東成郡(ひがしなりぐん)は、大阪府(摂津国)にあった郡。1897年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、概ね下記の区域にあたる。上町台地の上の東半分、上町台地より東側の内陸湿地帯、および大和川に沿った堺市との市境一帯にあたる。「日本書紀」に、大阪湾の中央に南北に突き出した上町台地の東部(河内湖沿い)を「難波大郡」(なにわのおおごおり)、西部(大阪湾沿い)を「難波小郡」(なにわのこごおり)と称したことが記載されている。大郡・小郡とは大化の改新の制度で、五十戸を「里」とし三里で「小郡」、四里~三十里で「中郡」、四十里以上で「大郡」となる。つまり東側のほうが住居が多くはるかに巨大だった。和銅6年(713年)に郡・郷の名称が公式に定められ、東部の難波大郡を東生郡、西部の難波小郡を西生郡(後に西成郡)と称するようになった。東生の「生」は「生る」に由来し、「上町台地の東に新たに生まれた集落」という意味であった。古代の百済の言葉との関係を指摘する説もある。「ナリ」は古代百済語で渡し場を意味すると見られ、たとえば一時百済の首都だった熊津(現在の公州)を「日本書紀」の雄略紀二十一年で「久麻那利」(くまなり)と読んでいるので、「津」を当時「ナリ」と読んでいたことが推定される。つまり、上町台地の「東側の津(ひがしなり)」「西側の津(にしなり)」である。上町台地東側の水運に関して、「日本書紀」の仁徳紀十四年には「猪甘津(いかいのつ)に橋為す。即ち其の所を号けて、小橋(おばせ)と曰ふ。」とあり、おそらく古墳時代ごろには現在の鶴橋駅近くの東小橋周辺に、後に平野川となった川が注ぐ猪甘津という入り江の港があり、その川に物資運搬や通行用の橋が架けられたと思われる。こういった港が「東生郡」と命名された奈良時代まで土砂に埋まらず残っていたかは不明である。『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。室町時代、摂津のうち神崎川以南の西生郡・東生郡・住吉郡の3郡は「欠郡」(かけのこおり)と総称され、分郡守護が置かれた。中世以降「東生」と「東成」の表記が混在するようになり、江戸時代中期以降はほとんど「東成」と表記されている。
出典:wikipedia
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