ハリファックス大爆発(ハリファックスだいばくはつ、)は、1917年12月6日に発生した爆発事故。火薬によるものとしては世界最大級の爆発である。1917年12月6日にカナダ、ノバスコシア州のハリファックス港で軍用火薬を積んだフランス船籍の貨物船モンブランとノルウェー船籍の貨物船イモが衝突し、モンブラン船上にあったドラム缶入りのベンゾールに着火し、それが船倉のトリニトロトルエン (TNT)、ピクリン酸、綿火薬等、約2,600トンの火薬類に燃え移った。モンブランの船員や水先案内人はボートでハリファックスの対岸にあるダートマスへ逃げたが、火災を起こした無人の船はその後ハリファックスの波止場に流れつき、約25分後に大爆発した。そして集まった消火隊、救助隊、見物人など約2,000人が死亡、約9,000人が負傷し、市の大半は廃墟になった。ハリファックスはノバ・スコシア州の州都で当時の人口は5万人であった。当時ヨーロッパでは第一次世界大戦が起こっており、ハリファックスでは北アメリカからヨーロッパへの軍需品の積み出しが行われ、外洋船の往来が盛んであった。ハリファックスは自然の良港で冬も凍らず、しかもフランス、イギリスへ最短距離の位置にあった。港は南北に細長い入り江をなして、長さ15km、幅は狭いところで0.5kmで、西側に市街があり前面に埠頭が並び、東側は人口7,000人のダートマスがあった。北側には袋状の広い泊地が開けており、北アメリカ大陸からの軍需物資輸送船は、そこに集結し、ドイツ潜水艦対策のため船団を組んで大西洋を渡っていた。入り江の南端の入り口、外洋に開く手前にはドイツ潜水艦の侵入を防ぐための対潜網が敷設されており、夜間は閉鎖し、朝定時に開いた。この時期のハリファックス港は常に混雑しており、外洋船、フェリー、艀、漁船が入り乱れ、港の管理が不十分であり、船舶の小さな衝突は頻繁に発生していた。ノルウェー船籍の貨物船イモ(SS_Imo・5,043トン)はホーコン船長 (Captain Haakon) と39名が乗り組み、前日中(12月5日)に石炭を積み込み出港する予定だったが、順番待ちと作業の遅れで日没を過ぎたため出港を見合わせた。水先案内人ウィリアム・ヘイズ (William Hayes) を乗せ北側の泊地で夜を過ごし、朝早く入り江を南下してきた。この時イモは空船で次の寄港地ニューヨークでベルギー向け民需品(援助物資)を積む予定であった。ハリファックス港で特別検査点検を行い人道援助の協定から積み込む前に参戦国などの外交官らが立ち入り中立国籍船と船内の遵法や状況を確認し合う作業でイモの両舷中央には「ベルギー援助 ("Belgian Relief")」と表示した。フランス船籍のモンブラン(SS_Mont-Blanc・3,121トン)は前夜の到着で入港できず、対潜網の外側で待機していた。戦時中でなければ引退していたであろう老朽船であった。フランス人船長、エメー・ル・メデック (Aimé Le Medec) はこの船での航海は初めてであった。水先案内人、フランシス・マッケイ (Francis Mackey) は前日夕方に港外で乗船していた。この船は第1表に掲げた火薬などの危険な貨物を数日前にニューヨークで積み込んでいた。積荷の危険性を考慮して11月に船倉を材木で内張りし銅釘を使った改装を施していた。火薬類は船倉に、ベンゾールはデッキにあり、船上は火気厳禁であった。ニューヨークを12月1日に出港し、ハリファックスから船団を組みフランスへ向かう予定で、船団に加わる他の船舶を待っていた。なお、火薬積載船は、危険物の取り扱いを示す国際信号旗(B旗)を掲げる規則になっているが、この時はドイツの潜水艦の標的となるを避けて掲げていなかった。事故当日の朝、イモは港の北側の泊地から南下し、モンブランは7時30分に対潜網が開くと同時に北上して来た。水上交通は通常右側通行であるが、ハリファックス港では南の海から入港する船は右側(東側)を通ると埠頭に遠いので、左側を通ることが多かった。イモの乗員はそれを知っていて左側を南下し、左側を通って北上する2隻の船とすれ違った。ところが3隻目のモンブランは、朝もやの中を規則どおり右側(東側)を通って北上した。そして同じ東側を南下してくるイモを見つけ、西側を「規則通り」通れと汽笛で信号した。しかしイモは針路を変えずに東側を通ると返答し、より東側に寄った。両船は港内規則の4ノット以下よりかなり速く、7ノットぐらいで航行していたという証言がある。汽笛の応酬をしているうちに両船はたちまち近づき、衝突を避けようとモンブランは左に転針し、イモは全速力後進をかけた。だがイモは右に大きく振れ、舳先がモンブランの右側に衝突した。8時45分頃であった。衝突と言っても接触程度であり通常ならば小さな事故で済んだが、モンブランにはベンゾールが入ったドラム缶220トンがデッキに3段に積んであり、倒れたドラム缶からベンゾールが漏れ、接触の際の火花で引火し、多量の黒煙を上げ、その火はやがて船倉の爆薬に燃え移った。積荷が大量の爆発物であることを知っていたモンブランの乗組員は積極的に消火をせず(消火は不可能だったと証言している)、すぐにボートに乗り移り、ハリファックス対岸のダートマスに逃げた。逃げる途中彼らは、他の人や船に逃げろと叫んだが、フランス語であったため理解されなかった。ドイツ潜水艦の好目標となるのを避けて火薬積載を示す国際信号旗で掲げていなかったことも災いした。燃え上がり漂流する無人のモンブランは、ハリファックスの第6埠頭に流れ着き、火は埠頭にあった木造の建物に燃え移った。そして、消防隊、救助のため集まった人や船、見物人の真っ只中でモンブランは大爆発した。時刻は9時4分35秒で船の衝突から爆発まで約25分経っていた。爆発の煙は上空7,000mまで上がり、広範囲の地域から望見された。爆発によりモンブランの船体は粉々になり、大砲の砲身が町を越え4km、錨の一部(0.5トン)は逆方向に5km飛ぶほどだった。爆発地点周辺の2km四方は完全に破壊され、さらに各所で起きた火災や爆発の衝撃で起きた18mの高さの津波などで約13,000軒の建物が全半壊、家を失った市民は6,000人に及んだ。衝突したイモはブリッジや上甲板一部構造物と水先案内人、船長ら3人が吹き飛ばされ、乗組員4名は火傷などで犠牲になり船体は津波に持ち上げられダートマスで座礁した。港の周辺には鉄道駅や発電所・電報電話局に郵便局など中枢機能が集中しており、市から外部への連絡が一時途絶した。また現場の周辺は工場密集地帯で、その従業員や管理職など中流・下流の市民が居住。南側の小高い丘を挟んだ比較的上流階級が住む一帯(学校や病院・カナダ軍の駐屯地なども立地)が比較的軽微な被害で済んだのと明暗を分けた。爆発では1,500人がほぼ即死、その日の夜半から翌日にかけての寒波の到来や大雪によって倒壊した家の下敷きになったまま凍死するなど、その後の数日間で400人が死亡している。また失明者も約200名に上った。最初の火災発生時にベンゾールのドラム缶が小さな爆発を起こして火を吹きながら空中を高く飛ぶのを多くの住民が家の中から窓越しに目撃していたところ、直後の爆発の衝撃で割れた窓ガラスによって目を損傷したことに因る。対岸のダートマスは爆発地点から距離があり、人口も少なかったものの、それでも100人ほどが死亡した。ハリファックス市内で被害を免れた地域から医師、看護師、救援人員が集まり、ただちに救援活動が始まった。医療スタッフが不足したため、市内のダルハウジー大学の医学生が動員された。1年生はその年の9月に入学したばかりだったが、この活動で多大の実務経験を得たといわれている。市の消防隊は隊長、副隊長が爆死し、最新式の消防自動車が破壊されたので、近隣町村の消防隊が来援した。朝にハリファックスを出港していたアメリカの医療船は、次々と人員と物資を持って引き返して来た。セントローレンス川は既に氷結していたので、カナダ最大の都市モントリオールからは救援が来られなかった。ボストンとは約1,000kmの距離で鉄道が通じていたため、爆発直後から救援活動が始まり、医者、医料品、救援隊、救援物資が続々と送りこまれた。ハリファックス市民はこれに感謝の気持ちを持ち続け、約90年経った今でも毎年巨大なクリスマスツリーをボストンに贈っている。人的、経済的に多大の損害を受けたハリファックスの住民感情を考慮して、1週間後に査問会議が開かれた。この会議で港の管理責任者がイモは出港を届け出ていないという重大な事実を持ち出したが、実際はこの届け出自体が有名無実で習慣的に実行されていなかったことが明らかになった。さらに、イモの所有者が雇った弁護士によって最後に転針したモンブランに全責任があるという結論で終結した。このため、モンブランの船長、水先案内人、港の管理責任者の3人が殺人罪で起訴・収監され、これに対してモンブランの所有者側は直ちにカナダの最高裁判所に提訴した。これは更に英国枢密院に持ち込まれ、最終的にイモとモンブランが2票ずつ、両方に同等の責任があるとし、殺人罪に問われた3人は証拠不十分で釈放された。本爆発事故を調査する過程において、その威力の大きさが反射波によるものであることがわかった。その後の兵器に利用され、原子爆弾も上空で爆発させることによって破壊力を増した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。