愛国丸(あいこくまる)は大阪商船が南アフリカ航路へ投入するために建造した貨客船の内の1船。日本海軍に徴用され、太平洋戦争では特設巡洋艦としてインド洋を中心に通商破壊を行った。のちに特設運送船に転じたが、1944年(昭和19年)2月17日のトラック島空襲で沈没した。大阪商船が南アフリカ航路へ投入する初めての新造船として計画、建造された報国丸に続いて建造される。優秀船舶建造助成施設による建造費補助の対象とされた。折からの物資難の時代にもかかわらず、「京都」と命名されたスイートルームなど最高の旅客設備が設けられた。しかし、報国丸とは違って一度も商業航海に就くことなく、竣工の翌日である1941年(昭和16年)9月1日に日本海軍に徴用された。公試運転時、船体は徴用を念頭に所謂グレー系統の軍艦色で塗装されていたが、上部構造と船体には平時塗装と同様の白塗装と白線、煙突も黒と白の平時塗装が施され、この塗装について野間恒は「薄幸の娘に施した餞の化粧」という表現を使っている。9月5日から10月15日にかけて、特設巡洋艦としての艤装が行われた。10月15日付で報国丸とともに連合艦隊隷下に第二十四戦隊を新たに編成し、武田盛治少将(海軍兵学校38期)が司令官となった。11月15日夕方、報国丸とともに岩国を出撃し、11月24日にジャルート環礁に到着。休息の後、11月26日に出撃してツアモツ諸島東方に向かった。12月8日の開戦をの地点で迎え、シドニーとパナマ間の大圏航路を捜索する。12月13日、の地点で東航するアメリカ商船セント・ヴィンセント("SS Vincent" 、6,210トン)を発見し、同船は戦隊に警告を受けたがこれを無視して逃走しようとしたため、砲撃された。砲撃のち雷撃により撃沈して38名の乗員を捕虜としたが、SOSを発信して警報が発せられたのを受信。警戒が厳重になる事が予想されたため、ニュージーランド寄りの航路の捜索に転じることとなった。12月21日に漂泊して整備を行い、年明けの1942年(昭和17年)1月1日、水上偵察機を発進させて新たな獲物の捜索に乗り出した。しかし、報国丸の水上偵察機が行方不明となり、その捜索を行っていたところ、翌1月2日にアメリカ商船マラマ("SS Malama" 、3,275トン)を発見して爆撃を行う。やがて戦隊も追いついてマラマを撃沈し、乗員38名を救助して捕虜とした。マラマはすでにSOSを発信しており、ラロトンガ島の受信局がこれを受信して警報が発せられたのを傍受し、ツアモツ諸島北西海域に移動する。折りしも雨季に差しかかった事や、マーシャル諸島近海にアメリカの機動部隊や潜水艦の出現の兆候が見られたことによりトラックへの帰投に決した。2月4日にトラックに帰投後、次期作戦のため日本本土に回航されるが、2月11日に九州南方でソ連貨物船キム(5,113トン)を臨検するも、疑わしい所がなかったため釈放した。2月12日に大分港に到着し、日系人1名を含む捕虜76名を大分航空隊に引き渡した後、2月14日に呉に帰投。武田少将は連合艦隊参謀長宇垣纏少将(海兵40期)に作戦報告を行い、宇垣少将は戦隊の活動が不調だった事を考慮して海軍省に第二十四戦隊の解隊を意見具申し、その結果、3月10日付で第二十四戦隊は解隊して報国丸とともに連合艦隊付属の身分となった。また、次期作戦までに主兵装が15センチ砲から14センチ砲に改められた。3月20日付で報国丸とともに第六艦隊(小松輝久中将(海兵37期))の指揮下に入り、4月12日に瀬戸内海を出撃してペナンに向かい、4月25日に到着した。4月30日、報国丸およびインド洋で通商破壊を行う第八潜水戦隊とともにペナンを出撃。5月9日、マダガスカル島の東方海上で報国丸がオランダのタンカーであるヘノタを発見して威嚇射撃を行い、停船させた後ボートを降ろしてヘノタに臨検隊を送り込み、捕獲した。ヘノタは後に日本海軍籍に編入され、特務艦大瀬となる。6月5日にはイギリス客船エリシア(6,757トン)を発見し、報国丸の魚雷で撃破。6月17日、第八潜水戦隊との会合点に到着し、燃料と食料の補給を行った。補給を受けた艦のうち、伊16と伊20は5月29日にディエゴ・スアレス攻撃を終えた後であり、伊30は遣独潜水艦作戦第一艦としてロリアンに向かった。7月12日、の地点でニュージーランドの貨物船ハウラキ("Hauraki" 7,113トン)を発見。軍艦旗を翻し、報国丸の威嚇射撃で停船させた後に拿捕し、ペナンに回航させた。ハウラキは後に伯耆丸と改名され、三井船舶の手により運航される。また、ハウラキの船内の積荷の中にはレーダーがあったものの問題にされず、積荷の中ではむしろ、ウイスキーやブランデーなどアルコール類が喜ばれた。さらに、押収した新聞により、シドニー港攻撃の詳細と乗員が手厚く葬られた事を知った。通商破壊戦の他にココス島攻撃も計画されていたが、イギリス海軍がハウラキ奪還を豪語して警戒が厳しくなるのを察知し、作戦は中止となった。作戦終了後は7月26日にペナンに帰投し、昭南に回航されて整備を行った。整備後、報国丸および特設巡洋艦清澄丸(国際汽船、8,613トン)とともに、ガダルカナル島の戦いに投入される第三十八師団(佐野忠義中将)をメダンからラバウルへ輸送した。輸送任務を終えた後は昭南に戻り、11月1日に昭南を出撃してインド洋に向かった。11月11日、ココス島近海で報国丸がオランダのタンカーであるオンディナ("Ondina" 6,341トン)と護衛の掃海艇 ("HMIS Bengal, J243") と交戦するが、オンディナの船尾にある10センチ砲の不意撃ちを受けて炎上し、沈没する。この小海戦に30キロ彼方から駆けつけ、砲撃でオンディナの船橋を破壊し、さらに魚雷を一本命中させてオンディナを炎上させた。「オンディナは暫時沈没する」と判断して報国丸乗員の救助に向かったが、当のオンディナは、一度は退船し小海戦が終わってからオンディナに戻った乗員の手によって復旧に成功し、フリーマントルに引き返していった。この小海戦は、日本海軍の特設巡洋艦による通商破壊戦にピリオドを打つものとなった。12月2日、清澄丸および竣工したばかりの同型船護国丸(大阪商船、10,438トン)などとともに第五師団(山本務中将)の一部をラバウルへ輸送するため昭南を出港した。12月12日にラバウルに到着するも、輸送した部隊もろともマダン、ウェワク攻略の「ム号作戦」にそのまま転用される。12月13日付で第八艦隊(三川軍一中将(海兵38期))の指揮下に入り、12月16日にラバウルを出撃。12月18日に空襲を受けて護国丸が損傷し、さらに軽巡洋艦天龍をアメリカ潜水艦アルバコア ("USS Albacore, SS-218") の雷撃で失うものの、部隊をマダンに上陸させる事に成功して12月20日にラバウルに戻った後、清澄丸とともに12月29日に呉に帰投した。1943年(昭和18年)に入って早々、新たな輸送作戦を行う。ニューギニアの戦いに投入される第二十師団(青木重誠中将)を輸送する丙一号輸送において、第二〇九飛行場大隊と第十四野戦航空修理廠を釜山からラバウルまで急送する。1月14日にラバウルに到着後、青島に向かう。1月25日に青島に到着後、丙三号輸送のため1月29日に出港してパラオに向かう。2月2日にセブに寄港の後、パラオに到着。ここで輸送部隊の編成替えが行われ、護国丸とともに第二輸送隊に加わる。2月19日、第二輸送隊はパラオを出港してウェワクに向かうが、環礁外に出たところでアメリカ潜水艦ランナー ("USS Runner, SS-275") の攻撃を受けるも、水上偵察機の対潜攻撃によりランナーを損傷させて事なきを得た。第二輸送隊は2月22日にウェワクに到着し、物件を陸揚げして任務を完了した。その後も輸送任務に従事し、空母雲鷹とともに航行中の7月10日には、アメリカ潜水艦ハリバット ("USS Halibut, SS-232") の雷撃により魚雷1本が命中して損傷する。10月1日付で特設巡洋艦の任を解かれて特設運送船となり、10月6日から12月31日までの間、特設運送船としての艤装工事を行った。昭和19年1月24日、エニウェトク環礁へ進出する予定の第六十八警備隊(青山英夫海軍中佐)の兵員と軍需品を乗せて横須賀を出港し、2月1日にトラックに到着する。しかし、トラックに到着後にクェゼリン環礁玉砕の報を受けて、行き先はウォレアイ環礁に変更された。2月17日早朝、水上機母艦秋津洲に横付けして荷役作業を行っていたところ、第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機によるトラックへの波状攻撃を受ける。第一波の攻撃により爆弾が命中して甲板を貫通し、烹炊所で爆発。やがて空襲警報が解除されて応急修理に取り掛かるも、間もなく第二波の攻撃が始まる。急降下爆撃により船体前部に直撃弾を受け、別の1機は船橋に接触して爆発。被弾により火災が起き、やがて搭載してあった魚雷や弾薬、ダイナマイトが大爆発を起こして前方に傾斜し、3分で沈没していった。沈没時刻は8時10分だった。乗員のうち12名が戦死し、第六十八警備隊の兵員も青山中佐(同日、海軍少将に特進)以下425名が戦死した。ともに行動した事がある清澄丸、かつて拿捕したハウラキ改め伯耆丸もこの空襲により沈没した。下って1984年(昭和59年)、『トラック大空襲』の著者吉村朝之と、トラックにあるダイビングショップの創始者であるキミオ・アイセックの尽力により、デュブロン島沖の最大80メートルの海底で船体が発見された。船体は敵機が船橋に激突して爆発したことと、1番・2番・3番船倉に搭載してあった魚雷や弾薬、ダイナマイトが大爆発を起こしたため、煙突部分より前が亡失しているが、後部は原型をとどめている。2007年(平成19年)には「現地のガイドが愛国丸の船体内に残留する遺骨を見世物にしてチップを稼いでいる」などと産経新聞が報じたが、水中カメラマンの "satoagg" (ハンドルネーム)氏は、船体の沈没地点がダイバーが活動するには水深が深すぎるため、「危険な大深度のダイビングのガイドをやってくれたお礼」なのかもしれません」「様々な事情(情報)を知らずして現地を非難して欲しくない」などと反論している。
出典:wikipedia
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