、鋼製化に伴い増大して少なくとも1ランク (5t) 重量区分が上がり、さらに1929年より製造が開始されたオハ31系の後継となるスハ32系では従来17m級であった一般型客車が優等車と同様の20m級に変更されたこともあって、各列車の牽引定数が50t以上、場合によっては100t近くも増大したのである。それは列車重量の約20%増大を意味しており、従前の主力大型機関車であるC51形でも力不足となることが見込まれた。当時の技術では2シリンダー機関車としてはC51形を上回る性能を持つ機関車を製造することは困難と判断され、鋼製客車牽引用としては当時諸外国で実用化されていた3シリンダー機関車を採用するのが適当と結論された。3シリンダー機とは、台枠の左右両側だけではなく車両中央線上にもほぼ同型のシリンダーを持つ蒸気機関車である。シリンダーの数を増やすことにより、通常の蒸気機関車に比べ牽引力が増す。もっとも当時は満鉄がミカニを導入し、内地のメーカーに製造させ成功していたものの、鉄道省自身には3シリンダー機の開発経験はなく、鉄道省初の3シリンダー機の開発を前にして1926年に8200形が米国のアメリカン・ロコモティブ社 (American Locomotive Company) より輸入 され、シリンダブロック周辺など三気筒機の特色となる部分は朝倉希一により「大学を出たばかりの頭の柔らかい新人に任せよう」という判断で当時新進の島秀雄が研究を担当した。その他にも、各種補機を含む以後の新型蒸気機関車設計の研究が行われている。本形式に採用されたグレズリー式連動弁装置は、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道 (LNER) の技師長 (Chief Mechanic Engineer:CME) であったナイジェル・グレズリー卿が考案した、単式3シリンダー機関車のための弁装置である。これは通常のワルシャート式弁装置を基本として、その左右のピストン弁の尻棒の先端に連動大テコ(2 to 1 Lever:右側弁の尻棒と連動小テコの中央部に設けられた支点とを結び、中央部で台枠とピン結合される)・連動小テコ(Equal Lever:中央弁の尻棒と左側弁の尻棒を結ぶ)の2つのテコの働きにより、左右のシリンダーのバルブタイミングから差動合成で台枠中央部に設けられたシリンダーのバルブタイミングを生成する、簡潔かつ巧妙な機構である。もっとも、特に大きな力がかかり、なおかつタイミングを正しく維持するために狂いが許されない2本の連動テコについては、支点に用いられる可動ピンを含め剛性、耐摩耗性、工作精度のすべてにおいて高水準を維持することが求められたが、それに見合う高度な保守技術を堅持できた鉄道会社は限られていた。本機においては、参考にした8200形に比べ連動テコを細くしたため高速で動作する際の変形を招き、なおかつリンクの動作中心をピストン弁中心に合わせるのではなくリンクの回転円の外端をピストン弁中心に合わせて設計してあるため、磨耗も変形もない状態でもグレズリー式弁装置一般に比べ中央気筒の動作が理論値から大きく外れ、中央気筒のみ異常な過大出力が発生したり、ピストンの背圧がクランク回転角によっては正圧よりも大きくなって不動現象の原因になるなど、設計は不適当なことこの上なく、島秀雄自身と、彼に一任した朝倉希一の見識がともに疑われる。後に中央クランクの給油が問題になるのも給油ラインを設けなかったことも含めて弁装置の不具合が原因である。東海道本線・山陽本線において特急・急行列車牽引用の主力として運用された。設計主任は伊東三枝(国鉄DC11形ディーゼル機関車設計製造監督)。しかし、構造が複雑で部品点数が多いため整備検修側からは嫌われた。設計そのものもシリンダー周りを担当した島秀雄をはじめとして3シリンダー機構の理解が不十分であり、連動大テコに軽め穴を不用意に設けて曲げ剛性を低下させたり、不用意に台枠を細くしC52よりもボイラー受けを一つ減らすなどして台枠の剛性を低下させるなど、設計陣が枝葉末節にとらわれ、全体を見ずその本質を見失っていた形跡が散見され、これらは運用開始後、台枠の剛性不足による亀裂多発、連動テコの変形による第3シリンダーの動作不良頻発と起動不能などといった重大なトラブルの原因となった。前述の改悪に加え、軌間の狭さに由来する弁装置周りの余裕のなさという致命的なマイナス要因があったため、特にメタル焼けが多発した第3シリンダー主連棒ビッグエンドへの注油(給脂)には想像を絶する困難 が伴うなど、およそ成功作とは言い難かった。このため、お召列車や運転開始当初の超特急“燕”では、信頼性の面からC51形が使用されている。なお、燕の名古屋以西の牽引機は程なくC53形が担当することとなった(沼津電化後は沼津以西をC53形が担当)。それでも戦前の時点では、鉄道省は本機を主として名古屋 ・明石・下関の3機関区を中心とする各機関区整備陣の自己犠牲を多分に含んだ 努力、浜松工場で行われた「10000粁限定」 や「標修車」 などの大規模な整備、修繕 のほか、大阪鉄道局では主として優等列車仕業を担当する明石機関区に、管内配属の本形式のうち最も状態のよいグループを集中配備する ことなどによって辛うじて使いこなしていたが、以後、鉄道省、国鉄を通じ、3シリンダー機関車の製造はおろか設計すらなくなり、日本の蒸気機関車は単純堅実だが性能向上の限界が高くない2シリンダー機関車のみに限定されることになった。もっとも、適切に調整・保守された本形式は、等間隔のタイミングで各シリンダが動作する3シリンダーゆえに振動が少なく、広くて快適な運転台、蒸気上がりの良いボイラ、牽引力の強いことで、乗務員の評価と人気は高かったという。後続のC59形やC62形より乗り心地が良かったと伝えられている。本形式は製造当初グレズリー式弁装置を覆う板が前デッキ側面に設けられていたが、これは整備上の不便から短期間で撤去された。運用開始直後、勾配区間の走行時やブレーキ時に蒸気溜内部に水が入る問題が起こったため蒸気ドーム内部に通風管を設けたが、93号機は試験的に蒸気ドーム高さを増したうえでドーム自体の位置を後方に移す改造を行った。第二動輪のクランク軸は当初動軸一体の鍛造品であったが強度や工作上の観点から組立式に変更、ピストン体やクロスヘッド、内側滑り棒といった箇所も強度の問題から順次改造された。また、1930年代半ば以降は検修上の問題から一部の初期製造車で排障器を移設、蒸気室覗き穴の拡大や前デッキ垂直部を4分割引戸として後期製造車と取り扱いを共通化したほか、88号機は試験的に二段に折れていた前デッキ傾斜部分を一面の開戸に変更した。昭和初期には排煙効果を高めるためC51形と同じく煙突上部や煙室周囲に各種の排煙装置を取り付ける試みがなされたものの、1933年以降は除煙板取り付けが始まったことにより原型に戻されている。除煙板の形状は名古屋・大阪・門司(1935年以降は広島鉄道局に移管)の各鉄道局により長さや高さが若干異なるもの が採用された。このほか、名鉄局と大鉄局所属車の一部には特急・急行列車のロングラン運用に備え炭水車を標準的な12-17形からD50形初期車が使用していた20立方米形に振り替えたものが存在した。本形式が使用した20立方米形炭水車は石炭搭載量を増やすため炭庫の高さや長さを増す改造を施しており、一つの外見的特徴となった。1934年11月には当時の世界的な流線型ブームに乗り、梅小路機関区所属の43号機が鷹取工場における20日の突貫工事で試験的に流線型に改造された。煙室前部を斜めに切り、運転室は密閉式のものに取替え、車体全体と炭水車上部を流線型の鉄板で覆い、機関車本体と炭水車の隙間は幌で覆った。さらに、露出した汽笛にも流線型のキセが奢られる徹底ぶりであった。これらの改造により他機とは全く異なる外観を呈した。塗色も完成直後は海老茶色で、試運転前に黒に塗り替えられたかのように新聞に書かれたが、当初黒以外の案があって採用されなかっただけとも言われている。流線型ブームでは空気抵抗の軽減効果が多く標榜されたが、当時の100km/hに満たない運転速度では空気抵抗が列車の走行に与える影響はごく小さなものであった。それよりも列車の周囲の空気の流れを改善し、煙が列車に絡みつくのを防ぐとともに、走行中に対向列車や駅ホーム上の乗客に及ぼす風圧の軽減を目標としたという。完成後の11月24日には鷹取工場構内で公式試運転を実施し、同年12月1日から1937年7月1日のダイヤ改正で梅小路機関区のC53が特急運用から撤退するまでの間上り「燕」の神戸駅 - 名古屋駅間(明石操車場 - 神戸駅間の回送列車も牽引)、下り「富士」の名古屋駅 - 大阪駅間を担当したほか機関車回送を兼ねて急行17列車の京都駅 - 神戸駅間や普通列車も牽引した。43号機の試験成績が良好だったため、C53を全車流線型に改造するため改造費1両3000円を計上、昭和10年度として10両改造することが内定した が実現しなかった。「燕」の客車も展望車の後部を流線形にし、貫通幌を車体幅一杯まで2400ミリ広げるなどして空気抵抗を3割減らす改造に着手するという計画が報道された が、これも実現していない。運転室内は幌で覆われているため室内の騒音は軽減されたが、その反面、熱がこもり、室内温度が高温になりやすかった。また整備点検には他のC53形よりも約180%多くの時間を要したという。特急運用から外れた直後には炭水車上部のカバーを撤去、戦時中には車体下部のカバーも撤去され、開閉に手間を要した煙室扉にはジャッキを取り付けた。1940年代に入り、2シリンダーで同クラスの性能を持つC59形の完成に伴って幹線の主力機関車の座を譲ったが、あまりに大型であるため、当時は東海道・山陽本線と軍事輸送上から山陽本線並の軌道状態で整備された呉線以外には転用不可能であった。折から戦時体制に突入したために機関車需要がさらに逼迫、にもかかわらず旅客用機関車の製造は中断されたために本形式もフルに運用され、図らずもその寿命を延ばすことになる。だが元々複雑極まる構造であったうえ、戦時の酷使や整備不良、さらには相次いだ戦災や事故による損傷が祟り、戦後すぐに運用を離れる車両が続出した。結局、国産の本線用大型蒸気機関車の中ではもっとも早く、1948年から1950年にかけてすべて廃車となった。その早すぎる廃車に対し朝日新聞の投書欄が発端となり衆議院運輸委員会で取り上げれることになった。1950年(昭和25年)に廃車された45号機は国鉄吹田教習所の教習用車両を経て鷹取工場内に放置されていたが、1962年(昭和37年)に鉄道90周年事業の一環として大阪市港区に開館した交通科学館(のちの交通科学博物館)に保存されることとなり、前年の1961年(昭和36年)に運行可能な状態に復元整備され、9月20日・9月21日には吹田操車場 - 鷹取駅間で2日間記念走行が行われている。1972年(昭和47年)9月に京都市の梅小路蒸気機関車館に移され、現存唯一のC53形として、同館が2016年(平成28年)4月に京都鉄道博物館に新装オープンした後も静態保存されている。2006年(平成18年)、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。製造銘板は1961年(昭和36年)の復元整備時に、汽車会社の協力会社の矢内金属工業(大阪・御幣島)が保管していた木型によって製造当時の様式の物が複製された。現役時代のナンバープレートは廃車後に失われ、復元走行時と交通科学館保存当初は新規鋳造の形式名無しのナンバープレートを装着していたが、後に形式名入りの赤地の物、梅小路移転前後に形式名入りの黒地の物と交換されている。交通科学館から梅小路への移動時は、大阪港駅まで陸路で運ばれ、そこから本線上に復線し甲種輸送された。このほか、同じく1950年(昭和25年)に廃車された57号機が教習用としてボイラー部分を切開した状態で浜松工場に保存されたが、1949年(昭和24年)9月30日から同年11月5日にかけて、廃車となった本形式の炭水車を糖蜜輸送用40t積タンク車タキ1600形に改造する工事が実施された。改造工事は東洋レーヨン、若松車両の2社にて2ロット16両(タキ1600 - タキ1615、本形式32両分)が行われた。これは2両分の炭水車の石炭取出口側(機関車運転室側)を向かい合わせにして永久連結し、炭水車上部の炭庫を取り払い、下部の水槽をタンクとして利用するというものであった。台枠や台車は元の炭水車のものを用いた。永久連結した2両分を1両とし、各々の車両には「タキ16xx前」「タキ16xx後」と表記された。所有者は内外輸送であり、その常備駅は神奈川県の新興駅であった。1956年(昭和31年)7月までに全廃されている。
出典:wikipedia
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