来民開拓団(くたみかいたくだん)は、満州開拓団の一つで、熊本県鹿本郡来民町(現・山鹿市)の被差別部落南古閑地区の住人を中心に組織されたものである。入植地はハルピンの南西部。入植戸数は82戸、316人。なお、入植者の3割は被差別部落出身ではなかった。日本史上唯一の、国策によって行われた部落出身者中心の海外移住である。長野県上高井郡の被差別部落でも全戸数41戸の満州移住が計画されたことがあるが、人口185人中103人が老人や子供で占められており、開拓団としては労働力が不足していたため、移住は実現しなかった。もともと南古閑地区では水平社よりも中央融和事業協会の影響が強く、この地区には融和運動(戦前の日本で盛んだった社会運動で、右翼や富裕層の力を借りて部落の地位向上を目指そうとするもの)の有力者がいた。満州に渡れば差別から解放され、20町歩の地主になれるというのが移住計画の謳い文句であった。南古閑地区出身の来民町議、松山政太郎、豊田千代蔵、豊田一次らがこれに賛成し、入植実現に至った。日本の敗戦時に軍から見捨てられ、地元民の襲撃を受け、集団自決した。徴兵などで開拓地に居合わせなかった者は助かったが、それ以外は276名中生き残ったのは宮本貞喜1名だけだった。戦後、生き残った帰国者を待ち構えていたのは、「身内殺しの部落民」という嘲笑だった。
出典:wikipedia
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