


国鉄181系電車(こくてつ181けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流用特急形電車。本項では前身である20系電車→151系電車および派生系列の161系電車についても解説を行う。1956年(昭和31年)秋の東海道本線全線電化に伴い、東京 - 大阪間を6時間30分で運転する電車特急が計画され、翌1957年に完成した国鉄初の新性能電車となる90系電車を基本に設計された特急用電車が20系電車で、1958年11月に最初に投入された列車の愛称から「こだま形」とも呼称された。東海道新幹線開業前の東海道本線のみならず国鉄黄金時代を象徴する車両で1959年には第2回鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞。20系電車は1959年の車両称号規程改正で151系電車に改称され、1962年には上野 - 新潟間特急「とき」用に製造された派生型の161系電車が落成。1965年には改造と新製車の仕様を統一した181系電車に発展した。本系列を最も特徴付けるのは、高速運転に備えて運転士の視界を確保するため高く上げられた運転台、騒音発生源を客室からできるだけ遠ざけるため電動発電機 (MG : 150kVA) や空気圧縮機 (CP : 3,000L/min) を搭載するボンネットにある。また前灯・尾灯はボンネットの両側面に設けられたケースに収められ、さらに前灯1灯を運転台屋根上に搭載した。屋根上前灯横左右には、通過標識灯やマーズライトの機能を持つ青紫色に点滅するマーカーライトを設置。そのほか、後方防護用として、編成後部時には下部前灯に赤色フィルターを取付け、予期しない停車時用に交互点滅回路が装備された。車体幅は2,946mm(骨基準)。高速運転に備えた低重心設計の観点と乗客全員の着席乗車を前提としたことから、客室床面高さは1,110mm、天井高は2,100mm、屋根高さは3,350mmと極力低く抑えられた。車体長は中間車が20,000mm(最大長20,500mm)、先頭車が21,000mm(最大長21,250mm、1960年以降は21,600mm)である。騒音防止と冷暖房効果向上から構体内面には石綿の吹付け、グラスファイバーの貼付けのほか、床はキーストンプレートの谷を利用し防振ゴムをはめ込んだ浮床構造を採用。電動車は電動機点検口を廃止した。空気抵抗低減を目的に車体断面全周を覆う形でゴム製外幌が採用されたが、保守が容易でないことから「こだま」12両編成化の際にファスナーで接合するタイプに変更され、同時に内幌にもファスナー接合方式が採用された。ところが今度は曲線通過時等の強度に問題が生じたため1962年以降の製造車では外幌が省略され、以前の車両でも撤去。同時に内幌も一般的なものに変更された。塗色は当時話題になっていた欧州のTEE列車に倣い、クリーム4号を地色とした上で窓回り・裾・雨樋に赤2号の帯。ライトケースは逆に赤2号を地色とし、クリーム4号による細線を3本通した翼をイメージさせるものとした。窓回りとライトケース回りの帯端部は、運転台前部窓に対して60度の傾斜角度を持つ。前頭部に設置された特急の"T"を意匠化した逆三角形エンブレムはデザインは一般から公募されたものであり、側面に貼付されたステンレス製JNRマーク共々新たな国鉄特急の象徴として採用された。本系列以前の機関車牽引特急列車では愛称と絵が入ったヘッドマークやテールマークが装着されていたが、本系列では五角形状のアクリル樹脂製電照式愛称板を前面中央部に掲出するスタイルに変更。白色の地に愛称名を文字で記すのみとなった。当初は「こだま」以外の定期運用がなかったため固定式であったが、1960年(昭和35年)の「つばめ」の電車化により交換可能な構造に変更された。先頭部には連結器を常備せず、非常時に取り付けるためのスペースのみが設けられ、通常はその部分を四角いカバー(赤く塗装)で覆う形となっていた。座席は、3等車が2人掛け回転クロスシート、2等車が2人掛けリクライニングシートを採用。完全空調方式を採用したことから、側窓は乾燥空気を封入した二重ガラス複層固定窓とした上で、屋根上にはAU11形分散式冷房装置を独特のキノコ型カバーに2基ずつ納め各車に6基(先頭車は5基)搭載。暖房装置は従来と同じく座席下に電熱ヒーターを搭載するが、従来の架線から直流1500Vを直接通電する方式をやめ、先頭車に搭載する電動発電機 (MG) から供給されるサービス用交流電源から給電する方式を採用した。トイレ・洗面所を各車両に設置し、外国人客を考慮してサロ151形には洋式トイレを採用した。トイレ側窓は小さくして外部から人影が見えないように配慮し、臭気抜き窓は上部が内折式で7センチだけ開く構造である。1958年に「こだま」用として新製された8両編成3本計24両のグループである。当初はTcMMb'Tsの4両を基本編成とし、Ts車に装備された回送運転台を向かい合わせとする基本編成2組を背中合わせに連結。田町電車区(後の田町車両センター→現・東京総合車両センター田町センター)に配置され、同年11月1日より営業運転を開始した。走行機器類は、CS12電動カム軸多段抵抗制御器により2両分8基のMT46A形主電動機を制御するMM'ユニット方式を採用。高速運転に備えて歯車比3.50・弱め界磁率35%とし、SELD発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキを搭載。当初の4M4T→6M6T編成で10パーミル勾配均衡速度103km/h(速度種別A3)、起動加速度はMT比1:1で毎秒1.3km/h、同2:1で毎秒1.6km/hの性能とされた。台車は、DT21系を基本に枕バネを空気バネに改めたDT23・TR58形とを装着した。1959年6月の車両称号規程改正により右表に示す改番を実施した。1959年6月の車両称号規程改正以降に製造されたグループである。「こだま」即ち本系列は速達性のみならず当時の水準を超越した快適性を示したことから電気機関車が牽引する在来客車で運転されていた特急「つばめ」「はと」は、1960年6月1日のダイヤ改正で「つばめ」へ統合した上で本系列への置換えが決定。またこれとは別に1959年12月には年末年始における輸送力増強と置換え準備のためモロ151・150形ユニットとサハ150形を先行落成させ「こだま」暫定12両編成化が実施され、従来編成の神戸方4両ユニットにモロ2両、東京方4両ユニットにサハ2両が組込まれた。なお本グループからは以下の改良ならびに設計変更が実施された。「こだま」暫定12両編成化で1959年から製造されたのが以下の新形式である。続いて「つばめ」「はと」置換えなどで1960年以降に製造されたのが以下の形式である。なお1960年7月1日には、3等級制から2等級制への移行に伴い車体に表示されるモロ・クロ・サロの2等車を表す"2"の等級表記文字が1等車の"1"に変更された。上野 - 新潟間の特急「とき」用に製造された151系の派生型である。1962年6月に信越本線の長岡 - 新潟間の電化が完成し、上越線経由で特急電車を運転するという計画が立案された。全線が直流区間ということもあり、151系投入に白羽の矢がたった。しかし本来平坦線区用の車両が、20‰の勾配が続く上越国境の山岳区間での運用に適するのかという疑問点が残った。そこで1961年6月21日・22日に、同年10月改正用に早期落成した151系電車と157系電車を持ち込み、上越線の新前橋 - 長岡間での比較走行試験を行った。初日に行われた上記151系4M3T編成の試運転では連続勾配での電動機への過負荷による過大な温度上昇が見られ、土合で運転を打ち切った。2日目はサシ151-11を外した4M2Tで再度試運転を行ったが、長岡までの試運転区間は完走できたものの20‰勾配区間では主電動機への過負荷による温度上昇は克服できず、設計陣はそのままの投入が無理という判断を下した。一方でこの1週間前に同時刻で試験を行った157系では、何も問題はなく安定した走行結果が得られていたことから、157系の走行機器と151系の車体を組み合せた設計の本系列を開発投入することになり、1編成9両と予備車6両の15両が1962年に製造され全車田町電車区に配置された。1964年に増発用として発注された3両は製造途中で181系40番台に変更、1965年5月 - 6月には既存の15両全車も181系40番台に改造され国鉄新性能電車初の系列消滅となった。上述2系列を1965年以降に仕様統一した系列で以下の変更点がある。出力増強によって10‰勾配における均衡速度は481系電車と同等の120km/h(速度種別A20)となったため山陽特急では広島 - 八本松間のいわゆる瀬野八越えで補機連結が不要となった。本系列は、151系からの改造車150両、161系からの改造車15両、製造途中で161系から変更され181系として落成した3両、新製車59両、485系からの改造車3両の総計230両で、そのため細かな番台区分が行われている。本項では番台区分による形式解説を行うものとする。151系・161系から改造されたグループ。当初は山陽向け改造車は183系、上越向け改造車を185系とする計画であったが、新幹線の延伸に伴う広範囲な配転が予想されたことから性能を統一することになり、151系からの改造車は0番台(元番号)、161系からの改造車は40番台(元番号+40)に編入された。施工は向日町配置車が吹田工場、田町配置車が161系は全車大井工場、151系はこちらの図表を参照のこと。なお1964年に161系として発注された3両は、製造途中で181系に変更されて1965年1月20日付けで落成しているが、40番台に区分された。車体・車内設備は151・161系の設備を踏襲し、新製された3両についても同様な構造となっている(新製車の台車は当初よりTR58Z形)。モロ150形の乗務員室はモロ160形と同様な乗客専務車掌室に変更され、151系で使用していたシートラジオ・列車電話・食堂車の列車位置表示装置は改造時に撤去されている。151・161系→181系と同時もしくは後に車種間改造されたグループ。全車1979年までに廃車された。当初から181系として新製されたグループで新形式となったクハ180形0番台を除き100番台に区分され、1966年に「とき」増発と新たに設定された「あさま」「あずさ」用として45両、1969年に増発用として8両が製造された。台車はDT32系の枕はりの高さを低くしたDT32C・TR69Cを装着。また中央東線の狭小トンネル対策である通称「山用対策」を全車に、また「あさま」「そよかぜ」に充当車には碓氷峠通過のため「横軽対策」を新造時から施工済。1978年10月2日の白紙ダイヤ改正で「とき」は183系電車1000番台と編成を統一することになり、余剰となるモロ181・180形は車齢の若い100番台が普通車に新津車両管理所(現・総合車両製作所新津事業所)で格下げ改造され誕生した区分番台である。1978年「とき」の編成変更によりモロ181・180形ユニット・サハ180形・サシ181形が編成から外されたが、新たにサロの必要性が生じたため新造もしくは改造によって落成したグリーン車のグループである。1982年11月の本系列運用終了後に1100番台は当初の予定通りサロ481形1500番台に、サロ180-1001・181-1051・1052はサロ110形に改造。1053のみが廃車となった。151系・161系→181系に改造する工事、またクロ・クロハ181形→クハ180・181形やモハシ180形→モハ180形以外にも数々の改造工事が行われている。ここでは、上記改造工事を除いた車両性能の変更や車体構造に関係する工事について触れる。いわゆる20系として落成した1958年製の24両に行われた工事である。新性能電車のフラッグシップ的存在であった電車でもまだまだ改良の余地が多く、151系としても増備車が登場する度に微細なマイナーチェンジともいえる改良が加えられているため、ある意味試作車の量産車化改造に近い部分もある。改造工事は1959年の暫定12両化時、1960年の「つばめ」・「はと」151系化時、1961年ダイヤ改正前の3回にわけて行われた。改造施工はいずれも大井工場。1961年10月1日のダイヤ改正ではサロ1両が減車されることになったが、同時に増発され編成も5本増備されることになったため、余剰となったサロ150形を新編成に組み込むと同時に回送運転台を取付ける改造工事を行った。3位側に回送運転台と妻部に窓・前灯・尾灯等の新設、又後位寄りの貫通引戸を4位側に引くように変更などが施工された。なお1962年増備のサロ150-11は当初より回送運転台を設置している。詳細は、こちらを参照のこと。サロ151形は洋式トイレ付で製造されたが、1961年10月の1等車1両減の11両編成化で和式トイレ付のサロ150形と共通運用されること、編成組成位置が洋式トイレ付のモロ150形次位であったことなどを理由に1962年6月から翌年3月にかけて大井工場で和式化改造が施工された。当時鉄道車両で使用されていた空調機器は冷房のみであったが、ヒートポンプ式では電熱による暖房回路が省略できることから車両設計の面で合理的な利点があり、東海道新幹線での採用が決定した。このため1962年7月にサロ151-6へ試作機となるAU54形を搭載し実用試験を行った。151系・161系の台車枠はDT23・TR58系の台車を履くが、厳密には次のように分類される。1963年9月8日、上り「第1こだま」の東京での折り返し運転に伴う点検時にモロ151-8の台車側はりに亀裂が発見された。原因は6mm厚の台車枠鋼板を使用していた台車が運転の酷使により亀裂を生じたもので、151系全車を点検したところ大井工場で中空車軸の亀裂が発見された。中実車軸への交換を兼ねて、同年中に電動車21両・付随車6両から台車枠鋼板を9mmとした改良型のDT23Z・TR58Z形への交換が開始され、181系改造時にDT23C形以外の全車の台車をDT23Z・TR58Z形に交換している。増加する外国人客に対して、英語の車内放送を行うことになり、サロ151・サロ150形、モロ161形の乗客専務車掌室に磁気録音されたシートの再生装置シンクロファックス(商品名 : リコー シンクロプレーヤー)が取り付けられ、1963年6月10日より使用開始した。1964年10月1日のダイヤ改正で120両が向日町運転所に転属したが、その運用の中には新大阪 - 博多間運転の「つばめ」「はと」も含まれており、電気機関車牽引で交流電化の九州島内へ乗り入れ、電源車のサヤ420形からサービス用電源の供給を受けられるように6編成が改造された。改造内容は下記の通り。田町区所属の特1・4・5・7・9・11編成には、1964年4月から8月にかけて浜松工場で改造が行われ、改造車は側面ナンバーを赤く塗装して他の編成と区別した。翌1965年に481系が増備されたために151系の九州乗り入れは中止され、乗り入れ対策車は181系化改造時と同時に復元されている。その際に一部のクロ・クハ181形は、スカート警笛部の穴が完全に埋め込まれるなどの変形車が出現している。なお、九州乗り入れ改造が決定するまでに次の4案が考慮された。第1案の交流直流両用化改造は予想以上に改造費が高くつき、工期も少なくとも8か月必要であることから断念された。第2案のサシ151形改造案も、工期・費用が予想外に大きいことから選に漏れた。第4案の専用機関車案も、特殊な新形式車両を少数製造することになるうえに、本系列の九州乗り入れは暫定的なものであり、その後の転用を考慮しても好ましくなく選外となった。第3案の電源車方式は編成上は芳しくないが、準備が出来次第直ちに運転可能という大きな利点があることから、本系列の九州乗り入れ方法に決定された。電源発生装置は最も手戻りの少ないことや運転上支障の少ないこと等を考慮して、将来モハ420形への転用を前提としたサヤ420形電源車が新製された。1966年12月に中央東線新宿 - 松本間で「あずさ」の運転を開始したが、高尾以西の狭小トンネル対策として、田町電車区所属の0・40番台車に施工された改造。100番台車では製造時から施工されているが、向日町運転所所属車が関東地区転属の際にも施工された。信越特急「あさま」「そよかぜ」充当車は、横川 - 軽井沢間でEF63形による推進・牽引運転となるためにジャンパ連結器などの装備が備えられたクハ180形が製造されたほか、以下の装備が100番台では新製時から、その他の車両は改造で装備された。1970年代前半に向日町運転所所属のクロハ181-3・5・8・9とクハ181-3・5・7・9・11が、吹田工場でヘッドマークを独特の「ロールマーク」式に改造された。これは、盗難防止とヘッドマークがかなりの重量を持っていたために交換作業の省力化という見地から行われた改造である。電動の自動巻取式で故障時には、ヘッドマーク正面の向かって右側に取り付けられたクランクハンドルの差込口へクランクハンドルを差し込むことで手動で動かすことも可能なものであった。もちろん従来の透過式アクリルヘッドマークも装着可能である。向日町から転出後は、ロールマークの使用をされてはいないがクランクハンドルの差込口が残されているので識別は可能である。難点は、ヘッドマークが奥まって付いているため晴天の日中ではヘッドマークが判読しにくいことであった。181系ではサロ並びにサシ・クハ181形が両渡り構造になっており、この車両を境に引き通し線がクロスされていたが、クハ180形では転用問題から、サハ180形では編成組成の都合上両渡り構造に改造する必要が生じたために施工された。クハ180形の改造工事信越特急「あさま」は、8両編成までの制限があったためにサシを組み込めず、また碓氷峠通過車両は安全上の見地から峠の下側に重量のある電動車を集中させる策が取られたため、サロを長野方のクハ181形の次位に組み込む形になった。そのため引き通し線をクロスさせることが出来ず、クハ180形は偶数向固定の片渡り構造となっていた。1975年に「あさま」・「あずさ」189系化でクハ180-4・5は、新潟運転所に転属し「とき」に転用されることになった。しかし、そのままでは編成に組み込めないため転出前に長野工場で両渡り構造への改造工事が施工された。サハ180形の改造工事1976年に「とき」の第一次12両化が行われたが、その際にモロユニットを方向転換して組み込めばサシ181形で引き通しがクロスされるのでそのまま組み込めることになるが、作業時間や保守の問題からサハ180形を両渡り構造に改造して12両化することになった。参考までに1975年(昭和50年)4月14日に上越線で土砂崩落事故が発生し、5月26日の復旧までに運転本数が削減されたことから、輸送力増強のため4月26日から5月26日まで「とき」が暫定12両運転を行った。この時の編成はサハ180形の改造工事が完了していないため、サシ181形を挟んで新潟方にMM'ユニットを増結した編成となっている。1973年5月、走行中に架線と信号設備を同時に検査する事業用車に改造された。落成後は田町電車区に配置され主に首都圏の通勤路線で運用された。"詳細は、国鉄191系電車を参照。"1972年にサシ181形100番台2両にサシ489形への転用改造を施工した。台車を改造の上で床面高さを揃えているが、181系と485系では車体断面が微妙に違うために若干の違和感が見られ、車両の向きも従来のサシ489形と逆である。また、回送運転台の増設も施工している。1984年2月ダイヤ改正では九州地区特急列車増発短編成化に伴う先頭車不足となることが明らかになった。このため同年1月に上越新幹線開業で保留車になっていたクハ181-109・クハ180-5をクハ481形500番台へ編入する改造が施工された。1986年11月改正で設定された「にちりん」下関発着列車に充当された際、交直切替スイッチがないため小倉で運転打切というトラブルが発生したことから、スイッチ取付の追加改造が施工された。 国鉄分割民営化後もJR九州に承継され、クハ481-501が1993年(平成5年)に廃車となった。これをもって「こだま形」の流れを汲む181系はすべて姿を消した。1978年の「とき」編成変更で投入されたグリーン車のうち新製のサロ181形1100番台は、製造当初から485系への編入を想定した設計であったため「とき」運用終了後にサロ481形1500番台に編入された。外観上の変化は車端ダンパの交換程度である。先頭車化改造を経て2009年現在も4両が残存している。現存車は、クロハ481-1501を除いてジョイフルトレインへの改造種車となったため、新規構体に載せ換えており当時の面影はない。また改造グリーン車のうちサロ181-1053を除いた3両は1983年に東海道本線東京口ローカル列車の113系用に改造転用された。しかし老朽化や2階建てグリーン車(サロ124・125形)の登場による置換えで全車廃車となった。車両番号の推移は#1000・1050・1100番台、改造の詳細は国鉄485系電車#改造車・国鉄113系電車#サロ110形 特急形改造車も参照のこと。151・161・181系の総製造両数は231両であるが、そのうち2両が事故廃車により車籍を抹消されている。東海道新幹線開業直前の1964年4月24日、東海道本線草薙 - 静岡(当時)間を運転中の下り「第1富士」が踏切を横断中のダンプカーと衝突。この事故で以下の車両が被災した。復旧に際し行われた検討でクロ151-7は以下の2点から、国鉄新性能電車の第1号廃車となった。当時の田町区は12両編成12本と中間車7両が配置されていたが、使用11本であった上に事故直前から東海道新幹線開業後の九州乗入れ改造が既に開始されていたこともあり、予備車が確保できず事実上の予備編成なしの深刻な車両不足状態となってしまった。事故当日の下り「第1富士」の大阪 - 宇野の区間運転と折り返しとなる上り「うずしお」の代走には高槻電車区所属の80系電車7両編成が投入された。直後にゴールデンウィークを控えていたこともあり、翌日から次のような運用で運転が確保された。営業上及び体面上、7月からの夏季繁忙期に間に合う1等先頭車が必要だったため代車としてクロ151-7と同時に被災し脱線小破による修理対象だったサロ150-3を種車に急遽選定。改造工事と修理復旧を浜松工場で同時施工した。車内設備はサロ時代のまま回送運転台側の12名分の客室を廃止して運転台を設置したため定員が40名に減少した。このため乗務員室扉の直後に客用扉がある構造になり、クハ181形とも後のクロ481形とも異なる車体形状となった。6月27日には落成して7月1日より運用に投入されたが、わずか3ヵ月後には東海道新幹線開業と181系化改造のために運用から離脱。再度浜松工場に入場し運転室部分を残し新製した2等客室部分と接合する再改造が施工されクハ181-53となった。上記2回の改造によりサロ時代の車両構体は全く残っておらず、新車時から変更されていない部分は台枠と一部機器のみとなった。田町電車区→新潟運転所と転属し「あずさ」「とき」で運用されたが、改造による構造上の問題からか乗務員からは「変な振動や挙動を示す」と評判も良くなく、1975年の「とき」への183系1000番台投入時に最初の余剰車となり廃車解体された。なおクロ150形は実働3か月で登場から廃形式まではわずか8か月強で、国鉄新性能電車としては最初にして最短の廃形式でもある。1979年1月17日、上越線下り特急「とき21号」として運転中に上越線沼田-後閑間で踏切事故に遭遇。モハ181-202は炎上した乗用車を巻き込み火災を発生させた。同車はモロ181-102として製造されたが、前年秋に「とき」の基本編成変更のために普通車格下げ改造が行われ竣工数ヶ月での事故となった。この事故でユニットの相手を失ったモハ180-202は、廃車前提の休車になっていたものの比較的状態の良かった1962年製造のモハ181-29と新たにユニットを組み運用に復帰した。モハ181-29は151系から改造された最後の1両として1982年の運用終了まで使用された。一方で同車とユニットを組んでいたモハ180-13と事故当該車のモハ181-202は1979年2月20日付で廃車となった。1958年11月1日、昭和33年度本予算で製造された24両(8両編成・使用2本予備1本)を田町電車区に配置し、東京 - 大阪・神戸間の新設特急「こだま」2往復に充当した。それまでの電気機関車牽引による客車特急「つばめ」「はと」が同区間を7時間30分で運行していたのに対し、電車特急である「こだま」は、当初6時間50分(後に6時間40分 → 6時間30分に短縮)で運行され、東京 - 大阪間の日帰りを形式的に可能とした。「こだま」の3等乗車率は運転開始から好評で平均95%を上回っていたため、1958年12月28日 - 31日・1959年1月4日 - 7日・5月3日 - 5日・26日を除く8月18日 - 29日に予備編成のMMb'ユニットを5 - 6号車間に増6・7号車として増結し、10両編成(増結ビュフェは営業休止)での運転を行った。さらに1959年12月6日から13日にかけては、昭和34年度本予算で製造されたモロ151・150-1・3・5とサハ150-1 - 6を組込んで順次編成変更が行われ暫定12両編成に増強された。1960年5月31日に昭和34年度1次債務で製造された増備車を組込んで6編成にする編成変更が行われ、翌6月1日から「つばめ」「はと」を電車化して本数が倍増した。1961年10月のダイヤ改正で151系は、新たに東京 - 宇野・神戸の「富士」、東京 - 大阪の「はと」、東京 - 名古屋の「おおとり」、間合い運用となる大阪 - 宇野の「うずしお」にも充当されることになり、昭和35年度本予算で56両が増備され、編成は1等車1両が減車された11両編成で11本が揃えられた。1962年6月には「つばめ」1往復が広島まで延長され、昭和36年度2次債務で11両編成1本(特12編成)が増備された。広島延長では瀬野 - 八本松(通称 : 瀬野八)の急勾配区間でMT比1:1の151系は出力不足が問題になった。同年10月には曲線通過速度の向上により生み出された余裕時分を活かして静岡にも全列車が停車することになった。1963年8月には昭和37年度2次債務で製造されたサハ150形が1両増結され、再び12両編成となった。これに伴い、1往復分の増発に相当する輸送力の増強が図られた。これをもって151系の増備は終了。形式名と同じ151両全車が田町電車区に配置されたが、1964年に1両が事故廃車。東海道新幹線開業により向日町運転所に転属し、山陽本線に活躍の場を移すグループ120両と田町電車区に残るグループ30両に分離。東海道特急での運用を終えた。東海道新幹線開業で、特6・特8編成と編成に組み込まれない予備車を除いた田町区の151系120両が向日町運転所に転入した。大阪・新大阪発着の特急「つばめ」「はと」「しおじ」「うずしお」「ゆうなぎ」の5往復に投入されたが、1965年(昭和40年)10月1日のダイヤ改正では481系増備車落成により「つばめ」「はと」の九州乗り入れは中止され、新設となる新大阪 - 広島間の「しおかぜ」2往復・「しおじ」1往復の増発に転用された。また同年からは181系化改造工事が始まり、1966年(昭和41年)10月のダイヤ改正までに終了した。山陽本線転用後は1等車の利用減少が大きく、1965年(昭和40年)12月にはサロ1両を減車。クロ181形も1966年(昭和41年)から1967年(昭和42年)にかけて貴賓車予備の11・12を除き、順次開放室を2等席に改めてクロハ181形に改造された。軌道強化工事完了に伴う最高速度120 km/hへの向上・運転時分の短縮・同一方面の列車愛称統一などが実施された1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正では、新大阪 - 広島・下関の「しおじ」、新大阪 - 宇野の「うずしお」それぞれ3往復ずつ充当の運用減となり、捻出された車両は関東地区の特急増発に転用され、特1・特2編成が田町区へ再転属となった。さらに1969年(昭和44年)からは、以下の変化が発生した。山陽新幹線岡山開業による1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正では、「うずしお」が廃止、岡山 - 下関間の「はと」3往復と新大阪 - 下関間の「しおじ」1往復に運用が変更され、余剰車は新潟・長野に転属。しかし同年12月から「はと」を485系に置換え、1973年(昭和48年)5月には最後まで残っていた「しおじ」1往復運用も消滅。全車が上信越・中央東線へ転用され、向日町運転所の配置が終了した。田町電車区に新製配置された161系15両により1962年6月10日から運転開始された上越特急「とき」は以下の編成で運転された。9両編成1本と予備車のMsMs'ユニット・MM'ユニットがそれぞれ1組ずつ4両とTc・Tdが1両ずつ計6両。運用は下り列車が上野を16時50分に出発して21時30分に新潟到着後は滞留、翌朝上り列車が新潟を8時30分に出発し上野13時10分到着というダイヤが組まれた。この運用スタイルは東海道新幹線開業後までも守られていたが、この間にはサンパチ豪雪による長期運休、ならびに1964年6月1日 - 30日にはクロ151-7脱線大破事故による157系との混成編成による運転なども行われている。1964年10月1日には東海道新幹線開業による東海道特急全廃が実施され、151系の田町残留車は特6編成と特8編成ならびに予備車の計30両。これらから余剰車となるサロ151-6・150-2を除いた28両が上越特急増発に転用されることになった。そのため大井工場(現・東京総合車両センター)と浜松工場で151系の出力増強・勾配抑速ブレーキの装備・耐寒耐雪装備などのいわゆる181系化改造工事が施工された。これとは別に1965年1月に汽車会社でクハ161-4・5とサシ161-3として製造中だった合計3両を途中でクハ181-44・45とサシ181-43に変更して落成させることにした。1966年10月のダイヤ改正では以下の変更が行われた。1967年10月1日の新清水トンネル開通に伴うダイヤ改正では、「とき」1往復が東京駅乗り入れを開始。1968年10月1日ダイヤ改正では、向日町運転所からの転入車によって、「とき」5往復・「あずさ」3往復と増発。信越特急は「あさま」が直江津までの区間延長を含む1往復増発と季節臨時列車の「そよかぜ」2往復へ投入されることになった・1969年7月1日付で田町電車区から運用移管が行われ、新潟運転所に「とき」「あずさ」用94両、長野運転所に「あさま」「そよかぜ」用32両が転出した。また同年増備の100番台車8両は当初から長野配置となった。1970年10月1日のダイヤ改正で「とき」は6往復、「あずさ」は4往復に増発。1971年4月26日からは立山黒部アルペンルートの開通にともない、「あずさ」のうち1往復が大糸線に季節列車として信濃大町まで延長運転された。1972年3月15日のダイヤ改正では、「とき」が7往復、「あさま」が5往復に増発されたほか、「あずさ」の大糸線運転区間が白馬まで延長された。予備車や検査の都合上中間車がすべて電動車という6M2T編成が組成されることもあった。1973年3月31日をもって東京 - 上野間の回送線が東北・上越新幹線工事の影響で廃止されることになり、「とき」「あさま」「そよかぜ」の東京駅乗り入れが中止となった。1973年10月のダイヤ改正では以下の変更が実施された。この改正後のクリスマス前後から新潟県中越地方に豪雪が襲い、12月28日までに上越線を中心に233本の列車が運休し、181系でも雪が原因となる故障が目立ち始め、翌1974年1月には「とき」最大5往復が運休する事態に発展した。このため、国鉄は耐寒耐雪装備を大幅に強化した183系電車1000番台を急遽開発・投入することとし、1974年12月28日から12両編成で使用が開始され「とき」13往復中3往復を置換えた。1975年7月には、碓氷峠での連結両数制限のため8両以上での運転ができなかった「あさま」・「そよかぜ」の輸送力増強のためEF63形との協調運転により12両編成が可能な189系電車に置換えた。さらに同年12月には、本系列で運用され続けていた「あずさ」も189系に置換えられた。この時点で残存する109両は保留車のサロ180-101を除く108両が新潟集中配置とし「とき」専従運用となった。1978年10月のダイヤ改正では、抜本的な体質改善と183系との編成統一が実施され、本系列は食堂車が廃止された。それに先立ち長野運転所で保留車となっていたサロ180形に小改造を施工した上で新潟運転所に転属させるとともに183系の追加投入により老朽車を淘汰。この結果64両に減少し、運用は14往復中4往復となった。1982年11月15日のダイヤ改正で上越新幹線開業により「とき」は全廃。本系列による営業運転が終了した。一部車両はすぐに廃車されることなく保留車とされていたが、他形式への改造も含め1986年までにすべて廃車・廃形式となった。詳細は「改造工事の項」も参照のこと。1960年代後半、好景気と所得倍増計画などにより以前にも増してレジャーの多様化が進んだ。また国際的避暑地である軽井沢のみならず、新たに開発された首都圏周辺のリゾート地やスキー場も脚光を浴びてきたこともあり、当時の国鉄は旅客輸送での増収を図ろうと臨時特急列車を多数設定し、本系列も投入された。営業運転では、1959年4月10日・12日に東京 - 伊東間で皇太子明仁親王の成婚奉祝記念列車の座席指定臨時準急「ちよだ」へ投入した。これは本系列を使用した唯一の準急列車となった。8月には滋賀県で開催の日本ジャンボリー臨席の皇太子用として、7日の101Tと10日の102TがTs1両増結の9両編成で運転された。同年7月27日 - 31日にB3・B4編成を使用して高速度試験を東海道本線金谷 - 藤枝間の上り線で行い、31日に202km地点付近で163km/hという当時の狭軌鉄道の世界最高速度を記録した。その功績を讃えるため、この試験に使用されたクハ151-3・4の前頭部にチャンピオンマークが廃車直前まで付けられていた。同区間ではその後もクモヤ93000により引き続き高速度試験がおこなわれ、速度記録は更新されている。1960年10月15日 - 22日に東京で開催されたアジア鉄道首脳者会議 (ARC=Asisn Railways Conference) 出席者のため専用臨時列車が東京 - 京都間で運転された。1963年9月17日に昭和天皇と香淳皇后は岡山大学付属病院に入院中であった四女池田厚子見舞いの帰途、上り「第2富士」のクロ151-12区分室に岡山→大阪間で乗車した。これは前日往路のキハ80系特急「みどり」(キロを含む後部3両増結)とともに昭和天皇夫妻が営業運転列車に初めて乗車したものである。また1964年には、香淳皇后が東京 - 岡山間で2月15日の下り「第1富士」、翌16日の上り「第2富士」のクロ151形区分室に乗車している。1964年10月3日 - 25日には東京オリンピック開催にあわせて東海道特急運転終了後も田町残留となった特6・特8編成を充当し、東京 - 熱海間の臨時急行「オリンピア」が運転された。1965年5月27日には台風6号の影響で東海道新幹線が不通となり代替として在来線の東京 - 大阪間に臨時急行列車が運転された。東京発13時の列車に田町電車区の181系10両編成、大阪発13時の列車に向日町運転所の151系12両編成を投入。なお向日町所属車は折返し東京発22時30分の大阪行き臨時急行列車にも充当された。151系は異常時を除き他形式との併結運転は実施していないが、153系電車との併結試験運転が2回にわたり実施された。「あずさ」「あさま」運転開始を前にした1966年7月12日 - 14日には、11両編成で中央本線への、7月16日 - 18日には9両編成で信越本線への乗入れ試験をそれぞれ行っている。1961年10月のダイヤ改正以後は原則として157系電車で運転された「ひびき」は、それ以前に本系列の使用実績がある。山陽本線に転用されたグループは、1等車(現・グリーン車)の乗車効率が芳しくなく1965年10月改正からサロ1両を減車し11両編成となった。捻出されたサロ10両は1966年10月ダイヤ改正で以下の転用計画が打ち出された。電動車化は同改正までに完了できないことから、サロ481形化も同改正では需要がない事からいずれも中止となった。しかし、同改正で関東地区では信越特急「あさま」中央特急「あずさ」の運転開始が計画されたことから別のサロ転用案が浮上。7両が「あさま」転用名義で、3両が「あずさ」ならびに共通運用となる「とき」用として需給調整を兼ねたサハ181形への普通車格下げ改造を施工し、わずか2年で田町電車区へ再転出となった。なお向日町からの転入車のほかまた田町にはサロ150-2・151-6の2両が151系のまま保留車扱いとされており、この2両は1968年 - 1969年に181系化改造が施工された。本系列が所属した車両基地は、田町電車区・向日町運転所・新潟運転所・長野運転所の4箇所であるが、以下の12両は全基地に所属した経歴がある。その一方で番台区分や形式によっては以下の所属経歴がない。181系では計5回のユニット組換が実施されたが、そのうち3回は1969年に単独製造されたモハ180-115が関与する。以下の2両が保存されている。保存車2両は、クハ151形のトップナンバーならびに元々はクハ161形として発注され落成直前にクハ181形となった車両であるが、当初から181系として発注製造された車両は保存されていない。これらとは別に実物大モックアップが京都鉄道博物館で展示される。また2006年に閉館した交通博物館には1962年に大井工場(現・東京総合車両センター)で製造されたサシ151形の車体および内装を模した「こだま食堂」 が設置され閉館日まで営業を実施した。
出典:wikipedia
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